第1054話 カールの決意

統一歴九十九年五月十日、晩 ‐ マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



「お待たせして申し訳ありませんリュウイチ様。カール閣下。」


『カール君、アルトリウスさんが来たから今日はここまでにしようか?』


 リュウイチにそう言われたカール・フォン・アルビオンニア侯爵公子は少し残念そうに笑みを浮かべて「ハイヤー」と答えると、前のめりになってチェス盤を覗き込んでいた身体を起こした。リュウイチはカールとチェスをしながらアルトリウスが来るのを待っていたのだ。


 カールは八歳の子供だがアルビノという体質ゆえに日光を避ける必要から屋内に閉じこもり続けていたこと、そしてそのような生活ゆえに引き起こされた慢性的なビタミンD不足に起因するのためほぼ寝たきりの生活を送っていただけあって、年齢の割にチェスの腕前はそこそこにあった。暗く締め切られた室内で楽しめる娯楽は限られていたから当然だろう。

 さすがに大人顔負けというレベルではないが、同年代の子供の中では強い方だと言って良い。もっとも、カール自身にそのような自覚は無い。彼に同年代の友人はほとんどいなかったし、彼の周囲は大人たちばかりだ。高貴な者の世話は高貴な者がしなければならない……という原則に従い、カールの周囲は一定水準以上の教育を受けた下級貴族ノビレス出身の使用人で固められていたし、家庭教師のミヒャエル・ヒルデブラントはレーマの兵学校を優秀な成績で卒業したエリートだ。侯爵家公子たるカールに面会できる外の人物たちも皆それなりの地位にある大人たちばかりだったため、カールは相手に手加減されて勝たせてもらうか、本気でやってもらって負けるかのどちらかしか経験がない。そして侯爵家公子という雲上人の地位に似合わず他人の顔色をうかがうことに長けてしまっていたカールには、自分が大人たちに手加減して貰えていることに容易に気づくことができていた。結果、カールは自分はそんなに強くないと思い込むようになってしまっており、彼の抱くコンプレックスの種の一つとなってしまっている。

 そんなカールにとってリュウイチは格好のライバルだった。リュウイチはチェスを覚え始めたのはこの世界ヴァーチャリアに降臨して暇を持て余すようになってからなのでほんの半月ほどのことである。ルールは流石に憶えたが、駒の動かし方や基本的な戦術・戦法などはまだまだ覚えていない。それでも将棋などの経験はあったので、覚え始めて半月という割にはそこそこ戦えるようにはなってきているのだが、カール相手ではまだまだ分が悪い。

 つまりリュウイチはカールにとって本気でやって本当に負けてくれる初めての大人であり、しかも相手が知らないことを自分が教えてやれる初めての相手でもあった。本気でやっている相手に自分が勝てるということも新鮮であったが、それ以上にリュウイチは負けた後で「何が悪かったんだろう?」と訊いてくるのだ。そしてカールはその疑問に答えることができるのである。


 まるで先生になったような気分!!


 もちろんリュウイチを除けばカールの周りには自分より強い相手しかいないのでリュウイチ相手に勝ちを納めていい気になるようなことはないが、誰かにモノを教える、指導することの高揚感のようなものには抗いがたい喜びを禁じ得ない。

 こうして、リュウイチとのチェスはカールにとって日々の食事にも劣らぬほどの楽しみの一つになっていた。そのカールの目の前からチェス盤と駒が音も無く一瞬で姿を消す。リュウイチが“ストレージ”に仕舞ったのだ。おかげで片づける必要は無いが、たしかに目の前にあった物がこうして一瞬で消える様は不思議でしょうがない。


「おや、チェスをお楽しみでしたか?」


 食堂トリクリニウムに入ってきたアルトリウスの目にチェス盤が消える瞬間が映ったらしい。リュウイチたちに夕食ケーナを待たせてしまった後ろめたさがあるからか、ことさら楽しそうに尋ねる。


『ええ、ここのところカール君にチェスを教わってるんですよ。』


 リュウイチはにこやかに答えると立ち上がった。カールも肘掛けに置いた両手で身体を支えながら椅子からいそいそと床に降り立つ。介助なしに自力だけで椅子に座ったり降り立ったりできるようになったのはほんの数日前のことだ。


「おお、カール閣下!?」


 アルトリウスは駆け寄りそうになったが、その前にカールは二本の脚で床に立って見せた。そしてアルトリウスを無視するようにリュウイチを見上げる。


「教えるだなんてとんでもありません。

 覚え始められたばかりなのでボクでもお相手が務まっておりますが、すぐにでもボクの方が教わることになりそうです。さすがは降臨者様。」


 歳に似合わぬ謙譲けんじょうは上級貴族ゆえか、ミヒャエルの指導ゆえなのか、その態度は余裕と自信に満ちて実に貴公子然として見えた。アルトリウスはその様子に内心驚きつつ立ち止まり、ハハッと小さく笑う。リュウイチもまたカールを見下ろしてフフンッと笑った。カールの態度が小生意気に見えたのかもしれない。


「カール閣下は御歳の割にはお強いほうですよ。

 お若いのですし、成長は閣下の方が早いのではないのではありませんかな?」


「アルトリウス閣下はそうおっしゃいますが、ボクは自分と同じくらいの歳の子供とチェスをした経験がないのでわかりません。

 それに『御歳の割に』ということは、やっぱり弱いんでしょう?」


「カール閣下の周りは大人ばかりですからね。

 子供が大人より弱いのは当たり前ですし恥ずかしいことではありませんよ。

 むしろ、これから強くなっていくのですから。」


 カールはアルトリウスの言葉を噛みしめるように無言のまま少し考え、そして首を捻って何かを諦めたように笑った。


「チェスの修行ばかりしていればそうなるかもしれません。

 でもボクはチェスに強くなるための時間があるなら、身体を強くするために費やしたいのです。

 馬に乗ったり、剣を握って戦ったりできるくらいに……」


 両手で作った握りこぶしを見つめながら、何かを決意するかのように語ったカールの両手はまだまだ細かった。ここに来たときはまだ寝た切りだったことを考えると、庭園ペリスティリウムを休憩なしに一周歩けるようになってきたカールの筋力の成長速度は目をみはるものがあるものの、しかし普通の生活を送れるほどでは到底ない。現に今も、両足で立っているだけなのに微妙にユラユラと身体が揺れている。体幹がしっかりしていないから直立した状態を保てないのだ。


『そうだね。

 そのためには運動も大事だし、食べることも大事だ。

 しっかり食べて、ゆっくり休むことも。

 ちょうど時間だしアルトリウスさんも来たことだから、食事にしようか?』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る