第1106話 グルギア変調

統一歴九十九年五月十一日、午後 ‐ マニウス要塞司令部プリンキピア・カストリ・マニ/アルトリウシア



 この時、グルギアの思考はほぼ停止していた。頭の中をグルグルと何かが回り続け、目に映る床は周囲から何か黒いものに食われて徐々に小さく見えなくなっていく……耳もザワザワして良く聞こえない。マルクスが、他の貴族たちが何かを話しているようだったが、その声はとても遠くてその意味を聞き取れない。


 しっかりしなきゃ……新しい御主人様に気に入られれば、オピテルに会える……ウォピークスの事だって、ミノールの事だって、探してもらえる……


 ……そう、気丈に自分をはげましていたのはこの部屋に入るまで、マルクスに言われて新しい主人になるかもしれない人にひざまずいて挨拶をしてからは何も覚えていない。そんな状態だったから、グルギアは再び呼ばれていることに気づくのにもしばらく時間を要してしまった。


「グルギア……グルギア……」


「……は、はいっ」


 グルギアの名が呼ばれたのは何回目だったのだろうか? 頭上から降って来るマルクスの声にようやく気付いたグルギアは身体をビクッと震わせた。反応の鈍いグルギアをいぶかしみながらマルクスは命じた。


「立て。

 立って顔をあげ、よく見ていただくのだ」


「!……は、はい……」


 ついにこの時が来た……グルギアはマルクスの命じられた意味に気づき、ゴクリと飲み下しにくい唾を無理やり飲みこむ。

 奴隷を取引する際は、奴隷を裸にして怪我や病気などの瑕疵かしが無いかを確認することになっている。売り手と買い手が直接交渉するような取引の場ならまだ良い。奴隷市で競りにかけられる時などは、全裸で衆人の前に立たされるのだ。グルギアはそれを経験していた。人前で裸にされ、一糸まとわぬ姿を無数の嫌らしい視線に晒され、好き勝手に品評され、値を付けられる……それはおおよそ、人間に対する扱いなどではない。人間の尊厳を根底から否定するものだ。その人の魂に致命傷さえ与える冒涜ぼうとくなのである。一度経験した者は二度と経験したいとは思わない。だからこそ、奴隷たちは主人に見捨てられることをひどく恐れる。主人に見捨てられ、売りに出されるということは、再びアレを経験するということを意味するからだ。

 自分という人間の存在価値を全否定された経験はどれだけ時が経とうと決して消え去りはしない。それは魂にまで食い込み、事あるごとに蘇っては精神をむしばむのである。おぞましい記憶は今まさに、グルギアの心を激しく揺さぶり始めていた。


 グラァ……


「お、おいっ!?」


 立ち上がったグルギアを眩暈めまいが襲い、倒れそうになったグルギアを隣にいたマルクスが咄嗟とっさに腕を掴んで支えた。


「どうした!?

 しっかり立て!!」


「す、すみません……ちょっと、立ちくらみが……」


 耳元で小声で𠮟りつけるマルクスに謝罪するグルギアの顔は真っ青だ。表情が歪んでいるのはマルクスに掴まれた腕が痛いからだが、顔色の悪さも相まって誰の目にも具合が悪そうに見える。


 なんだ!? 今朝まで元気だったのにここへ来て急に……

 これじゃ不味まずいぞ、病気だと思われたら断られるかもしれんじゃないか!


 焦るマルクスに背後からルキウスが声をかける。


「いかがなさいましたかな?

 そう言えばその女奴隷セルウァ、ここへ来た時も顔色が良くないようだったが……」


 セリフも表情も心配しているようだが、その声にはかすかに揶揄からかうような喜色が含まれている。

 強引に押し付けるように連れて来られた女奴隷。奴隷を献上する理由もグルギア個人の素性も最早文句のつけようがない。なので、本当にマルクスの説明通りの素性の女なのか、貴族との受け答えが本当にちゃんと出来るのか、最後にそれを確認するためにマルクスにグルギアを立たせて話をさせろと要求したのだが、思いもかけずグルギア本人の健康状態に問題があったようだ。これでルキウスの質問に受け答えが出来ないというのであれば、「ではまた後日改めて」と延期することぐらいはできるだろう。明日以降、急遽きゅうきょ『勇者団』ブレーブスへの対応でグナエウス砦ブルグス・グナエイに行かなければならなくなったマルクスがあくまでも今日中にと食い下がって来るようなら、却って「ではまた今度」と話そのものを延期にもっていくことだってできるかもしれない。ルキウスがグルギアの体調急変をチャンスと見たのも当然のことだった。


「いえ、健康には問題ないのです。

 伯爵閣下が買い求めてからは食事もちゃんと与えてましたし、今朝もしっかり食べさせました」


「その割には顔が真っ青だ。

 ひどく痩せているし、本当は何か問題があるのでは?」


「大丈夫です。

 乗り物が苦手な様なので、馬車に揺られて疲れがでてしまったのでしょう」


 二人の会話はまるで攻守が一気に逆転してしまったかのようだ。

 さすがに一人で立つことも出来ないような病気の奴隷を献上しようとしたなどとなれば醜聞だ。伯爵家の面目は丸つぶれになるし、マルクスの責任も免れないだろう。つい先ほどマルクスはプブリウスが奴隷を献上することの正当性を主張するために、アルビオンニア貴族たちを散々批判してしまったのだから、ここでアルビオンニア側から何らかのフォローが得らえるとは期待できない。


 しかし、今ここで一番不幸なのはグルギア自身だ。奴隷も満足に扱えないくせに見栄っ張りな卑しい下級貴族ノビレスの主人から突然買い取られ、もしも新しい主人に気に入られれば家族を探してやるなどと言われて訳も分からないままアルビオンニアくんだりまで連れて来られ、そして見ず知らずに貴族たちの前に引きたてられて具合が悪くなったのに誰も助けてくれない。本当は横になりたいのだが、マルクスがそれを許してくれない。腕を掴んで無理やりにでも立たせようと許してくれそうもない。これではもはや拷問だ。


「申し訳ありません旦那様ドミヌス……すみません……どうかお許しください……」


 気を失いそうになりそうなのを寸でのところでなけなしの気力で踏みとどまりながら、消え入りそうな声でうわ言のように繰り返している。しかし、周囲で見ている貴族たちは今や思いもかけずに政争の具となっていたグルギアを助けようとはしない。このままマルクスがグルギアの瑕疵を認めれば、この奇襲のような奴隷献上を食い止めることができるのだから助けるわけがない。


『待って!』


 何をすべきか‥…それを適切に判断できたのは貴族同士の政争から一歩引いた位置にいたリュウイチだった。貴族たちからすれば一歩引いた位置ではなく、自分たちの味方でいてほしかったのだが、それは言っても仕方あるまい。


『彼女は本当に具合が悪そうだ。

 別室で休ませた方がいいのでは?』


「いえっ!

 ホントに、それには及びません!!」


 リュウイチの申し出にマルクスは必死に抗弁する。ここで奴隷の瑕疵を認めてしまえば、奴隷の献上が台無しになってしまう。


「彼女も言っています。

 ほんのちょっと、立ちくらみがしただけです。

 すぐに治ります!


 ほらグルギア!

 いい加減にしっかりしないか!!」


 焦るあまりに我を見失ったマルクスはあろうことか腕を掴んで無理やり立たせているグルギアを揺さぶり始める。その様子を周囲のアルビオンニア貴族たちは白い目で見、近くにいたバルビヌスとスプリウスは慌ててマルクスをいさめる。


「いけません幕僚殿トリブヌス!」

「どうか、御平らに!!」


 しかし、部下たちに助けられれば却って奴隷の瑕疵を認めることになる。マルクスは歩み寄り、手を差し伸べる二人を𠮟りつけ、突き放した。


「うるさい!

 大丈夫だからお前たちは控えてろ!

 ほらグルギア!

 ちゃんとしないか!!」


『マルクスさん!!』


 さすがに見かねたリュウイチの、少し大きな声が響いた。

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