山中邂逅
第1041話 撤退
統一歴九十九年五月十日、午後 - グナエウス峠山中/アルトリウシア
フゥッ、フゥッ、フゥッ、フゥッ……クオオオンッッ!!
背後からずっと聞こえていた、まるで幼児が泣くような苦し気な息遣いは、ついに一声の鼻にかかった様な甘えるような鳴き声に変わった。
「……ふぅ……」
足を止めて振り返る。最後尾を歩いていたダイアウルフは地面に腰を落とし、顔だけはそっぽを向いてもうこれ以上動けないと主張していたが、視線は明らかにこちらを向いていたし耳は両耳とも真後ろに畳まれ、尻尾はビシビシと地面を叩いていた。甘えているのである。
ドナートの部下たちは最後尾のダイアウルフの様子を確認すると、今度は一斉に先頭のドナートを見た。ゴブリン騎兵と、騎兵を背に乗せたダイアウルフの顔……ドナートの様子を伺うその表情は面白いほど全く同じである。ドナートは口をへの字に結び、鼻から長い息を吐く。
仕方ない……あのダイアウルフがこれ以上歩けないと言っているのは嘘ではないだろう。ここで無理をさせるわけにはいかない。
ドナートたちは失敗した。犯すべきでない過ちを犯した。
昨夜、ドナートは街道を進むレーマ軍の早馬をダイアウルフたちに襲わせた。本来なら武装していない、あるいは軽武装な荷馬車を襲うべきだったが、最初に八頭立ての重馬車の襲撃に成功して以降、レーマ軍は一気に街道の警備を強化した。街道を行く荷馬車は全て隊列を組み、それぞれの
ただ荷馬車を襲いさえすればいいというのなら今のドナートたちの戦力でもなんとかできるのだが、作戦上彼ら騎兵は姿を見せてはならず、ダイアウルフたちだけで襲撃を実行しなければならない。敵を見極め、襲撃するかどうかの指示は騎兵がやっても、襲撃の実行そのものはダイアウルフに任せることになるので、下手に武装した軍人が随伴している荷馬車隊を襲うわけにはいかないのだ。
おかげであれ以来、ドナートたちは全く戦果を挙げることが出来なくなっている。せいぜい、荷馬車隊に森の中からダイアウルフの姿をチラッと見せたり、あるいは遠吠えを聞かせてやったりという程度のことしかできていない。
ダメだ……このままでは……
何とか戦果が欲しかった。このままでは何もできないまま作戦を終了しなければならなくなる。持ってきた食料にも限界があったし、何より間もなく雪が降る。そうなってはもう春までドナートたちは積極的に作戦を展開できなくなる。
ドナートたちの作戦目的はレーマ軍の戦力をグナエウス峠に誘引することだ。ダイアウルフでグナエウス街道の荷馬車を襲い、レーマ軍に街道の防備の強化を強いる。ただでさえ戦力が不足しているレーマ軍はグナエウス峠への更なる戦力抽出を強いられ、戦わずして戦力をすり減らしていくことになるだろう。ダイアウルフの脅威に対処しきれなくなったレーマ軍は、ハン支援軍に対してダイアウルフ捜索を依頼してくるはずだ。それを通じてハン支援軍がアルトリウシア平野で活動する自由を認めさせる。
その目的は今のところ成功している。実際に目の前でレーマ軍がグナエウス街道の警備を強化しているのだから間違いない。ただ、どの程度の戦力を引き出すことが出来たかまではドナートたちにはわからなかったし、そしてどの程度の戦力を引き出せれば作戦成功となるのかもわからなかった。
見た感じでは多分、一個か二個
……ん~……微妙だな……
その程度の戦力誘引では足らない。多分、その程度ではディンキジクは満足してくれないだろう。ドナートにはそんな気がしていた。
もっとだ。もっと決定的な戦果を挙げねば……
しかし荷馬車の襲撃が困難になった今、これ以上ダイアウルフに襲える目標はない。いや、もちろん襲うだけなら目標はいくらでもあるのだが、襲うダイアウルフに損害が生じる危険性は避けねばならないため、どうしても選択肢が限られてしまうのだ。ただでさえ人家の無い山奥で、しかも今や木こりも炭焼き職人もダイアウルフを警戒して姿を消してしまっている以上、本当に何もない。
そこでドナートたちが目を付けたのが早馬だった。
レーマ軍は通常、重要な書類を運ぶ際は四騎一組で走ることもある早馬だが、ここのところの戦力不足……特に一昨年の火山災害で騎兵戦力がほぼ壊滅した
つまり、ガスの発生を待って早馬を狙えば、安全に戦果を挙げることが出来る。
そして昨夜ドナートたちはそれを実行したわけだが、結果は思わぬ失敗を招いた。ダイアウルフは街道を駆け抜けようとする早馬に襲い掛かることには成功したが、早馬の騎兵は濃密な霧の中で
思わぬ銃声、そして明らかにダイアウルフのものと思しきオゥンッという悲鳴にドナートたちは顔色を失った。数歩先さえ見えない白い闇の中、レーマ軍と遭遇する危険を冒してダイアウルフたちを迎えに街道へ出たドナートたちのもとへダイアウルフたちは帰ってきたが、そのうちの一頭は被弾した脚を引きずっていた。
しまった!!
激しい後悔に頭がクラクラするような
その負傷したダイアウルフが傷口の痛みに耐えかね、歩くのを拒否してしまった。弾丸を摘出する際に無理やり飲ませたポーションの鎮痛効果が切れてしまったのだろう。
だが彼らにはもうポーションは残されていない。そもそもダイアウルフが負傷することなど想定していなかったのだ。各自三本ずつ持って来ていたポーションは、全部合わせても仔牛ほどの体格を誇るダイアウルフにとっては一回分でしかなかったのである。
「仕方ない。
少し早いが、今日はここらで野営しよう。」
ドナートは溜息と共に決断を告げた。部下たちは互いに顔を見合わせると、ヤレヤレとばかりに溜息をつきながらそれぞれの愛狼の背から降り始める。言葉がわかるのか、負傷したダイアウルフの方はクゥクゥと甘えるような鳴き声を挙げながら、先ほどより激しく尻尾を振り始めた。
「プチェン!
一応、周囲を回って安全を確認しろ。
アルダリク、水を汲んで来てやれ。
ダルマン!
ソイツの様子を見ろ。
熱を持ってないか注意しろ。
あと、包帯を替えてやれ。」
ドナートの指示を、部下たちは実行に移し始める。その様子を見ながら、ドナートは今後の予定を頭の中で確認し始めた。
既に山の麓ちかくまで降っている。
明日の昼頃にはセヴェリ川を渡れるだろう。
アルトリウシア平野の
その後、エッケ島へ帰った後のディンキジクへの報告と、ダイアウルフを傷つけたことで受けるであろう叱責について、ドナートはあえて考えないようにした。
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