第1042話 異変

統一歴九十九年五月十日、午後 - グナエウス峠山中/アルトリウシア



 日没にはまだ早いが辺りは既に暗くなり始めている。ただでさえ樹々の生い茂る森深い山の中、それも尾根ではなく谷筋に沿うように山を下りて来ていたのだから日中でも陽の光は届きにくい場所だ。おまけにアルトリウシアの空は年中雲に覆われていて太陽が直接見えるのが稀なほどの気象……そこへ来てガスの発生しやすい山とくれば、明るい時間帯そのものが短いのだ。

 予定よりもだいぶ早く野営の準備に入ったのは幸いだったかもしれない。火を焚かずとも明るい中で様々な作業ができるからだ。日が没して暗くなってからでは、食事ぐらいは何とかなったかもしれないが、傷ついたダイアウルフの手当てにはだいぶ手こずったことだろう。


「よーしよし、大人しくしてろ。

 今、包帯と薬を替えてやるからな。」


 そういって伸ばすドナートたちの手を、案の定ダイアウルフは拒絶した。地面に横座りしたままクゥクゥと憐れを誘うような声で鳴き、地面を叩くように尻尾を振り、耳を後ろに畳んだまま傷口へ伸ばされる手に鼻先を伸ばして舐めようとする。犬や狼たちが親しい者に対してする「やめてね」「構わないで」というサインだ。脚に残った弾丸を摘出する際の痛みを憶えているのだろう。


「わかったわかった。

 いいから大人しくしてろ!」


 邪魔しようとするダイアウルフの鼻面をドナートは押し戻す。それでもダイアウルフは諦めない。押し返されても負けずに鼻を突きだし、何とかやめさせようとする。そのうちイライラしてきたのか「クゥ~、クゥ~」という甘えるようだった鼻声は次第に「フォッ、フォッ、ォオオオオッ」っと低く太いものへと変わり、徐々に牙も剥き始める。だがドナートたちも手慣れているのでその程度では怖気づくことはない。両者の攻防はエスカレートしていく。


「ええい、いい加減にしろ!」


 両者がヒートアップし、ドナートがつい大きい声を出すとダイアウルフは驚いて身体を跳ねさせるようにしながら立ち上がる。とはいっても後ろ足が傷ついて痛むので勢いが良かったのは前半身のみ、後半身はそれに引きずられるようにのっそりといった感じではあった。

 が、何とか立ち上がってドナートに牙を剥こうとしたダイアウルフはすぐに大人しくならざるを得なかった。異変を察知した周囲のダイアウルフたちが、特にドナートの愛狼テングルが真っ先に飛び出し、「ヴォウッ」と一声吠えるやいなや、牙を剥いて唸り始めたからだ。


 テングルはドナートが『単騎駆け』と呼ばれるようになった活躍以来、ドナートと共に食糧配給で優遇され続けていたこともあり、騎兵隊長の愛狼に相応しく他のダイアウルフに比べて一回り大きな体格を誇っている。テングルに一睨みされてビビらないダイアウルフは居ないし、ダイアウルフ以外の肉食獣であっても身構えずにはおれないだろう。

 びっこを引きながらもドナートに襲い掛かってやろうとばかりに唸りながらドナートの周りを回り始めていたダイアウルフはテングルに威嚇され、総毛立そうけだたせて一気に委縮してしまった。耳を畳み、丸く目を見開き、口を小さくすぼめるように閉じて姿勢を低くする。やがてテングルに同調して他の二頭のダイアウルフたちも唸りながら囲み始めると完全に観念し、その場に伏せて小さくなった。

 完全に地面に伏せ、両前足の間に顎までうずめてテングルたちの御機嫌を伺うダイアウルフにドナートはフゥッと短くため息をつく、部下のダルマンと共に改めて近づいた。


「ホラ、傷口を見せろ。」


 痛い後ろ足に触れようとするドナートを、そのダイアウルフは再び拒絶しようと顔を持ち上げたが、即座にテングルに唸られて仕方なく伏せた。ゆっくりと、テングルたちに愛想を振りまくために振ってる尻尾がビシッ、ビシッと地面を叩く。


「今の内だダルマン。

 とっとと包帯を外せ。」


「はい隊長。」


 二人掛かりで包帯を外す。銃創は脚の付け根に近い太腿にあったので、かなり広い範囲を布で覆わねばならない。包帯とは呼んでいるが実際は帯状の布ではなく、ドナートたちの衣類を割いて作った三角巾のようなものだ……貫頭衣を切って広げただけなので三角形をしているわけでもなかったが……。

 包帯を外し、現れた銃創に張り付けていた膏薬こうやくを軽くはたき落とし、貴重な蒸留酒を振りかけて消毒する。この時、酒が傷口に染みたのかダイアウルフはキャンと鳴いて一瞬身体を起こしかけたが、即座にダイアウルフを囲むように伏せて様子をうかがっていたテングルたちが立ち上がって唸ったためにダイアウルフはまたすぐに大人しくなった。

 ドナートとダルマンは一旦中断を余儀なくされた手当てを再開し、膏薬を新しいものへ替え、途中からは水汲みを終えたアルダリクが加わって三人で包帯を巻きなおす。傷口は熱を持っていたようだが、冷たい膏薬の感触が心地よいのか、一時は暴れ出しそうだったダイアウルフも膏薬を新しいものに替えてからは大人しくなってくれた。

 なんだかんだで一時間近くかかっただろうか、ボチボチ字を読むのも辛くなりそうな程度に薄暗くなったころになってようやく手当てが終わると、周囲を見回っていたプチェンが帰ってくる。


「帰還しました、隊長。」


「ご苦労、プチェン。

 こっちもちょうど手当てが終わったところだ。」


 プチェンが報告しながら乗っていた愛狼から降り、ドナートたちが負傷したダイアウルフから離れると、他のダイアウルフたちは一斉に立ち上がって負傷したダイアウルフの方へ歩み寄り、クゥクゥと鼻を鳴らしながら横たわったままのダイアウルフの臭いを嗅ぎはじめた。なんだかんだ言って内心では仲間のことが心配だったのだろう。負傷したダイアウルフも仲間たちに心配してもらい、うれしいのかバタバタと激しく尻尾を振っている。

 その様子を横目で見ながら、プチェンは偵察の報告を続けた。


「周囲に異常はもちろん、人の気配もありません。

 街道からだいぶ離れてますし、木こりや炭焼き職人、猟師などもここらには来てないようです。

 今日は、火を焚いてもバレないでしょう。」


 プチェンはそう言うとニッと笑った。

 ドナートたちの作戦は隠密を要する。逃亡したダイアウルフたちが勝手に活動しているように見せかけねばならないため、人間の気配はさせてはならない。自分たちの姿を、決して誰にも見られてはならないし、ダイアウルフしかいないはずの場所に人間の気配をさせてはならない。しかし、もしも火を焚けば必ず煙が昇る。ダイアウルフが火を使うはずもないのに、人間が居るはずのない場所で煙が上がっていたら絶対に怪しまれるだろう。だからドナートたちはずっと火を使わないようにしてきていた。火を使っても怪しまれないようにと、炭焼き職人たちを襲っても見たが、結局あの場所は使っていない。いつ、生き延びた炭焼き職人がレーマ兵を連れて戻って来るか分からないので、警戒し続けねばならないくらいなら火を我慢した方が良いと判断して使わなかったのだ。

 だが今はグナエウス街道付近から撤退し、もはやセヴェリ川まで二~三マイルというところまで降った麓付近である。周囲は人跡未踏と言って良いほど人里から離れ、地形も南北を尾根に挟まれた谷底で火を焚いても煙がレーマ軍のいるであろうグナエウス街道から見られる心配はない。あとは周囲に木こりや猟師が居ないことさえ確認できれば、ドナートたちは何日かぶりに火を使える。


「いいぞ、それなら今日は久しぶりに暖かいものが食えるな。」


 ダイアウルフたちが一斉に耳をピクッと動かし、鼻を鳴らすのも尻尾を振るのもやめてプチェンが帰ってきた方を警戒し始めたのはその時だった。

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