第1064話 朝のオトの仕事
統一歴九十九年五月十一日、朝 ‐
通常、貴族の屋敷の掃除は屋敷の主人一家が朝食を摂っている間に使用人たちによって一斉に行われる。主人たち一家が食堂に集まり、朝食を終えるまでほぼ半時間出てこないからだ。その間食堂以外の場所で使用人たちがバタバタと忙しく働いても、主人たちの邪魔にならない。もっとも、ただ食事をするだけなら半時間も必要ない。普通に食べるだけなら四半時間かそこらで十分だろう。貴族たちは自分たちが食事を摂っている間に家人たちが掃除をしていることを知っているので、その掃除の時間を確保してやる必要もあって、貴族たちは食事にたっぷりと時間をかける。貴族がただの食事にやけに時間をたっぷりかけてゆっくり食べるのも、食べた後も御茶を飲みながらゆっくり過ごすのも、そうした事情がある。
もっとも、それはあくまでも通常の場合だ。その貴族が健康上の理由などで寝込んでいる時などはもちろん例外となる。
リュキスカは相変わらず寝込んでいた。昨日よりは幾分楽になってきたし起き上がれないわけではないが、身だしなみを整えて他の
頭もお腹も腰も痛くてどうしようもなくて寝ていたいのに周囲でバタバタうるさくされてはたまったものではないが、オトにしろルクレティアの侍女たちにしろなるべく静かにするよう精一杯気を遣ってくれているのは分っているのでリュキスカは頭から枕を被ってやり過ごし、いつしかそのまま寝入ってしまっていた。
「じゃ、じゃあ汚れ物は私が持っていきますんで……」
部屋が片付くとオトは手伝ってくれたルクレティアの侍女たちにそう言い、部屋から出た大量の汚れ物を受け取る。あとはこれを
「……《
ルクレティアの侍女たちが引き上げて周囲に誰も居ないことを確認したオトは小さい声で呼びかけた。
『小さき者よ……たしかオトでしたか?
何か用ですか?』
リュキスカの赤ん坊フェリキシムスが魔力を発散させ、周囲の野良
「昨夜のフェリキシムス様の御様子はいかがでしたでしょうか?」
『フェリキシムスは健やかでいらっしゃいますよ。
私が居るからには野良の
御安心なさい。』
オトには《風の精霊》の姿は見えないが、頭に間違いなく念話は飛び込んでくる。普通、精霊は魔力を持たない人間との対話になど応じてくれることはまず無いが、この《風の精霊》はリュウイチからオトとコミュニケーションをとるよう厳命されているので、オトの呼びかけにちゃんと応えてくれるのだ。
「ありがとうございます。
何かあったらいつでも私をお呼びください。」
『分かりました。
私も主命により姿を隠さねばならぬ身、
何かあればすぐに知らせますから、ここはお任せなさい。』
「よろしくお願いします。」
オトは顔を綻ばせてそう言うと、大量の汚物の入ったカゴを抱えたまま頭を下げた。傍から見ると独り言をブツブツ言って壁に向かって頭を下げているのだから気持ち悪いが、誰の視線も無いことは
レーマの
オトは
「おっ!?」
「あっ!?」
オトは階段を降りきったところで誰かとぶつかりそうになった。階段の昇り口のところがちょうど交差点のようになっているので、今のオトのように大荷物を抱えていたりするとぶつかりやすい。オトは階段を降りきる前に近づいて来る足音に気づき、減速していたので辛うじて避けることが出来た。それはどうやら向こうも同じだったようで、オトとぶつかる寸前に足を止めている。誰だ? と思って抱えた汚れ物の山の脇から見ると、相手はネロだった。
「何だネロか?」
「ああ、オトか……」
ネロは昨日からどうも様子がおかしい。昨日は夕方ぐらいまで姿が見えず、行方知れずだったし、帰ってきたら帰って来たでやけに気落ちした様子で元気がない。今は昨日よりマシになったようだが、それでも普段の誰彼構わず命令口調でしゃべるような貴族気取りの高飛車な態度は鳴りを
「なんだソレ、
ネロは食べ物がどっさり入ったカゴを抱えていた。ネロたちは八人全員がリュウイチの奴隷になるのと同時にアルトリウスの
オトの記憶では今日はネロの当番の日じゃなかった筈だが、また何か理由があって順番を誰かに代わってもらったのだろう。ネロは「自分が報告しなければ!」と思うような出来事があると、その日の当番の者と順番を代わってもらってでも率先して報告していた。それ自体は珍しいことではない。
ネロはオトの視線を追い、自分が抱えているカゴを見られていることに気づくと疲れたように笑った。
「あ、ああ……ちょっとな。
ちょうど
ネロが抱えているカゴは
「相談?」
オトが怪訝な表情でネロの顔を伺うと、ネロは自分が余計な口を滑らせてしまったことに気づき、慌てる。
「あ、ああ……こ、これっ、またみんなに分けとくから。
オトも
じゃ、じゃあっ!」
「あ、おい!?」
ネロは何かを誤魔化すようにぎこちない笑みを浮かべて食べ物の入ったカゴをオトに見せながらそう言うと、呼び止めようとするオトを無視して中庭の方へ走って行った。
オトは抱えた汚れ物の山越しにネロを見送り、独り言ちた。
「……何だアイツ?」
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