第1065話 教会の人事
統一歴九十九年五月十一日、朝 ‐ ティトゥス教会/アルトリウシア
レーマ正教会は《レアル》のキリスト教の体系に当てはめればプロテスタントになる。元々ルター派プロテスタントの流れに属するキリスト教の一派で、その教えは降臨者パウル・フォン・シュテッケルベルクによってランツクネヒト族に
このヴァーチャリア世界には《レアル》には存在しなかった筈の
血統に依存する特別な力……奇跡を起こす精霊を操る魔力……その存在を受け入れ、教義の中で合理化し、吸収するために採用されたのが神と人々を繋ぐ役職……すなわち「司祭」だった。レーマ正教会やヴァーチャリア世界の他の一部のプロテスタント教会では純粋に教えを広め導く
ここティトゥス教会には司祭と牧師の両方が存在していた。ベネディクト牧師とマティアス司祭である。どちらが「偉い」かというとベネディクト牧師の方だ。彼はマティアス司祭がアルビオンニア属州に赴任してくる前からティトゥス教会を取り仕切っていた担当牧師であり、このティトゥス教会の長である。マティアス司祭はカール・フォン・アルビオンニア侯爵公子の悪魔憑き騒動の対応のために派遣されてきた司祭であって自分が担当する教会や礼拝堂は持っておらず、いわばこのティトゥス教会を間借りさせてもらっている身だ。ただ、レーマ正教会と侯爵家の関係を良好なものにすることを任務とするマティアス司祭には、侯爵家に関係することに関しては高い権限が認められており、場合によっては司教や帝都レーマの大司教にも直接意見を述べることがゆるされている。
「
ベネディクトは目を閉じ、額を押さえて悩まし気に首を振った。
「ここも人手不足なのです。
彼女たちはここの孤児院の運営に欠かせません。
それなのにいきなり二人を余所へと言われましても……」
「
他の教会の修道女たちと彼女たちを入れ替えるという方向で、検討してはいただけないでしょうか?」
昨日、
とにかく、再び犯行が繰り返されるのは防がねばなりません……
アグリッパは犯人逮捕よりも今後の防犯の方を優先すると明言してくれた。それは教会と侯爵家の関係を良好な状態に保つためという政治的配慮がなされた結果だった。
犯人を拷問にかけてでも見つけ出し、処刑した方が確実にアグリッパの功績となる。アグリッパにはそれを実行するための権能を与えられている。憐れな修道女を数人捕まえて拷問にかけて自白させるくらい、異教徒でしかもレーマから派遣された官僚である彼には簡単にできたはずだ。仮にそれによってアルトリウシアでの彼の立場が悪くなったとしても彼はいずれ帝都レーマに帰るのだから、ここでアルトリウシアの住民感情に配慮する必要など何もない。にも関わらず、アグリッパは教会と侯爵家の両方に配慮してくれたのである。
そしてマティアスが考えついた対応が、疑わしい修道女を侯爵家から遠ざけることだった。ただ侯爵家の日曜礼拝に連れて行かないというだけでは十分ではない。ロウソクに毒を仕込んだのは教会の中でのこと……侯爵家の礼拝に参列しなくても犯行の支障にはならないからだ。
少なくともこのティトゥス教会から、いや出来ればアルトリウシアから離れてもらわねば……
ヒルダ尼、マグダレーネ尼、ザスキア尼の三人は教会に併設された孤児院の運営と侯爵家の日曜礼拝の補助との両方を交代で担っていた。先週、孤児院で使う予定だった南蛮ロウソクに毒を仕込んで日曜礼拝用の蜜蝋ロウソクとすり替えることができたのはこの三人だけであり、そのうちザスキア尼はマティアスと一緒に毒ロウソク事件の被害に遭っているから、残りはヒルダ尼とマグダレーネ尼の二人だ。そして二人のどちらかに容疑者を絞りこむことはマティアスには出来なかった。結果、マティアスはベネディクトにヒルダ尼とマグダレーネ尼の二人の異動を要請したのである。
だがことはそんなに簡単なことではない。ティトゥス教会からアルトリウシア子爵領外の最も近い教会までどれだけ早くても二~三日はかかる。同じアルビオンニア属州内で考えればおそらくシュバルツゼーブルグの教会に行ってもらうことになるだろうが、向こうの教会と連絡を取って調整するだけでも半月はかかるだろう。
「
ですが、理由も伏せたまま今日いきなり彼女たちにシュバルツゼーブルグへ行けとはさすがに言えません。」
「いったん、アイゼンファウスト教会かセーヘイム教会へ行ってもらい、そこからシュバルツゼーブルグというわけにはいかないでしょうか?」
食い下がるマティアスにベネディクトは首を振った。
修道女たちにも生活はある。いくら上の命令があったからといってハイソーデスカとはいかないだろう。まして彼女たちはいずれも孤児院の運営に欠かせない人物だ。孤児たちとの信頼関係を築けている彼女たちをいきなり異動させ、他所から見ず知らずの修道女たちを呼び寄せれば、修道女たちはまず孤児たちとの信頼関係を一から築くことから始めねばならないのだ。その間、孤児院の運営に様々な支障を来たすであろうことは想像するまでも無い。
「彼女たちに何と説明なさるおつもりですか
理由も無くいきなり出ていけとは、あまりにも理不尽な仕打ちです。
彼女たちは罰を与えられたと思うでしょう。
それにもうすぐ
グナエウス街道が雪で閉ざされれば春まで行き来できません。
彼女たちはその前にシュバルツゼーブルグまで行けるかもしれませんが、向こうから代わりの人材を呼び寄せるのは春以降にならざるを得ないでしょう。
それまで二人の優秀な修道女を欠いたまま、孤児院を運営し続けることは、私には不可能としか思えません。」
二人の容疑者をアルトリウシアから排除する……それはどうやら諦めざるを得ないようだ。マティアスは沈痛な面持ちで口をギュッと結ぶ。
しかし、このままティトゥス教会に残していては……
マティアスんも彼女たちを疑いたくはないという気持ちが無いわけではない。むしろ今までの献身的な働きぶりから、アグリッパの推理の方を跳ねつけたいくらいだ。だが、彼の立場はそれを許さない。
「ならばせめて……せめて二人をアイゼンファウスト教会へ移せませんか?
あそこはキリスト者の中にも犠牲者が出て、ここよりも人手が不足している筈です。」
「ふーっ」
諦めの悪いマティアスの顔を見返しながらベネディクトは大きくため息をついた。マティアスの言い分は無茶以外の何物でもない。異動させられる二人じゃなくても、孤児院や教会の運営に携わっているスタッフからすれば横暴にしか思えないだろう。だがいくら長年ティトゥス教会の運営を取り仕切ってきたベネディクトであってもマティアスの要請を無限に突っぱね続けることが出来るわけではなかった。マティアスは教会の不祥事を未然に防ぐために帝都レーマから派遣されている司祭である。そのマティアスの要請を無視して何らかの不祥事が生じれば、その責任をベネディクトが負うことになるだろう。
「わかりました。
その方向で調整してみましょう。」
その一言にマティアスの表情がパァッと明るくなった。
「
「ですが
そのことは覚えておいてください。」
「もちろんです
マティアスはベネディクトに感謝を繰り返し述べて退室した。彼が退室した時、廊下には誰も居なかった。ただ、もう少し彼が落ち着いていて耳を澄ませていたなら、廊下の向こう側に消えていく誰かの足音に気づけていたかもしれない。
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