陣営本部の夜

第1051話 方針変更

統一歴九十九年五月十日、夕 ‐ マニウス要塞司令部プリンキピア・カストリ・マニ/アルトリウシア



幕僚殿トリブヌス軍団長レガトゥスがお呼びです。」


 明日予定されているエルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人臨席の軍議、そして明後日開かれるリュウイチへの報告会に備えるためグナエウス峠から戻ったゴティクス・カエソーニウス・カトゥスは、我が家へ帰ろうと自分の執務室タベラリウムを今まさに出たところで呼び止められた。


軍団長レガトゥス・レギオニスが!?」


 思わず顔をしかめずにはいられない。彼の上官である軍団長アルトリウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵公子はサウマンディア軍団レギオー・サウマンディアの歓迎会に出席するため今日はティトゥス要塞カストルム・ティティに居る予定でマニウス要塞カストルム・マニには居ないはず。そして彼の同僚である軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥムも全員が出張で居なくなっているか、既に今日の仕事を終えて司令部プリンキピアを後にしている筈なのだ。

 夕日は既に水平線の彼方へ没しつつあり、日付は間もなく替わろうとしている。今日の仕事を気持ちよく終え、家族との団欒の時を過ごし、明日の英気を養おうというその時に居ないはずの上司に呼び止められたのだから、心地よい気持ちに等なれるはずもなかった。


「閣下はティトゥス要塞カストルム・ティティに居られるのではなかったのか!?」


 今からティトゥス要塞に行けば戻って来れるのはどれだけ早くても真夜中だ。家族との団欒どころの話ではない。むしろそのままティトゥス要塞に泊まって、明日領主御一家の車列に加わってゆっくり返って来ることになるだろう。


「いえ、急用のためお戻りになられました。

 すぐに幕僚殿トリブヌスをお呼びするよう仰せつかりまして……いやぁ、幕僚殿トリブヌスが御帰りになられる前で助かりました。

 執務室タベラリウムでお待ちです。」


 人の気持ちも知らないで勝手に喜んでいる従兵にゴティクスは舌打ちしたくなるのを堪えると、やるせない気持ちを溜息にして吐き出し、手に持っていた荷物を眼前の従兵に預けてアルトリウスの執務室へと脚を運んだのだった。


軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥムカエソーニウス・カトゥス殿が参られました!」


「通せ!」


 執務室の入り口が見えたあたりで衛兵が気づき、中に居るであろうアルトリウスに報告する。おかげでゴティクスは入り口で待たされることなく入室できた。


「失礼します閣下。」


「ああ、来てくれて助かった。

 もう帰ってたら呼び出そうと思ってたんだ。」


 ゴティクスを迎えたアルトリウスは家令のマルシス・アヴァロニウス・タムフィルスに手伝わせながら着替えている最中だった。


 急用って、軍務とは違うのか?


 アルトリウスが着ようとしているのは正餐用衣装ウィスティス・ケナトリア……いわゆる夜会服である。正衣トガのように重々しくも堅苦しくも無く、ゆったりとした軽い着心地の衣装は、日本の着物に例えるなら浴衣ゆかたに近いかもしれない。それはくつろぎながら酒食を愉しむための衣装であり、一般に「酒宴」コミッサーティオに出席する際に着用する。軽く着心地は良いが激しく動くのには正衣トガ同様全く向いておらず、軍務に就く際に着用するにはいささか不向きな衣装だ。


ティトゥス要塞カストルム・ティティ歓迎会コンウィウィウムに御出席なさる予定が急用で変更になったと伺いましたが?」


 事情を呑み込めきれないゴティクスがアルトリウスの着替える様子を眺めながら尋ねると、アルトリウスはゴティクスの顔に呆れの表情が浮かんでいるのにも気づくことなく答える。


「ああ、私はこの後すぐにリュウイチ様の陣営本部プラエトーリウムへ向かう。

 その前に貴様に命じなければならないことが出来たのだ。

 貴様には悪いが作戦を変更してもらわねばならない。」


 ゴティクスの片眉が持ち上がった。


「作戦を変更?」


「うむ、ルクレティア様のことだ。

 グナエウス砦ブルグス・グナエイにお留まりいただくことになっていたが、すぐにでもお戻りいただく。」


 アルトリウスはゴティクスの方を見ることも無く一息に言った。もはやゴティクスの意思や都合など関係なく、既に決定事項となってしまったことを告げるかのように……


「お待ちください閣下。」


 ゴティクスは頭痛でも堪えるかのように顔を歪めながらわずかに笑みを浮かべる。悪ふざけの冗談なら止めてもらいたい……そう訴えるような表情だ。


「ルクレティア様にグナエウス砦ブルグス・グナエイにお留まりいただくのはダイアウルフ対策だけが理由ではありません。

 お忘れですか、『勇者団』ブレーブスのことを!?」


 ルクレティアをグナエウス砦に留まらせるのは表向きの理由はグナエウス街道に出没するダイアウルフの被害を防ぐためだが、実際は『勇者団』対策だった。

 『勇者団』はルクレティアを守護する《地の精霊アース・エレメンタル》と戦い、捕虜を出してしまっている。そしてその捕虜はルクレティアの一行と共に護送されていた。これで『勇者団』が捕虜奪還を目指してルクレティア一行を追って来た場合、そのままアルトリウシアまで来てしまう恐れがある。それでリュウイチの存在が『勇者団』にバレでもしたらどんな問題が起きるか分からない。

 そこで、まずはルクレティアの一行にひとまずグナエウス砦に留まっていただく。ルクレティア一行が捕虜と共にグナエウス砦にこもっていれば、捕虜奪還のためにルクレティア一行を追う『勇者団』がアルトリウシアまで来てしまうことはなくなるはずだ。その間にアルビオンニア軍団レギオー・アルビオンニアアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアの兵力を動員し『勇者団』を処理しようというのだ。

 あわよくば、捕虜奪還のために襲い掛かってきた『勇者団』に《地の精霊》がし、結果的に『勇者団』が撃退され、あるいは捕まってくれれば……という下心も多分にある。もちろん、《地の精霊》に直接それを依頼するわけにはいかないので、あくまでもダイアウルフが出没して危険だからグナエウス砦に留まってくださいとしかルクレティアとその一行には伝えない。

 わざわざ『勇者団』をどうにかしてくれとこちらから頼まなくても、保有戦力が壊滅状態になっても構わず戦闘を挑んでくるほど好戦的な『勇者団』ならば、勝手にルクレティア一行に襲い掛かり、ルクレティアを守る《地の精霊》が頼まなくても勝手に処理してくれるにちがいない……かなり身勝手な、それでいて打算的な目論見だ。

 しかし、それをしないでは『勇者団』は確実にアルトリウシアまで来てしまうだろう。強力な魔力を有するゲイマーの子らがアルトリウシアに来れば、リュウイチの存在をその魔力の気配だけで察知してしまうかもしれない。そして『勇者団』の構成員はかつて《暗黒騎士ダーク・ナイト》に殺されたゲイマーの子や孫たちであることを考えると、《暗黒騎士リュウイチ》の存在に気づいた『勇者団』が何もしてこないわけがない。ルクレティアにグナエウス砦に留まることなく、すぐにでも帰らせるということは、そうしたリスクをあえて犯すということを意味した。作戦を立案したゴティクスからすれば冗談ではないのである。


「それどころではないのだ。」


 アルトリウスは初めて身をひるがえしてゴティクスの方を見た。


「ルクレティア様には一日でも早く、マニウス要塞カストルム・マニへお戻りいただかねばならん。」


「……理由をお聞きしても?」


「ルクレティア様は聖女サクラであらせられる。

 その御役目を果たしていただかねばならん。」


 ゴティクスは眉を顰めて小さく首を振った。訳が分からないと言った様子で両手を広げる。


「何故急に?

 聖女様サクラならリュキスカ様がおられるでしょう?」


「リュキスカ様は現在聖女サクラではあらせられぬのだ。」


 アルトリウスは何かひどくガッカリした様子でゴティクスから顔を背ける。ゴティクスに過大な洞察力でも期待していたようだ。


「何です?」


「リュキスカ様はとなられたのだそうだ。

 ほら、月ごとの……あるだろ?!」 


 アルトリウスが何を言っているのかようやく理解したゴティクスはペシッと音を立てて自分の額に手を当てた。


「なんてことだ……それはその……」


 ゴティクスが話を理解したことを確信したアルトリウスは、姿見に映る自分の姿に視線を戻した。マルシスに手伝わせながら細かい着付けを整え始める。


「少なくとも一週間は、聖女サクラとしての務めを果たすことができん。」


「それは……他にどうにかならんものですか?」


「どうしろというのだ?

 別の女をあてがえとでも!?」


 出来ることならやってるさ……そんな気持ちがアルトリウスの態度に現れている。しかし、ゴティクスにこれ以上言っても仕方ないと分かっているのか、すぐに視線を姿見に戻した。


「リュウイチ様には既に色々とご不便をおかけしている。

 これ以上、何かを我慢していただくことはできん。

 また、リュキスカ様の時ように新たな聖女サクラを御自身で調達しに行かれるようなことは避けねばならんのだ。

 そのためには、ルクレティア様に一日でも早くお戻りいただかねばならんのだ。」

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