第1115話 泣き落とし

統一歴九十九年五月十一日、午後 ‐ マニウス要塞司令部プリンキピア・カストリ・マニ/アルトリウシア



『マルクスさん』


「リュウイチ様!」


 黙したまま表情を曇らせているリュウイチに焦りを募らせていたマルクスは、おもむろに口を開いたリュウイチが断ろうとしている気配を察するとひざまずいた。


「どうか、この通りであります!

 このグルギアを、お納めください。」


 さすがに平伏まではしないが、マルクスは跪いたまま深々と頭を下げる。それを見たアルビオンニア貴族たちは目を丸くし、一部はうめき声さえ漏らした。一人の下級貴族ノビレスとしてならまだしも、サウマンディア属州の大使としての立場を思えば、マルクスのこの行為はあり得ない。だがマルクスは自分のこの態度だけでは足らないと気づくや否や、椅子に座ったままのグルギアを振り返って押し殺した声で命じる。


「グルギア!

 いつまで座っている!?

 もう回復したならお前もひざまずかんか!!」


「は、はいっ!」


 叱られたグルギアは跳ねるように腰を浮かせると、身体を捻って椅子の座面に持っていた茶碗ポクルムを置き、それから改めて正面に向き直って跪き、両手を胸の前で交差させて俯いた。


『あ~、マルクスさん?』


「リュウイチ様!」


 リュウイチの口調に拒絶の色を感じるとマルクスは頭を下げたまま声を挙げ、リュウイチの発言をさえぎった。高貴な人物の発言を遮るなどあってはならない行為だが、相手が発言しようとしているのに気づかず声を出してしまったと弁明しようと思えばできなくもないギリギリのところをマルクスは攻めている。これには見ているアルビオンニア貴族の方がハラハラしてしまいそうだ。


「このグルギア、先ほど御説明いたしましたように本来ならば名のある神官家の娘として、聖貴族コンセクラータとして、立派な立場にあるはずの女でした。

 ですが一家の家長パテル・ファミリアースがありべかざる陰謀により罪を着せられて処刑され、一家は連座によりことごとく奴隷の身分に落とされ、離散しております。

 それが冤罪であったことは既に確認されており陰謀の主も処刑されておりますが、彼女の家族は離散したまま行方不明。

 そんな彼女が奴隷の身分から解放されるには金で自分の身分を買い戻すか、主人に解放してもらうしかありません。」


『いや、なら献上せずに解放してあげればいいんじゃ……』


 マルクスは抗弁のためパッと顔をあげたが、グルギアは頭を垂れたまま床を見つめる目を驚きで見開いていた。

 グルギアはこの部屋に入ってから急に体調を崩し、椅子に座らされて落ち着きを取り戻すまで周囲の会話はほとんど記憶に残っていなかった。リュウイチの念話もマルクスに向けられたものでグルギアに向けられたものではなかったのでグルギアの精神には何にも作用していなかった。そしてグルギアが落ち着き、意識を取り戻してからもごく短い言葉をマルクスに対して発していたに過ぎなかったので確証は持てなかった。

 しかしマルクスがグルギアにさえ無謀と思えるような勝負に出はじめ、リュウイチのマルクスに対する発言が増え始めるにつれ、ようやく気付いたことがある。


 やっぱりあの貴族様、念話で話してる!?


 神官の家に生まれ育ったグルギアも念話の経験は無い。精霊エレメンタルの存在を感じることはできるし、その経験もあるが、ここまで明確な意味を持ったメッセージをやり取りしたことは無かった。だが今、聞こえる言葉は聞いたことも無い言葉なのに意味が理解できてしまう今のリュウイチとの会話……未経験だったが、それがおそらく本来の念話なのだと理解することはできた。


 高貴な人に仕えるのだとは聞いていたけど……まさか!?


 驚きすぎて混乱するグルギアを置いてマルクスはリュウイチに抗弁する。


「リュウイチ様、このグルギアは一家の再興を夢見ているのです。」


『?

 だから奴隷から解放されたいんですよね?』


 マルクスは跪きリュウイチの顔をまっすぐ見上げたまま顔を横に振った。


「今、グルギアを解放することはできます。

 ですがそれだけでは一家を再興することはできません。

 一家を再興するには家族を探し出し、買い戻して解放するか、あるいは主人に解放してもらわなければならないのです。」


 リュウイチは首を傾げる。


『自由の身になった方がそれはやりやすいんじゃないんですか?』


「今、自由の身になったところで彼女は何もできません。

 金も無く、ただ己が生きていくだけで精一杯というだけの貧民パウペルになるだけです。

 その彼女が奴隷に堕とされた家族を探し出し、家族を解放してもらうなど出来ようはずもありません。

 ですがリュウイチ様の奴隷という身分ならば、リュウイチ様の御威光にすがることが出来ます。

 奴隷と言えどもそれがリュウイチ様やリュキスカ様のとなれば誰もが一目を置かざるを得ません。

 リュウイチ様に、あるいはリュキスカ様に取り入りたいという者は頼まなくても勝手にグルギアの家族を探し出し、その情報を、あるいは本人の身柄をもたらしてくれるでしょう。

 家族を探すのも容易になりますし、買い戻しの交渉もずっと楽になるのです。」


 人権主義・人道主義という見地からは最も忌むべき存在である奴隷……しかし、その奴隷であっても仕える主人や待遇によっては平民プレブスでいるよりもずっと恩恵を享受できる場合も無いわけではない。実際、現在のレーマ皇帝が所有する奴隷のスケレストゥスやカクラウスなどは良い例で、彼らは自らの身分を買い戻すには十分なだけの金を貯めているにもかかわらず、「皇帝の奴隷」という肩書があった方が剣闘士グラディエーターレスラールクタトールとして活動するのに何かと有利な点が多いことからあえて奴隷のままで居続けている。マルクスが言うにはグルギアもまたリュキスカの奴隷という身分になることで、「聖女様サクラの奴隷」という肩書を利用して離散した家族を探そうというわけだ。


 リュウイチは背もたれに体重を預けるように首を反らせ、悩まし気に眉を寄せた。典型的な泣き落としである。思わずルキウスやエルネスティーネに視線を送るが、彼らの表情もまたリュウイチと同じであった。

 マルクスのやっていることは、要するに人質を押し付けようとしているようなものだ。受け取らなければ人質には確実な不幸が待っている。だが、受け取れば……


 いや、こっちの迷惑なんて大したもんでもないのか?


 グルギアを受け取ることでリュウイチが被る迷惑なんてものは実際のところほとんど無いと言っていい。グルギアは間違いなくプブリウスのスパイだろうが、それはネロたちも同じだ。今更一人二人増えたところでどうということはない。グルギアを受け取ることでリュウイチに女を献上しようという貴族が増えるかというと、元々そういう貴族は多いのだ。会う貴族全員がそうだと思って良い。強いて言えば一人受け取ることで、今後リュウイチに女をあてがおうとする貴族の申し出を断りづらくなるというだけだが、グルギアに関してはリュキスカの奴隷ということになるのでリュウイチが受け取ったということにはならないだろう。貴族の申し出を断りにくくなるかというとグルギアを受け取ったからといって悪くはならないはずだ。グルギアという奴隷が増えたことでグルギアを食わせるための人件費は確実に増えるが、そんなものは無尽蔵の聖遺物アイテムと金貨を持つリュウイチにとって痛くも痒くもない。

 この場でグルギアを受け取るデメリット……それはアルビオンニア側が被る迷惑ぐらいなものだ。阻止を試みたアルビオンニア貴族らと攻防を繰り広げたマルクスは不利な状況だったにもかかわらず強引に話を推し進めた。グルギアを受け取るということはマルクスのこの行いを認めることであり、アルビオンニア貴族らの面子を傷つけることになる。が、グルギアの不幸な身の上をどうにかできるというメリットと比べれば、人権主義・人道主義・平等主義という空気の中で生まれ育ったリュウイチからすれば小さいものとしか思えない。少なくともリュウイチにとって、今回の件でグルギアを受け取ればアルビオンニア貴族らに“借り”を作ることになるが、それを返すことはリュウイチにとって難しくない。


 チラリと見たエルネスティーネやルキウスらは渋面を作ってはいたが、リュウイチの視線に対して首を振るなど「断ってくれ」というような意味のジェスチャーなどは送ってきていない。マルクスの泣き落とし作戦を迷惑に思ってはいるのは確実だが、リュウイチのネロたちに対する処遇からしてもう諦めているのかもしれなかった。


『分かりましたマルクスさん。』


「おお! では!?」


 マルクスの顔がパアッと明るくなった。

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