第1090話 新たな問題の予兆(2)

統一歴九十九年五月十一日、午後 ‐ マニウス要塞司令部プリンキピア・カストリ・マニ/アルトリウシア



「グルギア……グルギウス?……」


 レーマ帝国の古い慣習では女は父親の名前を女性形にした名前を名乗る。ルクレティウス・スパルタカシウスの娘がルクレティア・スパルタカシアと名乗っているのが良い例だろう。平民プレブスの間ではとっくにすたれた慣習だが、それでも伝統を重んじる一部の貴族ノビリタスは今でもその慣習を守っていた。女奴隷が本当に高貴な血筋で名前がグルギアなら、父親の個人名プラエノーメンか、あるいは実家の氏族名ノーメン家族名コグノーメンがグルギウスであることが予想できる。が、エルネスティーネの記憶にグルギウスというレーマ貴族は存在しなかった。


「貴族名鑑を調べましたがグルギウスという氏族も家族もありませんでした。」


 やはりエルネスティーネが考える程度のことはルーベルトも思いつくのだろう。その疑問に先回りして事前に調査した結果を衝立の向こう側から報告する。


記録抹消刑ダムナティオ・メモリアエに処された貴族ノビリタスということ?」


「それは何とも……」


 記録抹消刑に処された者はあらゆる記録からその名が抹消され、存在そのものが無かったことにされてしまう。ゆえに、もしもグルギアが記録抹消刑に処された貴族の一員であれば、公式記録から身元や血筋を辿ることは不可能だ。

 ただ、グルギアという名が氏族名や家族名の女性形とは限らない。レーマでは《レアル》古代ローマの有名人にあやかってその名を個人名に着けてしまう事例は多々ある。古代ローマでは氏族名、家族名だった名前がレーマでは個人名として名付けられていることも珍しくは無いのだ。アルトリウシア子爵公子が個人名として名乗っている“アルトリウス”だって本来は古代ローマ貴族の氏族名なのだが、かつてアヴァロンニアのホブゴブリンに文明をもたらした降臨者が名乗っていただけに、レーマ帝国……特にアヴァロンニア属州にルーツを持つホブゴブリンの間では最もポピュラーな個人名の一つとなっている。

 そして貴族名鑑には未成年の名前は載らない。グルギアが彼女の個人名で氏族名や家族名が別にある貴族だったとしても、そして家族の誰も記録抹消刑に処されたわけではなかったとしても、彼女が成人する前に奴隷に堕とされていたなら貴族名鑑に名前が無かったとしても何の不思議ではない。


「やはり考えすぎでは無くて?」


 沈痛そうなエルネスティーネの呟きはルーベルトに対する懸念というよりも、むしろ事実であってほしくないという願望でしかなかった。


「いえ、只の奴隷にしては変です。」


 いまだ半信半疑だったエルネスティーネだったが、ルーベルトの断定的な物言いに安易に否定も出来なくなる。ルーベルトは属州運営の実務を担うほどの人物だ。その重責は一国の宰相に匹敵する。そのルーベルトが根拠の薄い噂話などを真に受けるわけもない。


「アナタがそう言い切るならそうなのかもしれません。

 根拠を伺ってもよろしいですか?」


「あの女奴隷、我々が会議をしている間に要塞内の公衆浴場テルマエに行って身だしなみを整えていたそうです。」


「それだけですか?」


「いいえ、その時にサウマンディア兵が護衛についています。」


 奴隷が公衆浴場へ行くこと自体は珍しいことではない。公衆浴場は貴族も奴隷も身分の分け隔てなく等しく利用するのはレーマの文化だ。だがそこへ兵士が護衛について行ったとなると明らかにおかしい。


「……偶々たまたま、兵士が同行したというわけではなく?」


「護衛の兵士は公衆浴場テルマエへは行きましたが、入浴はしておりません。

 それどころか女奴隷が入浴している間、脱いだ衣服などを預かっていたそうです。」


 公衆浴場では誰だって服を脱いで裸になる。その時、身に着けていた衣服や貴重品などを狙う泥棒はどこにでもいた。そうした泥棒から客の財産を守るため、荷物や衣服を預かる商売をしている者もいるのだが、常に使用人を連れまわすような裕福な者ならば付き人に預けるのもよくあることだった。ただ、身分の低い者が身分の高い者の荷物を預かるということはあるが、その逆はそれほどない。ましてや男尊女卑の社会で、名誉ある兵士がただの女奴隷の衣類や荷物を預かるというのは……その奴隷がよほど特別な存在か、あるいは兵士がよほど名誉というものに無頓着でない限りあり得ないだろう。


「見間違いではないのですね?」


ゲオルグ衛兵隊長の部下が見張っておりました。」


 エルネスティーネは深い溜息をついた。マルクスが見慣れぬ女奴隷を連れていることにはルーベルトのみならずアルビオンニア側の貴族たちも気づいていた。

 だがレーマ貴族が奴隷を連れて歩くくらいは珍しくもなんともない。まして男主人が性欲処理のための女奴隷を連れ歩くのは、他の貴族との不倫を防ぐ目的からもむしろ健全なことと見做みなされるくらいだ。男の貴族が連れまわす女奴隷について何事かを詮索するなど、野暮やぼを通り越して愚の骨頂でしかないだろう。中には女奴隷に入れ込み過ぎて、公式な愛人としての地位を与えたり、自らの死後に奴隷から解放するとともに少なからぬ財産を相続させることもあるが、その時までは周囲は見て見ぬふりをし、知らぬ存ぜぬで通すのが不文律である。

 しかしその女奴隷が主人が仕事中に公衆浴場へ護衛付きで行っていたとなると話がおかしくなる。奴隷が公衆浴場へ行くこと自体はおかしなことではない。貴族も平民も奴隷も身分の分け隔てなく等しく裸の付き合いをするのがレーマの公衆浴場だ。お気に入りの女奴隷が危ない目にあわないように護衛を付けることも無くは無いだろう。しかし、その護衛がサウマンディア軍団レギオー・サウマンディアの正規兵だとしたらおかしな話になる。使用人や奴隷はあくまでも主人のであって、公共の物ではない。使用人や奴隷を外へ出す際、護衛を付けるとすれば私兵(他の男の使用人や奴隷)を付けるのが当然であって、サウマンディア軍団の正規兵を付けるのは筋が通らない。というより、外聞が悪すぎる。


 サウマンディア軍団の兵士が護衛をしているということは、あの女奴隷はマルクスの私物ではなく、サウマンディア軍団が護衛するに足る存在ということになる。つまりプブリウス・ウァレリウス・サウマンディウス伯爵か、あるいは伯爵家に直接連なる者の奴隷ということだ。公共奴隷という可能性も無いわけではないが、その可能性は無視して良いだろう。サウマンディアが公共奴隷をアルトリウシアに連れてくる理由などない。


プブリウスサウマンディウス伯爵があの女奴隷をリュウイチ様に?」


 ルーベルトが「出し抜こうとしている」とは、まさにそう言うことなのだろう。もっとも、プブリウスからすれば既に二人も聖女サクラを送り込んでいるアルビオンニア側こそのだろうが……。


「でも、リュウイチ様は女はもう要らないとおっしゃられたのよ?

 使用人だって、奴隷が八人もいるから十分だと……」


「しかし、送り込めるものなら送り込みたいという思惑なのでしょう。」


「いくらリュウイチ様が寛大な御方とは言え、下手な女を送り込んで御不興を買うようなことになっては困ります。

 だいたい、リュウイチ様は降臨者様……奴隷という存在をあまり快く思っておられないかもしれないのに……」


 降臨者はさまざまな価値観をヴァーチャリアに持ち込んだ。奴隷という制度を持ち込んだのも降臨者だったと思われるが、奴隷という存在を否定する人道主義人権主義といった考え方を持ち込んだのも降臨者である。特に時代が下るにつれて後者の価値観が重要視されるようになり、中には奴隷制度を否定し全ての奴隷を解放しようと目論んだゲイマーも存在したのだ。

 そんな中でリュウイチは確かに八人の奴隷たちを買い入れたが、それはあくまでもネロたち八人を処刑から救うためだった。リュウイチ自身は他の歴史上の降臨者たちと同じように、奴隷という制度に対してあまり好意ではなさそうな感触をエルネスティーネたちは持っている。実際、奴隷にしたネロたちを厚遇しすぎているし、刑罰で奴隷になっているものを一般人以上に厚遇しないで欲しいととがめだてしても、リュウイチは困った様な顔をして笑ってごまかそうとするだけだった。

 そのリュウイチに奴隷を献上したとして受け取ってもらえる可能性があるとは、エルネスティーネたちには思えない。奴隷制度に肯定的ではない人物に奴隷を押し付けたとして、それを好意として受け止めてくれるかどうかは未知数だ。むしろ不快に思われる可能性の方が高いだろう。


「ええ、ですからいざとなりましたらたら奥方様ダムより掣肘せいちゅうを加えていただきかねばならぬかもしれません。

 どうかその御心積もりをおねがいしたく……」


 マルクスが女奴隷をリュウイチに献上しようとしているのは確かだろう。サウマンディアがそれによってアルビオンニア側を出し抜くというだけならまだ大したことは無い。だが奴隷を押し付けることでリュウイチが不快を露わにするようなことは避けねばならない。まだエルネスティーネたちはリュウイチが何を嫌っていて何に対してどれくらい怒るのか……リュウイチの逆鱗げきりんの位置を知らないのだ。不用意に触れてリュウイチが激昂し、《暗黒騎士ダーク・ナイト》の恐るべき力を振るうようなことになってはアルビオンニアはおろか世界の破滅である。そうなる前にマルクスを牽制し、事態を穏便に解決する……その役割をルーベルトはエルネスティーネに委ねようというのだった。

 実際、サウマンディア伯爵の名代として来ているマルクスを牽制できるとすれば、それはエルネスティーネかルキウスのどちらかしかいない。


 面倒を持ち込んでくれたわね……


 エルネスティーネは鏡に映る自分を見つめ、溜息をつくのだった。

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