第1062話 サルタティオ

統一歴九十九年五月十一日、朝 ‐ マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



 アルトリウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵公子は肘掛け椅子カニストラ・カティドラに身を沈めると、肘掛けに突いた頬杖に二日酔いの治まらぬ頭を預けた。昨夜はそんなに飲んでない。リュウイチの晩酌に付き合って黒ビールを角杯リュトンに数杯といったところだ。それは巨躯を誇るアルトリウスからすれば全然酔っ払うような酒量ではない。実際、昨夜リュウイチの前を辞して部下であるクィントゥス・カッシウス・アレティウスから裏口ポスティクムで報告を受けている時、既に酔いが醒めて頭痛が始まっていたくらいなのだ。今朝だって吐き気は無かったし、朝食イェンタークルムだってちゃんと食べれた。頭がガンガンするような頭痛も、クラクラするような酩酊感めいていかんも無い。だがどうにもスッキリしない。不快だ。胃がもたれる。体がだるい。頭が重たい感じがする。


 まいったな……一昨日の飲みすぎたせいか?

 まったく、リクハルド卿のおかげで酷い有様だ……


 一昨日の夜、サウマンディアから来たマルクスを歓迎する宴会コンウィウィウムでどういうわけかリクハルドと飲み比べになり、二人とも意地を張り合って記憶をなくすほど酔ってしまった。昨日の夕方には頭痛が気にならない程度には回復したはずだったが、胃腸の方は回復しきれていなかったらしい。まだ荒れていた胃にコッテリとした鹿肉のローストステーキを皿に山盛り分も詰め込み、その後に黒ビールを流し込んだのだからアルトリウスの今朝の不調も当然と言えば当然であろう。真っ黒な肌で覆われた全身にびっしりと体毛を生やしたハーフコボルトだから分かりにくいが、もしヒトだったらアルトリウスの肌は死人のように真っ青だったに違いない。

 ハッキリ言ってこういう日は無理せず寝ているべきである。仕事だなんてとんでもない。が、そういうわけにはいかない。アルトリウスは上級貴族パトリキであり保護民パトロヌスだからだ。保護民は被保護民クリエンテス表敬訪問サルタティオを受けなければならない。

 だが、アルトリウスはここのところ数日、まともに表敬訪問を受けることが出来ていなかった。宿舎として扱っているこの陣営本部プラエトーリウムで起居した朝はなるべく受けるようにはしているし、レーマ貴族ノビリタス・レーマエならばどこへ行くにも先触れプラエクルソル名乗り人ノーメンクラートルを使って行く先を明らかにするものであるから、自宅以外へ泊ることがあれば宿泊先へ被保護民が表敬訪問に集まることもある。だが領主代行として、あるいは軍団長レガトゥス・レギオニスとして公務により朝から出かけねばならないなど、どうしても対応できないことは珍しくない。それがここのところ続いていたのだ。

 今朝も本当なら昨夜はティトゥス要塞カストルム・ティティの実家に泊まる予定だったので被保護民たちの表敬訪問には対応できないはずだったのだが、リュキスカの不調により急遽マニウス要塞カストルム・マニに戻ることになったために久々に表敬訪問のための時間が出来た。ティトゥス要塞からマニウス要塞に来る予定のエルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人とその家族および養父ルキウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵、そしてマルクスらが到着するはずの昼頃までは何の予定もないからだ。都合がついてしまった以上、保護民としての役割を放棄するわけにはいかない。

 で、体調不良をおし応接室タベラリウムに腰を据えたアルトリウスの前には、今日一番の被保護民がかしずいているのだった。


御機嫌麗しゅうサルウェー軍団長閣下レガトゥス・レギオニス。」


 アルトリウスは頬杖を突いたまま大様おおように片手をあげて応える。


「ふん……クィントゥスカッシウス・アレティウスから話を聞いているぞネロ。

 貴様、脱走しようとしたそうだな?」


 言われたネロはピクッと身体を震わせ、チラリと頭をあげてアルトリウスを見上げるとすぐに身体を縮こませた。

 朝一番の表敬訪問はネロだった。ネロたちは交代でアルトリウスか、アルトリウスの家令であるマルシスに表敬訪問することになっており、彼らの表敬訪問は他の被保護民よりも優先して一番に受けることになっている。これはネロたちが正式にアルトリウスの被保護民になった時に決められていたことだ。


「わ、私はただ……母に……」


「母だろうが何だろうが外出は許可できん。

 それはクィントゥスカッシウス・アレティウスも言っていただろう?

 貴様だって承知していたはずだ。」


 言い訳を始めたネロを遮るようにアルトリウスが言うと、ネロはビクビクと小さく震わせていた身体をピタリと硬直させた。


「逃亡奴隷として処刑でもされることになれば、貴様の母は余計に悲しむのではないか?」


 畳みかけるようにアルトリウスが言うと、ネロの身体が再び震え始める。先ほどまでの怯えたような落ち着きの無い震えではなく、内から湧き上がる感情が溢れているような震え方だ。


「し、しかし……母は……母は関係ないのに……」


 ハァーーーッとアルトリウスが盛大な溜息をつき、ネロがブルッと身を震わせる。


「そういうのも含めて罰なのだ、ネロ。」


 ネロが顔をあげ、アルトリウスを見上げた。憐れを誘うような、縋るような眼をしていた。アルトリウスは頬杖を止め、身体を起こすとネロを見下ろした。


「死刑になる者、奴隷に堕とされる者、徒刑とけい、投獄、罰金……刑罰は色々ある。

 だが、それのどれであれ、罰せられて苦しむのは当人ばかりではない。

 罰せられた者の家族も、近親者も、愛する者が罰せられることに苦しむのだ。それは、どんな刑罰だろうと同じことだ。

 罪人に愛する者がいて、その者は無実であるにもかかわらず愛ゆえに悲しみ苦しまねばならないからと言って、その罪人の刑罰を軽減できるか?」


 アルトリウスの顔を見上げたまま唇を震わせたネロは、何かに耐えかねたように顔を伏せた。


「愛する者が罪を犯してしまったことに悲しみ、苦しみ、そして罰せられることに悲しみ、苦しむ……それが善良な者ならばな。

 そういう愛してくれる者たちがいるにも関わらず罪を犯した……それもまた罪なのだ。

 無責任な行動によって、自分を愛してくれる者を悲しませ、苦しませた……そういう罪なのだ。

 罪を犯すということは、そうやって自分を愛してくれた多くの人たちを必ず巻き込むのだ。」


 もっと上手い言い回しがありそうなものだが、どうも良い言葉が浮かんでこない。二日酔いのせいだろう。アルトリウスは話を中断し、無意識に顔をしかめ、目を閉じて額を揉んだ。

 ふいに訪れた無言の時……ネロがブツブツと小声で溢し始める。


「……なんで……なんで自分だけ……」


「何か言ったか!?」


 聞き取れなかったアルトリウスがネロに問いかけた。しかしその口調はアルトリウスの二日酔いのせいかいささかぶっきら棒だった。ネロには威圧的に聞こえたかもしれない。普通なら委縮してしまうところかもしれないが、ネロは逆に反発し顔をあげた。


「じ、自分だけです!!」


「何がだ?」


「同じ十人隊コントゥベルニウムで、母を苦しませているのは!

 自分だけです!!」


 レーマ軍では軍団兵レギオナリウスが罪を犯せば、同じ十人隊に所属する全員が罰を受け、手柄を挙げれば同じ十人隊全員が褒美をもらえる。賞罰は十人隊で平等なのが原則だ。しかし、ネロたち隊全員が奴隷に堕とされた結果、その事実が家族にバレて家族が苦しんでいるのはネロだけだ。他の隊員たちは全員、家族を持っていない独り者ばかりだからだ。それを踏まえると、ネロだけが八人の中で特別苦しんでいると感じてしまうのは無理もないかもしれない。公平が原則の筈なのに不公平だ……ネロはそう言いたいのだ。

 涙をたたえたネロを見下ろしながら、アルトリウスは表情を消して上体をわずかに前へせり出した。


「ならば何故思いとどまらなかった?」


 アルトリウスの声は低かったが、殺気かと思えるほどの迫力がある。ネロは思わず口を結んだ。


「貴様は十人隊長デクリオだった。

 リュウイチ様への攻撃を決断したのはお前だ。

 リウィウスもオトも反対していたんだろう?

 なのに貴様は軍命に背いて攻撃を決断し、反対していた部下たちをも巻き込み、奴隷に堕とした。

 違うか!?」


 ネロはアルトリウスの言葉にビクッと身体を震わせ、丸く見開かれた濡れた目でアルトリウスを見つめたまま、数度小さく顔を横に振り、次いでバッと顔を伏せた。その拍子に、床にポタポタと涙が落ちる。

 アルトリウスはネロの肩が小刻みに震えているのをしばらく見つめ、それから小さくため息をついて短く告げた。


「母親との面会の件は、諦めろ。」


 上からしばらく観察したが、ネロの身体は小刻みに震え続けていて頷いたようにも見えるし、頷いていないようにも見える。


「その代わり、お前の母親にはお前が特殊作戦に就いていると言っておいてやる。」


 ヤレヤレと言った様子でアルトリウスが言うと、ネロがハッと顔をあげた。何を言っているのか分からない……そんな表情だ。


「母親にはそう言っていたのだろう?」


 ネロを見下ろしてそう問いかけるアルトリウスの顔には、笑みも好意も浮かんではいない。どちらかというと面倒くさそうな表情だ。


「は……はい……」


 呆けた様子で生返事を返すネロに、アルトリウスは呆れたように頬杖を突きなおした。


「特殊作戦か……まあ、間違っちゃいないからな。

 貴様の説明を私かクィントゥスカッシウス・アレティウスが直接出向いて裏付けてやれば、貴様の母も納得するだろう。

 それで納得しておけ。」


「あ……ありがとう……ございます。」


「脱走騒ぎを繰り返されたんではかなわんからな……だが」


 アルトリウスは頬杖を突くのを止め、よっこらせとばかりに身体を起こすと両膝に両肘をついて顔を前に突き出し、ネロを上から覗き込むように睨みつける。


「今すぐは無理だ。

 わかってるな?

 今日と明日は侯爵夫人の御一家と、養父上ちちうえが来る。

 私もクィントゥスカッシウス・アレティウスも忙しくて手が空かん。

 だから早くても明後日以降だ。」


「はいっ!

 ありがとうございます、閣下!!」


 ネロは叫ぶようにそう言って平伏した。

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