第1060話 見えざる橋

統一歴九十九年五月十日、夜 ‐ マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



 閣下! クィントゥスカッシウス・アレティウス……ああ、そういえば何か報告があるとか言っていたな? ハッ、ネロについて御報告と御相談を……お時間をいただいてよろしいでしょうか?


 リュウイチの晩酌に付き合ったアルトリウスはリュウイチの住まう陣営本部プラエトーリウムから隣接する自分の陣営本部へ替える際、クィントゥスに捕まりネロについて報告を受けた。ネロは奴隷になったことを唯一の肉親である実母に隠していたが、それが何かの拍子に露見したという。そしてネロの母親は奴隷になった息子を買い取ろうと金策に走り始めており、それを知ったネロが酷く動揺しているらしい。

 ネロはクィントゥスに母親に会うために外出の許可を求めたそうだが、当然そんなもの認められるわけがない。アルトリウスに相談するから待てと言われて一旦追い出されたが、その足で脱走を試みて捕まり、半日ほど拘束されたのだそうだ。

 ネロは陣営本部内の小部屋アラエの一つに半日ほど閉じ込められ、冷静さを取り戻したようなので解放したが、クィントゥスの見立てではまたやらかしそうだという。


 まったく、次から次へと……


 頭痛を堪えるようにアルトリウスは尋ねた。


「それで、クィントゥス貴様はどうしようというのだ?」


 実際、アルトリウスは頭痛を覚えていた。厄介事の波状攻撃に耐えかねてというわけではなく、リュウイチと飲んだ黒ビールの酔いが早くも醒め始めており、二日酔いが始まっているのだ。肝臓のアルコール分解能力の高い人間が弱い酒を中途半端に飲むとこうなりやすい。昨日は深酒したので、今日は控えようとしたのが仇となったのだ。


「ハッ、事態の収拾を図るべきだと愚考いたします。」


「具体的には!?」


 アルトリウスは声を荒げた。クィントゥスが悪いというわけではないのだが、いかんせん気分が悪くなってきているところへ面倒な相談を持ち込まれたのだ。機嫌も悪くなるのも仕方が無いだろう。


「ハッ、ネロの母親に連絡を……」


「ハァ~~~~~~ッ」


 クィントゥスの相談はアルトリウスの盛大な溜息で遮られた。


「出来るわけが無いだろ!

 わざわざ機密を漏らすつもりか!?」


 呆れた様子でアルトリウスがクィントゥスを振り返ると、クィントゥスは気圧されたのか口をつぐんでアルトリウスを見上げていた。ホブゴブリンとハーフコボルトの体格差は大きい。ホブゴブリンの中では大柄なはずのクィントゥスでも、アルトリウスは圧倒してしまう。その分、余計に威圧してしまう。


 いかん……またやってしまった……


 こうやって部下をイチイチ威圧していては、部下たちは言うことを聞くようにはなるかもしれないが、部下との間に信頼関係は築けない。部下たちは上官の顔色をうかがうばかりで都合の悪い報告を上げてこなくなり、自分たちだけで物事を処理するようになり、上意下達さえうまくいかなくなる。恐怖による支配……それは組織の統率を形骸化させ、崩壊させる邪道なのだ。戒めねばならない。

 アルトリウスは気まずそうに小さく咳払いすると、クィントゥスから顔を背けた。自分の陣営本部へ向かって再び歩き始めると、クィントゥスも慌てて追いかけ始める。


「とにかく、ネロを今、母親に会わせてやるわけにはいかん。

 クィントゥス貴様だってそれくらいわかるだろ!?」


 アルトリウスはホブゴブリンの歩幅を意識し、速度を抑えて歩きながら、背後をついて来るクィントゥスに背中越しに言った。


「はい閣下、ネロを母親に会わせてやろうというわけではありません。」


 陣営本部同士を繋ぐ裏口ポスティクムで二人は立ち止まった。そこは狭く、明かりも無いため真っ暗で何も見えない。今夜は空は厚い雲に覆われ、月も星も光を届けてはくれていなかった。ただ、裏口の両端にそれぞれ異なる陣営本部の庭園ペリスティリウムがうっすら見える程度であり、アルトリウスとクィントゥスは互いの表情さえ見分けることが出来なかった。ただ、互いの気配だけを意識しながら向き合う。


「会わせない?

 ならどうしようというのだ?」


「はい閣下。

 ネロは母親に嘘をついていました。

 自分は特殊任務に就いていると……それはある意味間違ってはいません。

 ネロたちは奴隷としてリュウイチ様に仕えながら、同時に閣下にも被保護民クリエンテスとして仕え、リュウイチ様のことを閣下に報告しております。」


「ふぅ~~~っ」


 何かを押し殺すように息を吐き、アルトリウスは暗闇にわずかな光を放って浮かぶクィントゥスの目を見つめた。

 アルトリウスはてっきりクィントゥスがネロと母親が会えるように手配しようとしているのだと思い込んでいた。それは勘違いだったわけだが、自らの浅慮ゆえに部下の献策を先回りして否定しようとしてしまった自分を恥じつつも、同時に別の厄介事の気配を感じ、胸に何かざわめくものを意識し、その不快感を無意識に吐き出したのだった。

 クィントゥスはそれをアルトリウスが耳を貸す準備を整えたのだと肯定的にとらえ、説明を続ける。


「ならば、その嘘の裏付けを与えてやればよいのです。」


「裏付けを!?」


「母親はネロが奴隷にされたことを知り、ネロの説明が嘘だったのだと思い込んでいます。それは事実ではありますが、事実の全てではありません。

 ネロの説明は嘘では無いと裏付けてやれば、ネロもネロの母親も、落ち着きを取り戻すでしょう。」


 アルトリウスは口元を手で覆い、顎をさすった。指からはリュウイチの晩酌に付き合った際に摘まみで食べたチーズの残り香がした。アルトリウスの顔が歪む。


「リュウイチ様のことを母親に話してやるわけにはいかないぞ!?」


「話す必要は無いと考えます。

 ただ、ネロが特殊作戦に就いているのは事実だと、それだけ言ってやればよいのです。」


「んん~~~っ」


 狭い裏口通路にアルトリウスの低い唸り声が響いた。いくらアルトリウスの顔が白銀の体毛に覆われているとはいえさすがにここは暗すぎて表情までは見えないが、しかし献策に否定的なわけではなさそうな印象をクィントゥスは受けた。おそらく、決めかねているだけだ。


「とにかく、ネロと母親の関係は修復してやらねば!

 ネロが今後も脱走を繰り返してしまうかもしれません。

 脱走を試みるネロを監視し、捕まえるのは簡単ですが、ネロはリュウイチ様の奴隷、閣下の被保護民クリエンテスです。

 脱走し、捕まえたからといって……!?」


 アルトリウスの決断を促すクィントゥスを、アルトリウスは手をかざして止めさせた。アルトリウスだってクィントゥスが言おうとしたことは分っている。

 脱走することが分かっている奴隷を監視して捕まえるなど簡単なことだ。ネロが屈強な軽装歩兵ウェリテスであったとしてもそれは変わらない。この陣営本部はクィントゥスの部下の軍団兵レギオナリウスが常に四十名以上、交代で二十四時間体制の警備を敷いているのだ。要塞カストルムの警備には更に多くの兵士が就いている。

 だが脱走したネロを捕まえてどう処分するか?


 ネロは既にリュウイチの奴隷だ。降臨者様の持ち物であり、処罰するには了承を得る必要があるだろう。彼らが知る限りリュウイチは理知的でかなり物分かりの良い人物であるから、正当な理由があれば処罰を拒絶するとは考えにくい。だが、リュウイチは奴隷たちに対する考え方が、レーマ帝国に一般的な常識からかなりかけ離れている。

 人権という概念は既に《レアル》からもたらされている。それが無かったとしても、全ての人間を等しく自然の産物と捉えて平等に扱うべきとするストア派ヘレニズム哲学が一定程度普及しているレーマ帝国では、奴隷といえど人間を極端に過酷に扱う者は人々の軽蔑を免れない。

 だが、リュウイチのネロたちに対する認識はそういった人権・人道と言った概念とはまた違っていた。リュウイチはどうやら、ネロたちが奴隷になってしまったのは自分の責任だと考えているようなのだ。そしてネロたちに対する後ろめたさのような感情を常に抱いており、表面上は奴隷たちの主人として振る舞ってはいるものの、彼らの待遇などには必要以上に腐心している。

 魔導具を含む聖遺物を易々と与えたのもそうだし、給料も軍団兵と同じ水準で与えた上に、給料とは別に事あるごとに手間賃や小遣いのようなものを与えている。ハッキリ言って今のネロたちの待遇は現役の軍団兵たちよりずっと良いくらいなのだった。

 さすがに刑罰を受けて奴隷に堕とされたはずの者が、何の罪科もなく真面目に務めている軍団兵より恵まれているのは困るので、アルトリウスたちもそれとなく奴隷たちを甘やかさないようリュウイチに釘を刺してはいるのだが、リュウイチは困った顔をして反省の弁を述べるだけで改めようとはしていない。

 そんなリュウイチが、脱走したネロに重い刑罰を与えねばならなくなった時に、果たしてすんなり同意してくれるだろうか? 同意してくれたとしてリュウイチのアルトリウスたちとの関係は、果たしてこれまで通り良好な状態を保てるだろうか?


 それを思えば、そもそもネロが刑罰を受けねばならなくならないよう、脱走の動機そのものを解消してしまえというクィントゥスの献策は正しい。だが同時に、それはネロという奴隷に対するという疑問も禁じ得ないのだった。彼らはあくまでも刑罰の一環として奴隷に堕とされているのである。


「閣下?」


「分かった。

 私だってネロを罰してリュウイチ様の不興を買うようなことはしたくな……」


 アルトリウスは途中まで言って言葉を切り、ハッとしてクィントゥスを見た。


「まて、今日ネロを拘束したと言ったな?」


「はい閣下。

 脱走しようとしたところを捕まえ……」


 クィントゥスが答えきる前にアルトリウスは食いつくような勢いで矢継ぎ早に質問を浴びせてきた。アルトリウスに気圧され、クィントゥスは思わず仰け反る。


「リュウイチ様にはお断りしたのか!?」


「もちろんです閣下。

 拘束してすぐ、リュウイチ様には御報告申し上げました。」


「リュウイチ様は同意なされたのか?」


「え、はい……その、部屋アラエに閉じ込めて落ち着かせますと御報告申し上げたのですが、それは仕方ないと、残念そうではありましたが御同意いただきました。」


 クィントゥスの答えを聞いたアルトリウスは挑みかかるように前のめりにしていた上体を引いた。


 ネロを拘束したことは容認したということか?


「も、もしかしたらリュウイチ様はネロが罰を受けたとは思っておられないのかもしれません。

 その、その日のうちに開放しましたし、『落ち着かせる』と説明しましたので……」


 アルトリウスが何を気にしているか気づいたクィントゥスが解説すると、アルトリウスは「うん、うんそうだな」と独り言のようにつぶやいた。


 もしかしたら、知らないうちに危ない橋を渡っていたのかもしれない……


 そう思うと二人して背筋が寒くなる思いがした。

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