第1063話 メルヒオールの相談

統一歴九十九年五月十一日、朝 ‐ ティトゥス要塞カストルム・ティティ・ルキウス邸/アルトリウシア



「アルトリウシア、アイゼンファウスト郷士ドゥーチェ・アイゼンファウスティイメルヒオール・フォン・アイゼンファウスト卿、御入来ごにゅうら~い」


 名乗り人ノーメンクラートルが高らかに告げ、ルキウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵の執務室タブリヌム正衣トガに身を包んだメルヒオールが入室する。ただ、通常トガは左肩に掛けて右肩や右腕が露出するように全身をくるみ、最後に残った端を左前腕に掛けてまとうものだが、メルヒオールには右肘から先が無いため逆に右肩にかけて左腕を出すようにして纏っていた。最後に腕に掛けるはずのトガの端は右肩にブローチで留めている。


おはようございますグーテン・モーゲン子爵閣下ウィケコメス

 お加減がよろしくなったようで何よりです。」


 メルヒオールは凶悪な顔に目一杯の御顔を浮かべて主君であるルキウスにドイツ語とラテン語が入り混じった奇妙な挨拶を告げた。いつもの彼である。


ごきげんようサルウェー、メルヒオール。

 加減が良くなったと言ってもようやく起き上がれるようになったくらいだよ。

 まだまだ完調というわけにはいかん。」


 答えながらルキウスは対面の椅子を手で指して座るように促す。


「大事にしていただきたいもんですな。

 閣下はアタシなんぞより若いんだ。

 先に引退なんてことになられちゃ困りますぜ?」


 メルヒオールは指し示された椅子に遠慮なくドッカと腰掛けた。貴族ノビリタスとしてははなはだ行儀が悪いが、いつものことである。彼はアルビオンニウムの暗黒街の出身……元・アウトローだ。貴族の流儀や作法を身に付けようという意識はあるようだが、それを無理に押し付けては彼らのような人間は却って反発してしまう。こういう人間には礼儀作法であっても無理に強制することなく、あくまでも本人の自発的な努力に任せた方が信頼関係が築きやすい。先代にして初代の子爵グナエウスもそのように接していたし、ルキウスもそれを踏襲している。

 というよりも、嫡子の予備として育てられた貴族家次男坊・三男坊にありがちなことだが、ルキウスは貴族的なものに対して嫌悪感を抱いていたから、むしろメルヒオールたちの様な元・アウトローのこういう粗野で無遠慮な言動は好んでいるところがあった。公の場でメルヒオールたち元・アウトローの家臣たちが礼儀作法を無視したような粗野な振る舞いをして、それを見た生まれながらの貴族たちが眉をひそめるのを横目で見て楽しんだりもしていた。

 メルヒオールに限らないがティグリスやリクハルドなど他の元・アウトローの郷士たちもそのことは薄々気づいており、ルキウスの前ではあえて無遠慮に振る舞っているところがある。もちろん彼らもアウトローとはいえ裏社会で組織を纏めていたわけだからそれなりの政治力はあるので、調子に乗って周囲の生まれながらの貴族たちから反発を買いすぎないように加減はしていた。


「困ることもなかろう。

 私には既にアルトリウス跡取りが居るのだ。

 実際のところ、上手くやってくれてただろう?」


 メルヒオールの見え透いたをルキウスは笑ってかわし、使用人に手を挙げて御茶を入れるようにサインを出す。壁際に立っていた使用人は無言のまま一礼し、御茶の用意をし始めた。

 椅子に腰を落ち着けたメルヒオールはルキウスの方を見ることなく、脇で御茶の用意をし始めた使用人の手さばきを眺めながらルキウスの質問に答える。


「アルトリウス閣下は大変な働き者だ。

 真面目だがアタシらみたいなもんの話もちゃんと聞いてくださる。

 アタシらが頂く次代の領主様としちゃあ文句の付け所が無ぇや。

 ですがね……」


「ですが?」


 御茶のお湯は元々厨房クリナで沸かしてあった物を、ワゴンの上に置かれた小型コンロの炭火で保温してあったものだ。御茶を淹れるまで時間はかからない。室内には香茶の豊かな香りが漂い始め、メルヒオールとルキウスの鼻をくすぐる。メルヒオールは小鼻を膨らませてスゥーッと胸いっぱい吸い込んだ。


「代替わりはもうチョイ待っていただきてぇもんですなぁ。」


「何故だね?

 もう孫のアウルスだって産まれたんだ。

 私はもう一日でも早くアルトリウスに家督を譲って引退してしまいたいんだがね?」


 昨年十一月にアルトリウスには第一子アウルスが誕生していた。ルキウスも何度か見せてもらったが、ハーフコボルトの夫婦から生まれた子供に相応しく赤ん坊なのに妙に大きい。白い綿毛に包まれた愛らしい赤ん坊は、腕に抱いたらズッシリと重かったのを覚えている。ルキウスには子供が無かったので、息子夫婦がやけに羨ましく思えた瞬間だった。

 後継ぎとなる子供を儲けるのは貴族の務めである。アルトリウスはそれを既にやったのだ。もちろん、大人になるまで育て上げねば「やり遂げた」とは言えないが、だが第一歩を踏み出せたという実績は大きい。実際に子を儲けることが出来たということは、不幸にして第一子が夭折ようせつしてしまったとしても代わりの第二子、第三子を儲けることができるということでもあるからだ。


 立派な跡取りがいて、しかもその跡取りは孫まで生んでくれた……もう引退してもいいだろう。


 貴族の家に生まれ、貴族というものを嫌っていたルキウスは領主業についてもなるべく早く引退したいと思い続けていたのだ。というより、貴族嫌いなはずの自分が領主をやっているという事実に対して自嘲しかできない。早く引退したいというのはルキウスの本心だった。


「そいつぁズルいや、閣下!」


「ずるい?」


「閣下は跡取りが出来たかも知れねぇがアタシらアルトリウシアの郷士どもドゥーキムスで跡取りが居んなぁヘルマンニの爺さんぐらいなもんでさ!

 アタシらン中で一番若ぇ閣下が真っ先に引退なんて羨ましすぎまさぁ。」


 メルヒオールがそう言うとルキウスはハハハと乾いた声で笑った。しかし、顔に浮かんでいるのはどう見ても苦笑いである。


『鉄拳』メルヒオールメルヒオール・デア・アイゼンファウストが引退を望んでいるとは思わなかったな。

 まだまだ元気なうちは現役でい続けたがるかと思ってたよ。」


 香茶を淹れ終わり、使用人が二人の前に茶碗ポクルムを差し出す。二人は茶碗を出し終わった使用人がお辞儀をして引き下がるのも待たずに、自分の前に置かれた茶碗を手に取った。


「そりゃ跡取りができるまでは現役を続けるつもりですがね。

 生憎とアタシの跡取りはまだスパルタカシウス様のところで勉学を学んでる真っ最中でさぁ。

 まだまだどうなるか分かったもんじゃねぇや。」


 愚痴るように言うとメルヒオールは手に取った茶碗を口元に寄せ、フーフーと息を吹きかける。

 メルヒオールの次男カスパルはルクレティウスに師事していた。アイゼンファウスト地区からルクレティウスの住むティトゥス要塞カストルム・ティティに通うのは難しいため、親元を離れてティトゥス要塞内のメルヒオールの屋敷で生活している。昨夜、宴会コンウィウィウムに出席するわけでもないのにメルヒオールの妻マーヤがめかし込んで一緒にティトゥス要塞に同行してきたのは、息子に会うためだったのだ。


「カスパル君は、お兄さんに負けず劣らず優秀だと聞いてるよ。

 もうすぐ“卒業”なんだろう?」


「おかげさんでね……アチッ!」


 まだ熱い香茶にせっかちに口を付けたメルヒオールは小さく悲鳴をあげて茶碗を口から離す。メルヒオールが顔をしかめているのは熱すぎる御茶で口を火傷したからか、それともルキウスがウッカリ「お兄さん」と言ったからなのかは本人も分からない。


「勉学は修めても、それだけじゃあまだまだ郷士ドゥーチェにゃあ足りやせん。

 勉学以外にね、実績ってぇ奴を積ませてやりてぇんですがね。」


 そこまで言うと再び御茶をフーフーと吹き始める。普通、香茶はまず香りを楽しみ、それから口に入れて風味を愉しむものだ。このようにフーフーと湯気と一緒にせっかくの香りを飛ばしてしまっては意味が半減してしまう。現にルキウスの方は茶碗を胸元に持ち、そこからゆったりと上がって来る香りを愉しんでいた。そのルキウスの表情がわずかに曇る。


「勉学以外の実績?」


「ええ、今日閣下ンところに表敬訪問サルタティオに来たのはそのことなんでさぁ。

 もちろん、スパルタカシウス様にも相談させていただきやすがね?」


 ふーん……ルキウスは気のない返事をしながら茶碗を口元へ運び、一口啜った。そしてタンッと部屋中に聞こえるほど舌鼓を打ち、思い切ったように尋ねる。


「君は我が領の郷士ドゥーチェだ。

 今般こんぱんの復興事業の働きも並々ならぬものがあると聞いておるよ。

 その君の頼みとあれば、応えるのもやぶさかではない。

 言ってみたまえ。」


「へへっ、ありがてぇや。」


 メルヒオールは茶碗を降ろし、前のめりになって顔を突き出した。


「実はウチのカスパルの奴をね、ハン支援軍アウクシリア・ハン討伐で初陣させてやりてぇんでさ。」

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