第1099話 サウマンディアのもう一枚のカード

統一歴九十九年五月十一日、午後 ‐ マニウス要塞司令部プリンキピア・カストリ・マニ/アルトリウシア



 ああ! そういうことか!?


 分からないことが急に分かった時、頭を悩ませていた問題の答えに気づいた瞬間、そのひらめきはいつだって快感を伴って現れる。目を覆うもうが一瞬で晴れる爽快感を心地よく感じない人間なんて存在しないに違いない。マルクスの浮かべた笑みも、そんな快感から生じた無意識にこぼれたものだろう……マルクスの表情に気づいたアルビオンニア貴族たちの多くはそう思った。ただ一人、エルネスティーネを除いて……


「!?」


 マルクスの笑みに薄気味悪い、何かどす黒いものを感じ、エルネスティーネはそのおっとりとした印象を与える大きな半月型の目を不快そうに歪めてしまうのを辛うじて堪えた。もっとも、堪えられたのはそれだけで、背筋を走る怖気おぞけに思わず手に持っていた派手なフリルのついたレース編みの扇子をギュッと握りしめてしまうのは防げなかったが、幸いなことにエルネスティーネのその仕草に気づいた者はいなかった。


 しめた! 如何いかなる神のおぼしか、何というタイミング!!


 抑えきれずににじみでたよこしまな笑みをエルネスティーネに見られていたとは気づかぬマルクスは、内心でその巡り合わせの良さに喜びをかみしめる。

 リュウイチのおかげで多少なりとも挽回できたとはいえ、肖像画の件はアルビオンニア側にとって奇襲を受けたようなもの……厳しく見ればアルビオンニア側の敗北と言って良い。その上、マルクスの先ほどの怪しい笑みに嫌な予感を覚えたエルネスティーネは話題を次へ移してしまおうと先を急ぐことにした。


マルクスウァレリウス・カストゥス様、そういえば用件は二つとおっしゃられていたようですが、肖像画の他にもまだ何かおありでしたか?」


 その呼びかけに我に返ったマルクスの視線が自分の方へ向けられ、エルネスティーネは鳥肌の感覚の残る腕をもう一方の手で無意識にさする。


「おお、そうでした!

 ああ~~~しかし困りましたな。

 まさか第一聖女様プリムス・サクラの御臨席をたまわれないとは思っておりませんでしたので……」


 そういうマルクスの声も表情も喜色ばんでおり、ちっとも困っている風には見えない。誰の目にもマルクスは何かわざとらしく演技をしているように見えた。そしてそれは、貴族嫌いなルキウスを不愉快にさせる類の態度だった。さすがに腹を立てるほどではないものの、マルクスや他の貴族らがリュウイチに振り回される様を内心小気味よく観察して楽しんでいたルキウスは、それまでよりも醒めた感情でマルクスをたしなめる。


「ゥオホンッ!

 あ~……マルクスウァレリウス・カストゥス殿、リュウイチ様の御前ですぞ。」


 他人の奥方に関する話で目の前の主人をないがしろにしたまま勝手に盛り上がっているのだから確かに窘められて当然な行為であったろう。マルクスはすかさずリュウイチの方へ向き直り頭を下げる。


「申し訳ございませんリュウイチ様。

 本日はリュウイチ様とリュキスカ様のお二人と謁見できるものと思っておりましたものですから……」


 まだ言うか…… ルキウスはかすかに浮かべていた笑みに苦みを滲ませる。


『いえ、こういうことは仕方ありません。

 彼女への伝言があれば預かりましょう。』


「そんな勿体もったいない!

 わざわざリュウイチ様に御言伝おことづてなど、ただ我が主プブリウスから挨拶があった旨だけお伝えいただければ……十分でございます。

 しかし、挨拶は挨拶、用件は用件で別にございまして……」


 本来ならただ適当に相槌あいづちを打ってくれれば後はなにもしなくてよいと言われていたリュウイチが見かねて割り込むが、マルクスの勿体を付けたような態度は変わらなかった。


『しかし、体調を崩して休んでいる者に無理をさせるわけにはいきません。

 その御用件が何なのか、代わりに伺うことはできませんか?』


 リュウイチもさすがにマルクスのこの態度には少し不快に感じていた。ただ、これまでの流れからマルクスが何かを企んでこんな態度をとっているのではという警戒感があって、あえて平静を装うことを意識している。

 リュウイチの表情と声色がわずかに堅くなったのを感じとったマルクスは「イカン」と思い直し、言うことを利かなくなっていた表情筋に慌てて意識を集中する。


 イカン、予想だにしていなかった好展開に気が緩んだ。

 気を引き締めねばまた取りこぼしてしまう。


 両頬を手で押さえて崩れた相貌を戻すと、姿勢を正してリュウイチに向き直る。


奥方様ドミナせっておられるというのに申し訳ございません、リュウイチ様。

 まさか第一聖女様プリムス・サクラが体調を崩されるとは思いもよらなかったものですから、思わず動揺してしまいました。

 どうかお許しください。

 御用件というのは他でもありません。

 実は女の奴隷セルウァを献上しようと御用意していたのです。」


 マルクスの発言に貴族たちはどよめき、リュウイチは表情を硬くした。


 やはり!


 事前にマルクスが見慣れぬ女奴隷を連れて来ており、どうやらリュウイチに献上するつもりのようだと筆頭家令ルーベルト・アンブロスから忠告を受けていたエルネスティーネは咄嗟に前に出た。既に奴隷を献上しようと用意したと明言されてしまった以上マルクスの試みを制止するのは間に合わないかもしれないが、しかしこのまま手をこまねいて見ているわけにもいかない。


マルクスウァレリウス・カストゥス様!」


 エルネスティーネの声は強く、そして鋭かった。マルクスは表情を消してエルネスティーネの方へ視線だけを送る。


「リュウイチ様にはルクレティア様とリュキスカ様の二人の聖女サクラエがおられ、これ以上は所望せぬと申されておられます。

 そのことはマルクスウァレリウス・カストゥス様もお聞き及びの筈!

 まして女奴隷セルウァなど、降臨者様の好むものではございません!!」


 人権主義、人道主義という考えを尊重する《レアル》の価値観では奴隷という存在や制度が忌み嫌われていることはこの世界ヴァーチャリアでも既に知られている。奴隷制を野蛮だと公然と否定し、国中の奴隷を一斉に解放したゲイマーガメルも歴史上には存在していた。

 リュウイチは奴隷を所有しているが、それは奴隷が欲しくて買ったのではなく、自分のせいで処刑されることになった兵卒を憐れに思い、処刑から救うために止む無く奴隷として買い取ったという背景がある。もしもリュウイチが本心では奴隷制度に対して強い感情を抱いていた場合、マルクスのこの試みは最悪の結果を招くかもしれない。


 エルネスティーネはそれを恐れていた。貴族が一度口にしたことを引っ込めることは難しい。ましてや贈り物を突き返すなど、相手の面子を確実に潰してしまう行為であり、力ある貴族相手にそんなことをすれば死を覚悟せねばならないだろう。プブリウスが奴隷を献上しようとするのを公然と批判し、それを撤回させたりすればアルビオンニアとサウマンディアの関係は悪い影響が生じてしまうかもしれない。だが、それでもリュウイチの逆鱗に触れるよりはよっぽど良い。


 サウマンディアの奴隷の献上はアルビオンニアの欲するものではなく、アルビオンニアは関与もしていない……エルネスティーネがサウマンディアとの関係悪化を承知のうえで、それでもあえてマルクスに声を発したのはそれを明確にするためだった。それをしておかなければ、万が一リュウイチが怒り始めた時にアルビオンニアも同罪と見做されかねない。


 女属州領主ドミナ・プロウィンキアエが公然と批判してきた……それは非常に大きな意味を持つ。一国の元首が公然と批判するのと同じであり、一国が敵に回ることを意味している。並の人間ならそれにひるまぬ者はいないだろう。だがマルクスは怯むどころか胸を張って見せた。


侯爵夫人マルキオニッサは誤解をなされておられるようだ。」

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