第1043話 逢魔

統一歴九十九年五月十日、午後 - グナエウス峠山中/アルトリウシア



 昼と夜の交わる逢魔おうまの時……辺りはだいぶ暗くなり、十歩先の人間の顔を見分けるのも難しい暗さだ。森から出ればまだ明かるのだろうが、ここは既に夜の女王ニュクスを迎える準備が整っている。

 五頭のダイアウルフたちが一斉に立ち上がり、ジッと同じ方向を見て緊張している。耳をピンと立て、時折鼻をぴくぴくさせつつも尻尾も振らずに警戒する様は、ダイアウルフに慣れ親しんだドナートたちにとって異様に感じられた。ダイアウルフは人間に慣れることもあるし、現にゴブリンである彼らハン族騎兵に従ってはいるが、実態は食物連鎖の上位に位置する強力な肉食獣である。そのダイアウルフがここまで緊張して見せることなど滅多にない……いや、初めてのことだった。ダイアウルフたちは自分たちのボス、テングルが目の前で機嫌を悪くしていてもここまで緊張したりはしない。それなのに今、そのテングル自身が微動だにせず森の一角に注意を集中させている。


「どうした、何かいるのか?」

「シッ!」


 異変に気付きながらも何が起こったか分からないダルマンが訊くと、アルダリクが鋭く注意する。ただ一人、プチェンの顔が青いのは、自分が何者かに尾行され、その何者かをここへ呼び寄せてしまった可能性に気づいたからだ。


 馬鹿な、気配は何も感じなかった。

 ダイアウルフにも気づかれずに尾行して来る奴なんて居るのか!?


 プチェンは間抜けでもドジでもない。ハン支援軍の中で貴重な中堅の騎兵だ。騎兵隊の中では最古参の副隊長ディンクルが一目置くだけの技量と経験を身に着けたベテラン騎兵である。そのプチェンが偵察に出てその存在に気づくことが出来ず、あまつさえ尾行まで許してしまった相手がいるとは信じがたい。


 だが、何者かが居るのは確かだ……


 ドナートはジッと息を殺しながら腰の剣に手をやる。


 相手は何者だ?

 数は?

 距離は、時間はあとどれくらい残っている?


 ダイアウルフたちの反応からして何者かが近づいているのは確かだ。そしてドナートたちは誰にも見つかってはならない。よって、こういう場合は徹底的に身を隠してやり過ごすか、急いでこの場から離れるか、接近してきている何者かを攻撃して殲滅し、自分たちの活動が露見しないようにするか、その三択である。

 ここら辺は人里から離れすぎていて周囲には何もない。炭焼き職人たちもドナートたちの襲撃以後、全面的に撤収しているようだし、それは木こりや猟師たちも同じだ。それに北のグナエウス街道からここらを通過して更に南へ行っても何もない。もし南蛮の国に行くのなら、こんな山の中を突っ切るよりは海に出て船に乗るか、いっそグナエウス峠を越えてライムント地方まで出た方がよっぽど安全で効率的だろう。つまり、今この時期にここへ来るということは、その目的は高確率でドナートたちだということになる。

 だとするならば、身を隠してやり過ごすという選択肢は選べない。迫っているのは敵で、それがここまで来たということはおそらくドナートたちの足跡か臭いか、とにかく痕跡を辿ってきているに違いないのだ。だとしたら身を隠してやり過ごすのは、敵に見つかるのをわざわざ待ってやるに等しい。

 一番ベストなのは逃げることだ。ただ、仮に逃げるにしてもその過程で見つかるようなことがあってはならない。だからただ逃げさえすればよいという問題でもなくなる。敵がどれくらい近いのか、今から逃げたとして敵を引き離せるかどうか、ルートも重要だ。今までのように谷あいを縫って行けば迷わずセヴェリ川に出られるし早いだろう。それに敵がこっちの臭いや足跡を辿って追ってきているのなら、途中で川を渡ることで追跡すべき痕跡を遮断することも可能だ。が、谷あいは視界が開けている場所が多いから敵に見つかる可能性も高くなる。動きも読まれやすい。

 いったん尾根を目指せば少なくとも途中で視界が開けて目撃されてしまう危険性は回避できるだろう。だが、斜面を無理に登るルートになるので足跡が残りやすい。敵が足跡や臭いを辿ってきているのなら、その痕跡をクッキリと残しながら逃げることになるので、敵の追跡を振り切る要素は速度だけということになる。だが森の中の斜面を強引に突破しようとすれば、足場がどうしても悪くなるから速度も低下せざるを得ない。

 じゃあいっそ迎え撃つかというと、それは今のドナートたちのような潜入作戦を行っている部隊にとっては最悪の選択肢だと言って良い。ドナートたちはゴブリン騎兵四人、ダイアウルフ五頭で内一頭は負傷している。相手がどれほどの戦力かは分らないが、この山中でドナートたちを追いかけて追いついてきたのだから相当な手練てだれだと見るべきだろう。ゴブリン騎兵の剣とダイアウルフの白兵戦で簡単に仕留められる相手だとは思えない。かといって短小銃マスケートゥム投擲爆弾グラナートゥムを使えば、いくらここがグナエウス街道から何マイルも離れた尾根の向こう側だとしても、銃声や爆音は防ぎきれないだろう。まして、追ってきているのが今ドナートたちに迫りつつある一隊だけとは限らないのだ。


 逃げるべきだ……だが、間に合うか!?


 ドナートは逡巡し、近くにいた愛狼テングルにゆっくりと近づき、その肩にそっと手を置いた。テングルの片耳が一瞬ドナートの方へ揺れるが、テングルの注意はずっと前方を睨んだままである。鼻をヒクヒクと蠢かせているが、明確に何かを観察している様子はない。むしろ、何か居たはずの気配を見失って戸惑っているような感じだ。


 見失った?

 ……ということは、まだ距離があるのか……


 ドナートは決断した。


「急ぎ、ここから撤収する。

 急いで行李こうりまとめろ!

 音を立てるな!

 声も出すな!

 痕跡も残すな!

 足跡を残さないよう、脚に何か巻け!」


 ドナートが低い声で、だがしっかりと聞こえるように命じると、ゴブリン兵たちは無言のまま一斉に動き始める。野営のため、傷ついたダイアウルフの治療のために一度広げた荷物を行李に投げ入れ、それぞれ自分の愛狼を呼び寄せて伏せさせ、背にくくりつける。

 が、次の瞬間、再びダイアウルフたちは一斉に立ち上がった。


「「「「!?」」」」


 先ほどと同じように耳をそばだたせ、同じ方向を注視する。だが、見ている方向は先ほどとは全く違う方向だ。ドナートたちは驚きながらもダイアウルフが見る方向を確認するが、先ほどと同様何も見えない。


 なんだ、そっちに何か居るのか?

 そっちは今から逃げようとしていた方向だぞ!?


「テングル?」


 ドナートが小さく尋ねる。さっきは気配は感じたものの見失った様子だった。だが今度は確実に何かの気配を捉えている様子だ。総毛そうけ立たせ、牙を剥き、低く唸り始める。


 何者だ!?

 ダイアウルフがここまで警戒するなんて……

 しかもさっきと逆方向へ、一瞬で回り込んだ???

 まさかもう包囲されているのか?


「ひっ……たっ、隊長!?」


 背後にいたダルマンがおびえたような声をあげる。


「シッ!

 撤収する、戦闘にも備えろ。

 総員、武器を確認!」


 ドナートも緊張を最高潮に高めつつ、部下を掌握すべく命じた。

 先ほどダイアウルフが捉えた気配は見失った。ということは結構な距離があったということだ。そしておそらく、ドナートたちを追いつつもこちらに気づかずに通り過ぎてしまったのだろう。そして次に現れた気配は方向がほぼ真逆……つまり先ほどとは別の敵だと考えていい。ということは、複数の敵に囲まれつつあるということだ。

 これから日が暮れて暗くなる。暗闇に紛れれば逃げやすくなるが、こうも敵が分散しているとなると不意に遭遇してしまう危険も考慮せねばならない。万が一、見つかってしまったら、痕跡を残す残さないの心配どころじゃなくなる。敵に痛打を与え、敵がひるんだすきに逃げるしかない。


 敵に気づかれる前に投擲爆弾グラナートゥムを投げつけてやれば、あるいは……


 戦闘は避けねばならないが、どうしても避けられないなら敵に捕捉される前に爆弾を投げつけ、あとはダイアウルフの脚力にモノを言わせて全力で逃げる。敵がレーマ軍の正規部隊なら投擲爆弾ぐらい装備しているだろうから、爆弾を爆発させても直接見られたり捕まったりしなければ、爆弾の暴発事故と強弁できる。


「いや、そうじゃなくって……隊長ぉ」


「何だ!?」


 苛立つドナートが振り返ると、情けない顔をしたダルマンがあらぬ方向を指さしていた。


「あそこに……あ、あれ?」


 ダルマンが指さしていた方向には何もいなかった。戸惑うダルマンをドナートが叱責しようとした瞬間、今度はダイアウルフたちが小さな悲鳴をあげながらダッと地面を蹴り、跳ねるように身をひるがえしてダルマンが指さしていたのとは真逆の方に向かって身構えて唸り始めた。


「どうし、っ!?」


 ダイアウルフたちが身を低くして身構え、睨み、唸る先には、一頭の巨大な黒い犬がいた。

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