第1044話 捕捉

統一歴九十九年五月十日、午後 - グナエウス峠山中/アルトリウシア



 犬!?……あれが犬なのか?


 漆黒の闇がまるで意思をもって動き出したかのようなそれは確かに犬のように見える。薄暗い森の影の中にあって、それでもそこだけ空間を切り取ったかのような真の黒い物体は、大きさこそダイアウルフと同等ぐらいだかが、垂れた耳はオオカミの物とは断じて違う。骨格もオオカミとは明らかに違い、肩の位置がだいぶ前にあって首が短く見える。マズルも太く短く、開かれた口から白い牙と真っ赤な舌を覗かせ、ハァハァと息遣いを響かせているが、吐く息はなぜか白くない。


「ア、アイツだ!

 隊長、さっき俺が見たのはアイツです!!」


 ダルマンが悪戯いたずらとがめられた少年が言い訳でもするときのような必死さで訴えた。


「シッ!」


 ドナートは黒い巨大な犬を観察したまま、片ぐらいの高さで拳を握り、部下たちに静かにするようにハンドサインを出す。


 ……ちがう、アイツは犬じゃない。

 何か別の、もっとヤバいモノだ。

 大きさはともかく、あれが普通の犬なら……普通の野生動物なら、ダイアウルフたちがここまで緊張するはずがない。

 つまり、あれは普通の犬なんかじゃない。


 ヘァ、ヘァ、ヘァ、ヘァ、ヘッ、フッ……


 全員が見ている目の前で、黒い犬は口を引きつらせ一瞬笑ったように見えた。そして次の瞬間、急に身体を低くする。


「「「「!?」」」」


 ドナートたちは最初、犬が伏せるのかと思った。お尻を高く掲げたまま前半身だけ伏せる、いわゆるプレイバウの姿勢にでもなるのかと思った。が、犬はそのまま地面の出来た影に潜り込んで消えた。まるでそこに穴でも開いていて、その中に飛び込んだかのように……。


「消えた!?」

「どうなってんだ?」


「行くな!」


 プチェンとアルダリクが先ほどの黒犬がいたところを確認しようと前に出るが、ドナートは鋭く声を発して制止する。


「急いでここから離れる。」


「隊長!?」


「今の奴が何なのかわからんが、アイツがレーマ軍を連れてくるならその前に逃げねば。

 幸い、今は未だ人の気配はしない。

 追いつかれるまでまだ時間はある筈、その前に逃げるぞ!」


 そう、今はとにかくレーマ軍に捕捉されないことが最優先だ。


 ゴブリン兵たちは気持ちを切り替えると手早く荷造りを再開する。せっかく拾い集めて来た薪はそこらにバラまき、汲んできた水はダイアウルフの手当てをしていた場所に撒いて臭いを洗い流す。あわただしく撤収の準備を整えたドナートたちはそれぞれの愛狼に跨乗こじょうし、谷を目指した。谷あいならば迷いにくく、速度が出しやすい。川を渡り、あるいは川の中を進めば、足跡も臭いも残さずに移動できる。追跡を振り切りやすいはずだ。


「行くぞ!

 遅れずついてこい!」


 ダイアウルフたちは速足で、野生動物たちによって森を縫うように張り巡らされた獣道を突き進む。ダイアウルフにとっては小走りに近い速さだが、小柄なゴブリンたちにとっては全力疾走に近い高速である。山林の中の獣道をこれほどの速度で長時間走り続けることのできる騎乗動物は他にあるまい。

 それから小一時間後、既に闇に閉ざされつつある森の向こうに現れたのはキラキラと琥珀こはく色の光を放つ川面かわも。川は東から西へ流れ、川の上は生い茂る樹木の切れ目が出来るため西日が入りやすく、この時間でもまだ夕闇の到来に抗っているのだ。そこへたどり着き、川の流れに従って進めば、ダイアウルフの脚なら一時間ほどでセヴェリ川に合流する。

 だがその目論見もくろみ嘲笑あざわらうかのように、ドナートたちの前方に、ドナートたちが進獣道の脇に生えた一本の若木の影から、巨大な影の塊が躍り出た。


「!?」

「うっ!?」

「な……隊長?」


 若木の影から躍り出た黒い塊は先ほどの巨大な黒い犬……若木の幹はゴブリンの腕ほどの太さしかないにもかかわらず、その陰から現れた黒い犬はダイアウルフほどの巨体を誇るかのように、ドナートたちに横腹を見せるように立ちはだかり、真っ赤な舌を出してヘッヘッと笑うようにこちらを見ている。


 なんなんだ、コイツは!?


 ダイアウルフたちは命じもしないのに姿勢を低くし、身構えている。


「隊長、やりますか!?」


「よせっ!」


 背後で銃を持ちだそうとするプチェンをドナートは制止した。


「ですが隊長!」


 抗議するプチェンの気持ちはドナートも分かる。あの黒い犬っぽいモノはドナートたちの知る普通の犬とは全く違う異質なものだ。おそらく、ではない。ただでさえ緊張を強いられる秘密作戦で、得体えたいの知れないモノに絡まれ、まかり間違ってダイアウルフを傷つけたり喪ったりするようなことにでもなれば最悪だ。ならばここで銃を使ってでも追い払って……そう思ってしまうのも無理は無い。特にプチェンはひょっとしたらあの黒犬を引き寄せてしまったのは自分ではないかという負い目が、焦燥となって彼を急き立てているのだろう。だが、得体の知れない相手だからこそ、安易に攻撃できない。ではないとしたら、魔獣か妖精の類であろう。さっきから繰り返している不可解な移動も、魔法の一種なのかもしれない。


 そんな相手に銃が通用するのか?

 通用したとして仕留められるのか?


「こっちだ、着いてこい。

 テングル!」


 束の間、悩んだドナートはあくまでも戦闘を回避することを選んだ。

 低く、抑制の利いた声で命じると愛狼の名を呼んで前進を促すとともに、左へ体重を寄せて左への変針を指示した。現在いる獣道から外れ、左手を流れる川への最短距離を突っ切るコースである。

 テングルはフンッと不満そうに鼻を鳴らすと、ドナートの指示に従い獣道から外れて左手の笹薮ささやぶへと踏み込んだ。背後の部下たちも、そして一番最後尾にいる負傷したダイアウルフもドナートに従い、次々と獣道から外れ始める。


 黒犬は何か意外そうにドナートたちをジッと見たまま立ち竦んでいた。何かのリアクションを期待していたのかもしれない。だが、ドナートたちはあえて黒犬の方へは一瞥いちべつすらくれることなく、むしろ意識して視線をそちらへ向けないように川の方へ降りていく。


 向こうはこちらに興味があるようだが、しかしこちらが相手をしなければ……

 無視し続ければ……

 アレの正体が何か分からないが、精霊とか妖精の類なら、あえてこちらへチョッカイは出してこないはず……


 ドナートのそれは根拠のない期待でしかなかった。野生動物にはそれが通じたかもしれないが、野生動物以外の存在にも通じるとは限らない。

 視界の端に捕えていた黒犬はドナートの期待通り姿を消してくれたが、しかし次の瞬間には再びドナートたちの前にのっそりと現れた。


「くっ!?」


 音も無く、笹薮の葉の下から飛び上がるように現れた黒犬が川辺の手前辺りに立ちはだかり、こちらに向かって赤い舌と白い牙を見せる。その表情は心なしか笑っているようであり、直接見えないはずなのになぜか尻尾を振っているようにも感じられた。


「何だコイツ!?」

「隊長!!」


 戸惑いの声を挙げる背後の部下たちを振り返ることも無く、ドナートは黒犬をまっすぐ見つめたまま肩ぐらいの高さに握りしめた拳をあげ、部下たちに静かにするようハンドサインを出す。そして無言のまま、今度は体重を右に寄せ、愛狼テングルに右へ行くよう指示を出した。テングルはガサガサと笹の葉を鳴らしながら、首を右へ巡らせ、元の獣道へ戻るように進み始める。

 今度はドナートは黒犬から視線を外さなかった。愛狼には右へ進ませつつ、彼はジッと黒犬を見据え続けた。黒犬は今度は動かなかった。ただドナートを見つめ返しながらもジッと佇んでいたが、尻尾を振るのはやめていた。笑みも消えているような気がする。いや、そもそもあの黒犬が本当に笑っていたのかどうかもわからないし、実際に尻尾を振っていたのかどうかも見えていなかったが……。


 諦めてくれたか?


 ドナートがそう期待したところで、何故かテングルが足を止めた。


 どうしたテングル?……驚いたドナートがそう訊こうとした矢先、今度は前方から聞きなれない男の声が聞こえた。


どこへ行くんだウビ・イズ?』

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