第1088話 急ぐ理由

統一歴九十九年五月十一日、午後 ‐ マニウス要塞司令部プリンキピア・カストリ・マニ/アルトリウシア



 侯爵家と子爵家の二つの領主貴族パトリキがいるアルトリウシア……両家の貴族としての格は当然、属州領主ドミヌス・プロウィンキアエである侯爵家の方が上だ。地方領主ドミヌス・テリットリィに過ぎない子爵家では太刀打ちできない。にもかかわらず、降臨者リュウイチの世話を、エルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人ではなくルキウスが中心となって担っているのは、ルキウスがホブゴブリンだからという点が大きい。降臨者リュウイチはヒト、アルトリウシア子爵家はホブゴブリン……血の交わる可能性のない異種族同士であれば、が起こる可能性は無いからだ。

 対する侯爵家はというとヒト種だ。リュウイチとの間に血が交わる可能性は十分にあり、ましてエルネスティーネ本人も男尊女卑社会のレーマ帝国には珍しい女領主。六児の母とは言え、夫は既に他界し今は事実上の独り身、年齢は三十歳……十代半ばで結婚して二十歳になる前に子を儲けるのが当たり前なヴァーチャリア貴族社会では「妙齢」とは言い難かったが、まだまだくらいは十分にできるし、子を産むことも出来なくは無いだろう。そんなエルネスティーネがリュウイチの接遇に積極的な役割を果たせば、上手く行っても行かなくても間違いなく他の貴族たちからあらぬ噂を立てられることになる。

 侯爵家は安泰ではない。先代領主である夫マクシミリアンを火山災害で失い、後継ぎである長男のカールは病弱なうえにまだ八歳。侯爵家親族をはじめランツクネヒト族貴族の中には侯爵家の家督を他の適任者に渡す方が良いと今でも信じている者が少なくない。このような状態でエルネスティーネに領主としての資質どころか貞操まで疑われるような噂を立てられては、エルネスティーネは侯爵家を守っていけなくなるかもしれない。


 そうした背景からルキウスが自然とリュウイチの接遇に関して中心的役割を果たしていたわけだが、ホブゴブリン種とヒト種の間に血が交わることは無いという安心感はここへきてアルトリウスの緊張感を欠かせるという効果を発揮してしまっていたようだ。

 たしかにゴブリン系種族はヒトと交わることは無い。だが現にリュウイチはヴァーチャリアのヒトの女に手を付けており、となった女の息子はリュウイチとの間に血の繋がりがないにもかかわず、母を介して魔力を得てしまった。このことを目の当たりにし、種を超えて魔力を得る機会に気づけないなど、いくらなんでも貴族として緊張感が無さすぎるのではないか……ルキウスが呆れるのも当然であろう。実際、アルトリウスもルキウスによってそのことに気づかされてからは切歯扼腕せっしやくわんせんばかりである。


「まあよい、どのみちすぐにというわけにはいくまい。

 リュウイチ様の御意向、そしてリュキスカ様御本人の御意向を、まずは伺わねばならんだろうからな。」


 ルキウスはガッカリした様子を隠しもせず、目を閉じ、杖を抱え込んで、車椅子の背もたれに上体を沈め込みながら溜息でも吐くようにそう言った。


「まずはカロリーネ様か、その次にアウルスを割り込ませることが出来るかどうか……今から考えておけよ?」


「コトに……リュウイチ様のことを知られても?」


 アルトリウスの妻コトは南蛮豪族アリスイ氏族の娘だ。彼女に仕える侍女たちも、多くがアリスイから付いてきている南蛮人たちである。コトは南蛮貴族らしく非常に筆まめで、ほぼ毎日のように誰かに手紙を書いていた。そのコトにリュウイチのことを知られれば、降臨の事実はあっという間に南蛮に伝わってしまうだろうし、そうなれば南蛮から領民たちへ噂という形で広まってしまうだろう。それを恐れるがゆえに、アルトリウスはリュウイチの降臨についてコトには打ち明けていなかった。

 ルキウスは目を開け、杖の先の銀細工の部分を自分の額にコツンと打ち付ける。


「知られずに済むなら、知られんようにしたいな……」


「乳離れするまで、おそらくあと一月ひとつき二月ふたつきといったところです。

 もう離乳食は始めてましたから……アウルスにリュキスカ様の御乳を貰えるのはそれくらいでしょう。」


 アルトリウスが残念そうに言うと、ルキウスは額から杖を放し、ぐるりと首を巡らしてアルトリウスを見上げた。


「一時的に連れ出せんか?

 乳離れするまでの一か月で良い……アウルスをお前の陣営本部プリンキパーリスに引き取り、南蛮人に気づかれぬよう、アウルスに御乳を飲ませるのだ……

 万が一、コトに知られることになっても使用人どもに知られなければ……

 コトにはせめてあと二月ふたつきの間は誰にも言わんように言い含めればさすがに何でもかんでも言いふらしはすまい?」


「難しいと思いますが、考えてみます。」


 ルキウスの顔を見下ろしながらアルトリウスはそう答えた。内心では無茶だとは思っていたものの、貴族にあるまじき失態を晒した直後であるだけに素直に従うほかない。ルキウスはアルトリウスの反応に満足したのか、フムと小さく鼻を鳴らして前へ向き直った。

 そのルキウスにアルトリウスは気を取り直して話を続ける。そう、彼が話したかった本題は別にあったのだ。


「それはそれとして、ルクレティアのことです養父上ちちうえ

 本当に今後の判断を彼女本人に任せるおつもりですか?」


 アルトリウスがそう問いかけると、ルキウスは痛いところでも突かれたかのようにウーンと難し気に唸った。


「こう言っては何ですが、彼女は非常に子供っぽい感覚で聖女サクラに憧れています。冒険譚に憧れる少年のような無邪気さでね。

 それがリュウイチ様から魔導具マジック・アイテムを与えられ、夢中になっている。

 《地の精霊アース・エレメンタル》様の御加護もありますから、実際マルクスウァレリウス・カストゥス殿の期待以上の仕事をしてみせるでしょう。」


「それはそれで良いことではないか?」


「よくはありません!」


 ルキウスが面倒くさそうに言うとアルトリウスは憤ったかのようにルキウスの座る車椅子の脇にしゃがみ込み、ルキウスの顔を横から覗き込んだ。


「ルクレティアの最大の役目はリュウイチ様にお仕えすることです。

 魔導具マジック・アイテムの力や《地の精霊アース・エレメンタル》様の御加護で悪者を退治することではありません。

 このまま与えられた役割に夢中になり、本来の役目を忘れては本当に春まで帰ってこれなくなりますよ!?」


 アルトリウスの小言は決して的外れではない。ルキウスの認識でも、ルクレティアという娘はそういうところがあった。おそらく、現地でもカエソーやマルクスあたりにそそのかされていい気になって力を使っていたのかもしれない。《地の精霊》がインプを眷属に加えてハーフエルフを捕まえさせたとかいう報告が上がってきているが、その場にいたはずのルクレティアも多少は関わっていたはずである。敵の寄こした魔物を眷属にして逆に敵を攻撃させるなど、本来なら自重すべき危険な行為だ。もしも人目につくようなことになれば今までの秘匿の苦労が全て水泡に帰してしまうかもしれない。それなのにそれを制止することなく実行させ、あまつさえハーフエルフを捕えてくるなど、少なくともルクレティアは事態の推移に対してブレーキを掛ける役割は果たしていなかった可能性が高い。

 

「さすがにそこまでにはなるまい。

 向こうにはまだ護衛に複数人の百人隊長ケントゥリオが付いているのだろう?

 リュウイチ様の奴隷も三人だか四人だか付いていたはずだ。

 ルクレティアが夢中になったとしても、彼らは流石に雪が降る前に帰りたがるだろう。」


「そのような者たちにルクレティアを止めることができるとは、私には思えません。」


 アルトリウスはリュウイチがルクレティアに随行させた奴隷を覚えていた。リウィウス……リュウイチの奴隷たちの中でも最年長のホブゴブリンである。が、彼はアルトリウシアから出発する時、魔導具を装備したまま行こうとするルクレティアを諫めなければならない場面で、ルクレティアを諫めるるどころか逆にリュウイチから魔法鞄マジック・ポーチを貰ってルクレティアを使い方を教え、ルクレティアにおもねり援ける方向で問題に対処してしまっていた。そんなリウィウスがルクレティアの傍にいてルクレティアのブレーキになるだろうか?

 むしろ悪知恵を働かせてルクレティアの行動を煽ってしまいそうな気がしてならない。だいたい、リウィウスにルクレティアを制止できるようなら、ネロの独走を許してリュウイチを攻撃し、奴隷に堕とされるようなことにはなっていないはずだ。


「仮にルクレティアの帰りが多少遅れたとしても仕方あるまい。

 どのみちダイアウルフが片付くまでは待たせるつもりだったのだろう?」


 諦めの悪いアルトリウスにルキウスは逆に匙を投げていた。正直、ルキウスはルクレティアが帰って来たからと言って何かが良くなるとは思っていない。どうせリュウイチはルクレティアが十八歳になるまでは手を付けないと、頑なな姿勢を崩していないのだ。ならばせめて、ルクレティアに魔導具や精霊エレメンタルの力を使わせて聖女としての活動の実績を積ませてやった方が、却ってリュキスカとの間でバランスが取れるだろう。


「事情が変わったのです。

 ルクレティアには一刻も早く帰ってもらわないと……

 リュウイチ様がまたぞろ、勝手に外出しかねません。」


「それはリュキスカ様に任せておくしか無かろう?」


 どうやら事態を理解していないルキウスにアルトリウスは一旦身を引き、口をムニュムニュさせて何かを言いあぐねた後、頭に疑問符を浮かべるルキウスに思い切ったように顔を寄せ、耳打ちした。


「そのリュキスカ様は三日前からが来ておいでです。」


 ルキウスは何やら小難しい顔をしてアルトリウスの言葉を聞いていたのだが、アルトリウスが身を引くと表情を変えずにアルトリウスの顔を見た。そして「あ~~」と小さく声を漏らした。


「それで急いでおったのか……」

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