第1089話 新たな問題の予兆(1)

統一歴九十九年五月十一日、午後 ‐ マニウス要塞司令部プリンキピア・カストリ・マニ/アルトリウシア



 今日の午前中まで断続的に降り続いていた雨は既に止み、昼から徐々に薄まり始めた空は地面に影を描かない程度の陽光を降らせている。その光も今や黄色味を帯び始め、人々にそろそろ夕食の準備を始める頃合いであることを知らしめていた。会議を終えた貴族ノビリタスたちはリュウイチとの謁見に備え、身だしなみを整えるためにそれぞれの控室へ入り、各々使用人たちに手伝わせながら着替えにお色直しにと余念がない。

 この後はリュウイチとの謁見、そのまま晩餐会へ……陽が沈んでからさらに饗宴へと至る予定になっている。エルネスティーネが着替えている衣装も、夜の薄暗さを踏まえた派手めなものとなっていた。クプファーハーフェン産の特大の孔雀石を中心にアルトリウシア産の真珠をズィルパーミナブルグ産の銀の台座に散りばめた派手なネックレスはアルビオンニア属州を代表する宝飾品産業の集大成である。それらは一歩間違えば品性を疑いかねないほど華美な宝飾ではあるが、同時に身にまとう衣装との組み合わせや夜の闇を背景にすることで息を飲むほどの優美さを醸し出す。どのようなものであれ豪華でありさえすればよいというものではなく、全体のコーディネートが重要になるのだ。

 とはいっても今はまだ明るい。アンティスティアのコーディネートで使うことにしたとはいえ、化粧台の上に並べられた宝飾品類を「やっぱりチョット派手すぎじゃないかしら?」と内心で不安に見下ろしながら、エルネスティーネは溜息を禁じ得なかった。プロテスタンティズムに特有な禁欲的感性を持つ彼女には、華美な宝飾品類で身を飾ることがどうにも罪深いことに思えてならないのだった。


 自領の特産品を広めなければならない事はわかるのだけど……


奥様ダムルーベルトアンブロス様とゲオルグ様がおいになられました。」


 髪型を整えさせているエルネスティーネに、部屋の入口付近で控えていた侍女の一人が報告する。


ルーベルトアンブロスとゲオルグが?」


「はい、何でも火急の御報告があるとか……」


 ルーベルト・アンブロスは属州の運営を取り仕切る侯爵家使用人の筆頭家令、ゲオルグは衛兵隊長である。ゲオルグはともかく、ルーベルトはエルネスティーネと共にこの後リュウイチに謁見するため、やはり身だしなみを整えているはずだった。その彼が我が身の身だしなみをさておいて、エルネスティーネを訪ねてくるなど余程の事であろう。


「……通しなさい。」


 扉が開かれ、ルーベルトとゲオルグが入室する。ただし、彼らは部屋の入り口付近の、衝立で囲われた部分で足止めをされた。さすがに貴婦人が着替えをしているところへ男性が入り込むなど、許されることではない。


「お忙しいところを失礼いたします奥様ダム。」


「火急の報告とのことでしたが?」


 扉が閉ざされると、衝立越しにルーベルトが報告を始める。


「はい、サウマンディア側に何やら不可解な動きがあります。

 マルクスウァレリウス・カストゥス殿は我々を出し抜こうとしているのかもしれません。」


 侍女たちに髪型を整えさせている最中のエルネスティーネは身動きが出来ない。鏡に向かって座ったまま、眉をしかめる。


「不可解な動き?

 出し抜くとはどういうことですか?」


「サウマンディアはリュウイチ様に新たな巫女を献上しようとしているのかもしれません。」


「巫女を?

 リュウイチ様はこれ以上“女”は要らないと、そうおっしゃられていたのではなくて?」


「はい、そのように伺っております。」


 リュウイチに女をあてがい、子を産ませる……それはリュウイチが降臨し、しかも《レアル》に帰れないらしいと知ったこの世界ヴァーチャリアの貴族たち全員が一度は考えたことだ。降臨者の血を引く子を儲けることが出来れば、その魔力を基に国を大きく発展させることが出来る。鉄を溶かすほどの強い火を使おうとすると、火に《火の精霊ファイア・エレメンタル》が宿って暴れ始めていしまうヴァーチャリア世界では、精霊エレメンタルを制御できる魔力の持ち主の存在は製鉄業や窯業には欠かせない。他にも《地の精霊アース・エレメンタル》の加護がなければ栽培できない魔法植物もあるし、《水の精霊ウォーター・エレメンタル》や《風の精霊ウインド・エレメンタル》の加護なしには開発の進まない地域だって存在する。

 だが、高貴な人物の相手は高貴な者でなければならない……そしてリュウイチの降臨を当面の間秘匿しなければならない都合上、リュウイチにあてがうべき貴婦人の選定ができないでいたところ、リュウイチは自分でリュキスカを都合つけてしまい、そのあげくに「他には女はもう要らない」と宣言してしまった。このため、当面の間はリュウイチの女性を宛がうのは控えねばならないという認識を、リュウイチの降臨を知る全ての貴族たちが共有していたはずだ。


「降臨者様のお相手に相応しい高貴な貴婦人を連れて来ていたということですか?

 そのような人物がいたとは気づきませんでしたが……」


マルクスウァレリウス・カストゥス殿が連れて来ていた奴隷女です。」


「奴隷女!?」


 エルネスティーネ思わず身体を震わせて驚いた。それに驚いた理容師たちは咄嗟に手を引き、息を飲む。そのことに気づいたエルネスティーネは「ごめんなさい」と小さく謝って姿勢を元に戻すと、辛うじて衝立の向こう側に聞こえる程度に声を押し殺した。


「たしかに、見慣れぬ奴隷女を連れていましたね。

 ですが、奴隷を!?」


「おそらく、リュウイチ様に献上するつもりで連れてきたものかと……」


「この上なく高貴な御方に最も卑しい身分の女を!?」


 高貴な者の相手は高貴な者が勤めねばならない……ならば奴隷などその対極ではないか。確かに奴隷は人間ではなく、人間の形をした物であるため、あくまでも物として献上するのであれば身分は関係ないのかもしれない。実際、リュウイチの周りには奴隷たちがはべってもいる。だが、仮に身元の定かならぬ奴隷に子供を産ませたとして、果たしてそれが将来サウマンディアのためになるかというと疑わしい。貴族の娘から選ばなければならないという条件をいきなり取っ払う奇手といえば奇手ではあるが、いくらなんでも邪道にすぎるのではないか……商家の出身とはいえ一応下級貴族ノビレスに属する家で生まれ育ったエルネスティーネにも、それなりに貴族とは高貴さとは何なのかという自負のようなものはあった。降臨者に奴隷を献上するという手法は、エルネスティーネからするといくらなんでも容易に認めることはできなかった。


「奴隷と見せかけているだけかもしれません。

 あるいは、今は奴隷でもそれなりの高貴な血筋なのかも……」


「奴隷に偽装して?」


 奴隷ならばどこへ連れて行っても怪しまれることは無い。たしかにアルビオンニア側に警戒させることなく女を連れ歩くには奴隷に偽装するのは有効だろう。しかし貴婦人が奴隷の恰好をし、奴隷として扱われることを認めるものだろうか?

 いや、それ以前にもしも本当にサウマンディア側が貴婦人を奴隷に偽装して連れ込んだとしたらそれは大問題だ。もはやサウマンディアとアルビオンニアとの間に信頼関係は無いと宣言しているようなものだ。異なる領土を抱える領主貴族パトリキ同士なのだから多少の権謀術数はあるだろうが、これは流石にやりすぎである。アルビオンニア側が降臨者リュウイチを守るために強いている厳重な警備を、協力者であるはずのサウマンディアが破ろうとするなど許されることではない。アルビオンニア側の面子を傷つけるだけでは済まないのだ。


「か、考えすぎではありませんか!?」


「確かに奴隷に偽装しているというのは疑いすぎかもしれません。

 ですが、今は奴隷でも元々の血筋はというと……」


「彼女について何か分からないのですか?」


「残念ながら……ただ、名前はグルギアと呼ばれていたようです。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る