第1045話 謎の男(1)

統一歴九十九年五月十日、午後 - グナエウス峠山中/アルトリウシア



 ドナートたちゴブリン騎兵たちに緊張が走った。確かに聞こえた。人間の、男の声……それもラテン語。ドナートたちは声のした方へ視線を走らせるが、何も見えない。誰も居ない。


 しまった……川へ降りたのは失敗だったか……


 夕刻の森の薄闇に慣れていたドナートたちの目は、今は夕焼けを受けてまばゆく輝く川面の光を受けてしまったため、今更森の中へ視線を走らせても暗がりを見通すことが出来なくなってしまっていた。

 ドナートは愛狼を背中の上から見下ろすが、テングルも声の主の気配を見つけることが出来ないでいた。耳をそばだててはいるが、テングルの意識は森の広い範囲を見渡しているようで定まっていない。


 クソ、いったい何者だ?


 ここまで気配を隠せているということは、大人数ではありえない。おそらく一人……相手が並の兵士ならここにいる全員でかかれば仕留めることもできるだろう。だがダイアウルフに気づかれることなく声が届くほど接近し、未だに姿も居場所も隠したままでいられるというのは恐るべき能力だ。戦闘能力は未知数だが、このような能力の持ち主に本気で逃げられては、探し出し、追いかけるのは限りなく困難に違いない。そんな相手がわざわざ声をかけて来た。これは危険な兆候だ。

 相手に気づかれていないというのはあらゆる局面で有利に働く。その効果は絶対的と言っていいだろう。あらゆる攻撃は奇襲となり、相手に防御も回避も許さない。そして相手に有効な攻撃を繰り出すことを許さず、その追撃を一方的に振り切ることが出来る。なのに相手は声をかけてその優位を捨てた。わざわざ自分が近くに潜伏していることを教えた。それでもなお、絶対の優位を保っていられるという確信があってか、あるいは優位を捨ててでも声を掛けねばならない状況に追い込まれているかのどちらかであろう。ここで後者の可能性を期待するのは愚かというものだ。


 声を出してもなお、自分の居場所を特定されない自信があるということか……

 あるいは、捕捉されて戦闘になっても負けない自信があるのか……


 どちらかはわからない。だが今、ドナートたちが決定的な危機的局面に立たされてしまっているのだけは確かだった。


「誰だ!?

 姿を現せ!!」


 逡巡したあげく、ドナートは苛立ちを押し殺して声を張った。谷あいではあるが樹々に遮られて木霊も帰ってこない。聞こえるのは三十歩ほど先にある川のせせらぎとダイアウルフたちの息遣いのみ……そんな沈黙が少し続き、ドナートが苛立ちに歯を食いしばると、ようやくさっきと同じ男の声が帰って来る。


『お断りしよう。

 いきなり撃たれたくも無いのでな。』


「なに!?」


 ドナートが振り返ると、ダルマンが一人だけ銃を掲げていた。チッ……ドナートは小さく舌打ちする。確かに戦闘に備え、武器も点検しろとは言ったが、今構えろとは言っていない。現に今、銃を取り出しているのはダルマン一人だ。


「ダルマン!

 銃を仕舞え!」


「えっ!?だって隊長!」


 ダルマンは抗議するが、すぐ近くにいたアルダリクが「いいから仕舞え!何で勝手に銃を出してんだ!?」と𠮟りつける。ダルマンはドナート以下、他の二人を含む三人から睨まれ、慌てて銃をダイアウルフの鞍に括りつけられたホルスターに挿し込む。

 ドナートは気を取り直すと、再び姿を見せない相手に呼びかけた。


「すまんな。

 部下のしつけが出来てなかった。

 銃は仕舞ったぞ!?

 姿を現せ!

 お前は誰だ!?

 我々に何の用だ!?」


 また長い間が開き、らされたドナートが歯を食いしめるとようやく先ほどと同様の声が響き渡る。


『用があったのはダイアウルフだ。

 まさかゴブリン兵が一緒だとは思わなかったな。』


 嘲笑うかのような響きにゴブリン兵たちは声にこそ出さないものの、焦燥にかられた様に一斉に武器に手を伸ばす。相手が何者か分からないが、自分たちの存在を知られた以上生かしておくわけにはいかない。が、ドナートはパッと手をかざしてはやる部下たちを制止した。


 俺たちが一緒だと思わなかった?

 ということは、相手はレーマ軍じゃないってことなのか?


 今ここでドナートたちを捜索し、攻撃してくるとしたらアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアか、あるいはアルビオンニア軍団レギオー・アルビオンニアの部隊だろう。その目的はダイアウルフを無力化し、グナエウス街道の安全を確保することだ。仮にここでドナートたちがレーマ軍に捕捉され、ドナートたちハン支援軍アウクシリア・ハンが勝手に行動していた証拠を手に入れられるようなことにでもなれば最悪だ。存続の可能性を模索しているハン支援軍の、自分たちは叛乱を起こしたわけではなくレーマ軍と戦う意思も無いという主張は説得力を失い、ハン支援軍の叛乱軍という汚名は永久に払拭できないものとなってしまう。レーマ軍は早晩、エッケ島攻略に乗り出し、ハン族は滅亡を遂げることとなるだろう。

 だが今ドナートたちが遭遇した相手がレーマ軍ではないのなら、まだ生き残るチャンスが残されている。要はレーマ軍にドナートたちが活動している証拠を握られさえしなければ良いのだ。相手が一人なら始末してしまえばよいだろうし、仮に逃がしてしまったとしてこの男がレーマ軍に通報しに行ったとしてももうすぐ日は暮れる。レーマ軍がこの男の案内でここへ来るのは早くても明日の昼以降……それまでにドナートたちは自分たちの痕跡を消してセヴェリ川を渡り、アルトリウシア平野へ逃れることが出来る。


「お前は誰だ!?

 姿を見せろ!

 ダイアウルフたちに何の用だ!?」


 相変わらず相手の姿は見えない。居場所すらわからない。声は確かに森の中から聞こえているが、どういうわけか森全体から響いて聞こえるようだ。まるで、洞窟の中で声が反響して聞こえているような感じで、声の発信源が特定できない。


『お前たちを知っているぞ!

 叛乱を起こしたというハン族のゴブリン兵だろう?

 街で噂になっていたぞ。

 お前たちこそ、ダイアウルフを使って何をしていた!?』


 相手は強気だ。自分の姿も正体も居場所さえも徹底的に隠し、こちらに捕捉されない自信があるのだろう。そして、ドナートたちが何か人には言えない後ろめたい部分があることを指摘し、自らの優位をより完璧なものにしようとしている。しかし、それが却ってドナートに気づかせた。


 コイツ、レーマ軍じゃない……

 いや、それどころかアルトリウシアの人間ですら無いぞ!?


 アルトリウシアの人間なら、「街で噂になっていた」などとは言わないだろう。彼らは当事者なのだから、ハン支援軍について、その叛乱について、街の大半を焼き払った事件について、人伝ひとづてに聞いて知ったなどということはあるまい。噂で聞いたということは、アルトリウシアの外から来た人間だ。それもおそらく、アルビオンニアの外から来た人間だろう。アルビオンニアの人間なら、アルビオンニアのあちこちで起きた対南蛮戦にイチイチ参加していたハン族のことを知らないわけがない。


「それは嘘だ!」


 ドナートはイェルナクの考えた筋書きに従って反論した。相手がアルトリウシアの人間ならまず話は通じないだろうが、アルトリウシア以外の、それもアルビオンニア以外の人間なら話が通じる可能性がある。いや、何とか味方に引き入れ、ハン族に有利な情報を発信してもらわなければならない。


「我々は叛乱など起こしていない。

 噂は我々を陥れようとする陰謀だ!」


 言いながらドナートは部下たちに向けて出していた制止のハンドサインをゆっくりと下げた。部下たちは戸惑ったが、ドナートの顔にいつの間にか余裕の笑みが浮かんでいるのを確認すると、武器から手を放してそれぞれ居住まいを正す。


「我々はメルクリウス団の陰謀に巻き込まれ、生き延びるために戦った。

 その結果、街に被害が生じてしまったのだ。

 叛乱など、起こしてはいない!」


『ならこんなところで何をしている!?

 ダイアウルフに人を襲わせていたんじゃないのか?』


 今度の反応は早かった。相変わらず声の発信源は分らないが、しかしその声色に最初の頃のような余裕はなく、こちらの意外な反応に戸惑っている様子がうかがえる。


「ちがう!

 我々は叛乱を起こしていない。

 したがってレーマを攻撃する意図も理由も無い。

 我々は逃亡したダイアウルフを探しに来たのだ。

 そして山で迷子になっていたダイアウルフを見つけることが出来たので、今から自分たちの陣営に連れて帰るところだ。」

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