第1047話 姿を現した男
統一歴九十九年五月十日、午後 - グナエウス峠山中/アルトリウシア
ドナートに続いて部下たちも次々と銃を抜き、銃口を上に向けて肩ぐらいの高さに、まるで
『虚勢を張るな。
何も見えてないくせに。』
男の声は
「そう思うなら試してみるがいい。
姿を隠さなければ話も出来ないような
臆病者……男はどこまでも男らしくあること、女はどこまでも女らしくあることが求められるヴァーチャリア世界において、それは決して言ってはならない侮蔑の言葉である。不用意にそのような言葉を用いれば、激昂した相手に殺されてしまったとしても文句は言えない。逆に世間からそのように言われるような状況に追い込まれでもすれば、男は自ら命を絶つことも
ドナートは言うだけ言うと愛狼テングルの肩を
テングルとドナートはそれぞれ、自分たちの進路上から獣道の外へ避けて
意外だな……このまま行けるか?
「まあ、そう急ぐな。」
声に驚いたドナートが視線を黒犬から正面に戻すと、そこに見たことも無い黒ずくめの男が立っていた。
何だコイツ?
今までどこに隠れていた!?
「我々はもう少しの間、ダイアウルフにグナエウス街道で暴れてもらいたいだけだ。」
驚きのあまり言葉を失ったドナートに男は笑いかける。とはいっても、森の中は既に真っ暗で前方を流れる川が反射する夕日だけがこの場の光源になっている。ドナートと川の間に立っている男の表情は、ドナートからは逆光になって全く見えない。笑いかけるというのは、男の声の調子からドナートたちにはそのように感じられたということだ。実際にどのような表情を浮かべているかはわかったものではない。
「誰だお前は?
何が目的だ?」
テングルはビクッとして一歩身を引いたが、テングルに騎乗したままのドナートは辛うじて驚きを隠し、凛とした声で尋ねる。
「言っただろう?
ダイアウルフにもう数日程、グナエウス街道で暴れてもらいたいのだ。」
「答になってないぞ!
私が尋ねたのはお前が誰かと、そのダイアウルフを暴れさせたいという理由だ。」
「グナエウス街道を封鎖したいのだ。」
「何のためにグナエウス街道を封鎖する!?
それからお前は誰だ、さっきからワザと答えをはぐらかそうとしているな?」
語気を強めるドナートに男は観念したように両手を上げ、フンと鼻を鳴らした。
「いいだろう。
話してやる。
だから銃を降ろせ、どうせ弾は入ってないんだろう?」
ドナートは無言のまま男を見下ろしていたが、数秒ほどしてテングルが小さくクシャミをしたのを合図にするように銃を下げた。とはいってもホルスターには戻さず、左手の手首に銃の負い革を軽く巻きつけながら左手で銃身を掴み、そのまま
ドナートはそのまま鞍の上で身体を起こし、右手を腰に当てて胸を張った。
「話してみろ。」
ドナートがそう言うと遅ればせながら背後の部下たちもドナートと同じように銃を左手で持って左側へ降ろす。男はそれを見届けると両手を降ろした。
「俺はファド、さる高貴な御方にお仕えしている者だ。
グナエウス街道を封鎖したいのは、スパルタカシア様の御一行の足止めのためだ。」
「スパルタカシア様だと?」
ルクレティア・スパルタカシアのことはドナートたちももちろん知っている。スパルタカシウス家はアルビオンニア属州で最も高貴とされる家柄の
「そうだ、スパルタカシア様は
「何故、スパルタカシア様の足止めをする?」
ドナートはあからさまに
聖貴族がもしも世俗の権威を欲すれば、俗貴族(聖貴族以外の貴族)はまず対抗できない。聖貴族を盲信する民衆は少なくないし、実際に彼らは魔力という超常の力を行使できる分、その権威は魔力を持たない宗教家などとは比較にならないのだ。が、そうであるがゆえにもしも政道を間違えた場合、取り返しのつかないことになる。聖貴族が世俗権力を手にすれば、その影響力はほぼ絶対的なものとなるからだ。絶対的権力は絶対に腐敗する……批判は許されず、過ちは犠牲によって
そうした地獄の現出を防ぐため、聖貴族は世俗権力からは距離を置くのがレーマ帝国では一般的であったし、また俗貴族や民衆の側も聖貴族を政争に巻き込むことを忌避する傾向にあった。にもかかわらずこのファドと名乗った男はスパルタカシウス家の姫君ルクレティア・スパルタカシアを武力をもって足止めしたいという……そこに胡散臭さを感じない貴族や軍人は居ないだろう。
「俺の仕える主人の御友人……この方も大変高貴な御身分の御方なのだが、スパルタカシア様にお会いしたいのだ。」
ファドはドナートの表情の変化に気づかぬ様子で話を続けた。
「スパルタカシア様御一行は今宵グナエウス砦にご宿泊なされるが、その御方は今ごろシュバルツゼーブルグに居られ、スパルタカシア様御一行とは一日の距離だ。
だが、その御方は事情があってアルトリウシアには参れん。ゆえにスパルタカシア様がアルトリウシアに御着きになる前に、スパルタカシア様の御一行に追いつくためには、スパルタカシア様の御一行にグナエウス砦にお留まりいただかねばならんのだ。」
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