第1056話 焦る理由

統一歴九十九年五月十日、晩 ‐ マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



 その後、二人の領主貴族公子パトリキと一人の降臨者は本来デザートの後に出されるはずのカフェを先に出してもらい、半時間ほど談話をたのしみながらカールのお腹が落ち着くのを待った。

 カールは時間さえあれば庭園ペリスティリウムを囲む回廊ペリスタイルを歩いて回って体力づくりに励んでいるのだが、どうもその際に近々庭園の花を植え替えることを聞いたらしい。植え替えらえることによって姿を消す花々は、カールが生まれて初めて太陽の光の下で見た花々であり、カールに色彩というものを教えてくれた存在だった。それらが庭園から消えてしまうことをカールは名残惜しく思っていたが、どのみち季節の移り変わりによってもうすぐ枯れてしまうこと、そして今度は別の花が植えられることを知って気持ちの整理はついたのだそうだ。今では新しい花がどんな色なのか楽しみでたまらないと、カールは赤い瞳をルビーのように輝かせながら嬉しそうに話した。

 その後、カールのお腹の具合が落ち着きをみせたころにデザートが登場。上品な甘みのレアリッシュ・クレームを平らげ、一人先に寝室へ戻っている。陽が沈んでからまだ二時間と経ってはいないが、この世界ヴァーチャリアでは子供はもう寝る時間であった。


 カールが退室した後もアルトリウスは残り、リュウイチの晩酌に付き合っている。アルトリウスはリュキスカが不在の今、リュウイチを孤独にさせるわけにはいかなかったし、リュウイチはリュウイチでアルトリウスにちょうど相談したいと思っていたことがあった。二人の思惑は都合よく合致し、特にどちらかが言うでもなく、夕食が片づけられた後の食卓メンサを挟んで二人は座り、ルールスに酒とツマミを頼む。酒はアルトリウスの好みではないがリュウイチが好んで飲んでいる黒ビールだ。サムエルの妻メーリが醸造し、リュウイチのために日々納めてくれているものである。ツマミもはやりセーヘイムから納められているもので、魚介類の干物。そして炒り豆とチーズ、ドライフルーツ。


「カール閣下の回復ぶりには目をみはります。

 リュウイチ様の御厚意でこちらへお連れしてからわずか半月だというのに、身体が一回り大きくなったようだ。」


 アルトリウスの言葉にリュウイチは黒ビールで満たされた銀の角杯リュトンで口を湿らせながら口角を持ち上げた。それは苦笑いのようにも愛想笑いのようにも見える。アルトリウスの言葉が御世辞か、御追従のようなものだと思ったのかもしれない。


「回復する前の御様子を御存知にはなられないでしょうが、本当にベッドに横たわるだけの生活だったのです、カール閣下は。

 以前は、陽が沈んでから庭で御遊びになられるぐらいはなさっておられたのですが、を患い、わずかなことでも骨折してしまうようになられてからは、身体を動かすこともすっかりなくなっておられましたからね。」


 リュウイチは角杯を口元から降ろしたが、卓には戻さず腹の前あたりで両手で包み持った。そしてその中に残っている黒ビールの泡を上から見下ろす。


『それは何となくですが想像できます。

 あの子はあまりにも手足が細く、体力がなさすぎる。』


 人間の骨は新陳代謝によって絶えず分解と再生を繰り返している。およそ二年ほどですべての骨が新しく作り替えられると言われており、その際に高い負荷のかかる部分は強化され、負荷の軽い部分は逆に弱くなるように再生される。そうやって負荷に対する骨の強度を最適化することで無駄をなくし、摂取する栄養を効率よく活用するのだ。

 しかし、この新陳代謝の際の最適化は人間が適切な運動をし続けることが前提になっている。運動しなければ骨にかかる負荷が軽くなり、負荷が軽くなると新陳代謝を通じて骨はどんどん弱くされてしまう。このため、ベッドで完全に寝た切りで過ごすなどして負荷を全くかけない環境に置かれると、人間の骨はわずか半年で生命の維持すら困難なレベルまで骨密度こつみつどが低下してしまうこともある。特に直立した際に人間の体重を受け、常に高い負荷に晒される踵の骨などは、無重力など無負荷の環境に置かれると半年ほどで骨密度が半分程度まで低下し、地球の重力下で立ち上がることすらできなくなってしまうのだ。

 カールの身体にもそれは起きていた。カールのはアルビノという体質ゆえに日光に当たれず、ビタミンD不足からカルシウム不足へと陥ったことが発症の原因ではあったが、発症後ベッドに寝た切りになって骨格に負荷や刺激が与えられなくなってしまったことで余計に悪化していたのだった。


「それもリュウイチ様の魔法によって治癒され、今や回復へと向かっています。

 カール閣下の友人の一人として、カール閣下をとりまく全ての人たちを代表して、感謝申し上げます。」


 アルトリウスが頭を下げるとリュウイチは『ああ、いや‥‥』と否定しそうになり、そして口ごもった。

 自分は大したことはしていない……リュウイチは本心からそう思っている。実際、リュウイチがしたのは魔法を使っただけだ。その魔法も別にリュウイチが修行したり苦労を重ねたりして獲得したものではなく、何かを犠牲にして行使したわけでもない。この世界に来た際に偶々たまたま手に入れただけの、いわば借り物の力である。自分で苦労したわけでも対価を払ったわけでもないことについて、あまり大きく捉えられるのは困る。

 だが同時に、大したことはしてはいないが、やったことの結果の重大性について理解できないわけでもないのだ。たしかに寝たきりの生活で将来への希望を失いつつあった子供の未来を、落としかけていた命を救った……それは間違いなく大変な価値のある行為である。それを、自分が大した苦労をしたわけでもないからといって成果まで否定しては、それによって助けられたカールという一人の人間の価値をも否定することになってしまう。カールを取り巻くたくさんの人たちの気持ちも、否定してしまうことになってしまう。

 それを思うとリュウイチも自分のやったことに対する感謝を遠慮するわけにもいかなくなる。大したことはしていない。だからあまり言ってほしくないというのも本心だが、しかしだからと言って遠慮しすぎれば相手に対して失礼を通り越して無礼を働くことになってしまう。リュウイチの胸中は複雑ではあった。

 リュウイチは話題の対象を自分からカールへ戻すことにした。これ以上、感謝とかされても正直言って困る。あんまり言われ過ぎて自分でも持て余している心情がどこか自分の制御の利かない方向へ決壊してしまかねない。


『カール君は、しかし無理をし過ぎている気もしますね。

 育ち盛りなんだし、八歳って割には背も高いんだし、焦らなくてもいいと思いますが……』

 

 カールは身体は細いが背は高い。十歳前後と言われても違和感は無いだろう。体幹たいかんを支える筋肉の貧弱さゆえに背をまっすぐに直立することは難しく、パッと見ではカールの背の高さは分りにくいのだが、手足の細さが目立たないような服装でまっすぐ直立すれば、それくらいの体格に見えてしまうだろう。

 アルトリウスは一瞬ギクッとし、それからウーンと低く唸った。


 カールの背が高いのは、病気が少しでも良くなるようにとルクレティウスやルクレティアが治癒魔法をかけ続けて来たからだった。治癒魔法というと身体の怪我を一瞬で治すような魔法をイメージするが、彼らの治癒魔法はそういった劇的ものではない。

 ルクレティアたちスパルタカシウス氏族は長い年月の間に代を重ねるにつれ元々強大だった魔力を失ってしまっており、今代の彼らが使える魔法は対象の新陳代謝を高めて怪我や病気の治りを促進するだけの簡易的な劣化版治癒魔法だった。これは魔力の弱い神官でも修得し行使できる魔法ではあったが、術者の魔力の不足分を対象の魔力で補うため、生命力の衰弱してしまっている重症者に使うと却って死を早めてしまう危険性があったほか、子供に使うと新陳代謝が早まった結果身体の成長も促進させてしまうという副作用があった。この副作用のために子供への治癒魔法の行使には実は制限がかけられていたのだが、カールに対してはそれを無視して使われていたのである。カールの背が八歳にしては高いのはそれが理由だった。

 アルトリウスはその事実を知っていたが、ことはおおやけにして良いことではない。リュウイチに言うべきかどうか迷った結果、アルトリウスは言わない方が良いと判断した。


「……彼は、焦っています。」


 言いにくいことを打ち明けるように、アルトリウスは絞り出すように言った。リュウイチはチラリとアルトリウスに視線を送り、無言のまま角杯を口元へ運ぶ。


「これは彼の家庭教師、ミヒャエルヒルデブラントから聞いたのですが……

 カール閣下は自分が今のように自由に運動できるのは、リュウイチ様のおかげであるとお考えです。」


 リュウイチは聞きながら黒ビールを一口、ゴクリと喉を鳴らして飲むと角杯を降ろし、ボリボリと頭を掻いた。照れているようにも見えなくもない。


「そして、リュウイチ様がいずれ、 《レアル》へお帰りになることも、承知しておいでです。」


 アルトリウスがそこまで言って視線をあげると、リュウイチと目が合った。


「カール閣下は、リュウイチ様が御帰りになられれば、再び部屋にこもらねばならなくなります。

 リュウイチ様と同じ魔法を使える者はおそらくおりませんから、カール閣下は光を避けて生活せねばならぬようになるでしょう。

 ですので、リュウイチ様がヴァーチャリアこちらへおいでの間に、少しでも身体を強くしようと、強くならねばならないと、そうお考えなのです。」

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