週末に向けて
第1061話 女奴隷
統一歴九十九年五月十一日、朝 ‐
アルトリウシウス子爵夫妻との
今日はエルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人やルキウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵らと共に
マルクスは鏡を覗き込みながら、楊枝で歯の掃除にいそしんでいた。鏡はマルクスが持ち込んだものではなく、ルキウスがマルクスのために客間に備え付けてくれたものだ。アルビオンニア属州特産の銀細工であり、大きさは幅一ペス(約三十センチ)、高さはその倍ほどもある楕円形をしている。周囲にはまるで月桂冠を思わせるような精巧な意匠が施され、肝心の鏡面はまるで波一つない神秘の湖のように磨き上げられ、歪み一つありはしない。マルクスが普段自宅で使っている真鍮製の鏡とは大違いである。
これだけ出来の良い鏡を覗き込んでいると、普段は気付かないような細々とした粗がイチイチ目について仕方がない。伯爵家の縁戚にあたる
「んん~~~……あっ!」
小さな声と共にマルクスの動きが止まる。楊枝で歯を
「それくらいになさった方がよろしいでしょう。
あまりやり過ぎると、却って歯と歯茎を傷めます。」
隣に控えていた奴隷女が厳かな様子で忠告する。忠告する女の眼差しはマルクスを労わっているというよりはどこか冷たく、顔には感情らしい感情は浮かんでいなかったが、彼女に近いし者であれば、どちらかというと呆れとか軽蔑とかいった雰囲気を感じ取れたかもしれない。
マルクスは低く忌々し気に唸ると、手に持っていた楊枝を奴隷女が捧げ持っていたお盆の上に乱暴に置き、代わりにお盆の上に畳まれていた
「毛抜きをとってくれ。
髭の剃り残しを抜きたい。」
奴隷女は小さく「
マルクスは顎を突き上げながら、従兵の捧げ持つ鏡を頼りに剃り残しを探し、毛抜きで抜き始める。だがこれが意外とうまくいかない。鏡に映って見えてはいるのに、毛抜きで毛を摘まむことが出来ないのだ。鏡越しに細かいものを摘まむという行為に慣れていないというのもあるし、毛抜きの品質もさほど高いわけではないのだから仕方がない。うまくいかない細かい作業に、マルクスは次第にイライラし始める。
「
見かねた奴隷女が申し出た。マルクスは鏡を睨んだまま喉の奥で低く唸った後、「よし、やれ」と奴隷女の捧げ持つお盆に毛抜きを置いた。女はお盆の毛抜きを手に取り、お盆は脇に置いてマルクスの前に立つ。それに合わせるように鏡を捧げ持っていた従兵がわきへよけた。
「動かないでください。」
突っ立ったまま顎を突き上げるマルクスの喉元を、奴隷女が下から覗き込み、毛抜きで剃り残しを抜き始めると、マルクスが自分の手でやるよりもずっと早い調子で剃り残しが抜かれていった。剃り残しを抜かれていくごとに、マルクスのイライラも取り除かれていく。
「……終わりました。」
奴隷女がそう言って引き下がると、入れ替わるように従兵が鏡をマルクスに向けて掲げた。マルクスは鏡を覗き込みながら顎を撫ですさる。
「……ふむ、いいだろう。」
奴隷女から布巾を受け取り、そのまま顎を拭いながら左手で鏡を持っていた従兵に下がるようハンドサインを出した。従兵は小さくお辞儀をして鏡を持ったままマルクスの前から下がり始める。
「もう、奴隷という身分にも慣れたようだなグルギア?」
グルギアと名を呼ばれた女奴隷は答えず、目を伏せたままお盆を差し出してマルクスから顎を拭った布巾を受け取った。そのグルギアに触れんばかりに身体を寄せ、その横顔を覗き込む。本来ならグルギアの方が背は高いが、グルギアが奴隷ゆえに裸足なのに対し、マルクスは厚底の
「いよいよだ。
以前から話していたように、お前は今日から新たな主人に仕えるのだ。」
二日酔いの男の吐く臭い息が吹きかかるのを、グルギアは身じろぎもせずに堪えながらマルクスの言葉に耳を傾ける。
「さきほどのように、
お前の新しい主人は、大変おおらかな御方だ。
お気に召されれば、お前はすぐにでも奴隷の身分から解放されるだろう。
だが……わかっているな?」
マルクスはそこで言葉を切り、グルギアを見つめたままグルギアから離れた。グルギアはチラリと横目でマルクスを見返す。グルギアのどこか反抗的な鋭い視線にマルクスは口角を持ち上げる。
「お前の家族が解放されるかどうかは、お前の働き次第だ。」
ずっと無表情だったグルギアの顔に初めて感情が浮かび上がった。真一文字に結ばれていた口が、キュッとへの字に曲がる。
「安心しろ、約束は守られる。
伯爵閣下は既にお前の家族を買い集めるべく動いてくださっている。
弟の方はもう見つかったそうだ。」
その瞬間、マルクスに向けられたグルギアの目が見開かれた。
「オピテル!?」
「ああ……すぐにでも、買い取りの交渉が始まるだろう。」
マルクスの顔に笑みが浮かんだ。それが憐れみか、慈愛か、嘲りか、呆れかはグルギアには分からない。だがグルギアは自分の心を見透かされたような気がしてマルクスに向けていた視線を正面へ戻した。
「家を、再興したいのだろう?」
「……はい、
懐かしい弟を思い出させられて動揺しているのか、グルギアの声はわずかに震えていた。
「お前の両親は既に冥府の住人だ。
だが、兄か弟が戻れば、お前のその望みも叶うだろう。」
マルクスが再び身体を寄せ、グルギアの肩に手をまわした。
「お前の働き次第だ。分かるな?」
「はい、
伯爵閣下のご期待に、必ずやお応えいたします。」
「よし、期待しているぞ。」
そう言って満足そうに微笑むと、マルクスはグルギアから離れた。
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