第1040話 アイゼンファウスト夫妻

統一歴九十九年五月十日、午後 - マニウス街道ウィア・マニ/アルトリウシア



「おぅ! 今のアルトリウス様だったぜ!?」


 馬車の窓から何気なく外を見ていたメルヒオール・フォン・アイゼンファウストは、突然身体を跳ねさせて先ほどすれ違った車列を振り返った。


「チョイと、子供じゃあるまいしチャンと座んなさいな。」


 メルヒオールがいきなり振り返ったせいで反対側へ押されてしまった妻のマーヤが文句を言う。何も知らないアルビオンニウムの町娘だった彼女は、当時ギャング団のしがない殺し屋に過ぎなかったメルヒオールと付き合い始め、その子を産み、そして結婚……以来、今までずっと付き添って来た。メルヒオールと夫婦になって来月で二十一年になる。その間に儲けた子供は、結婚前に生まれた長男を含め三男六女。既に二人の娘を嫁がせたが、彼らの下にはまだ成人に達していない子供が六人も残っていた。

 暗黒街を腕っぷしだけで伸し上がり続けた挙句、手下を連れて軍隊と一緒に海賊との本格的な戦闘にまで加わり、ついには騎士の称号と地方の郷士ドゥーチェという地位まで手に入れ、下級貴族ノビレスに昇り詰めた男メルヒオール……その古女房だけあってかなり肝っ玉の据わった女として知られ、同時に肝の太さ以上に身体の太さでもよく知られている。マーヤは元々若い頃からポチャッとしていたのだが、三人目の子供を産んで以降は体重の増加に歯止めがかからなくなっており、今では彼女の体重はメルヒオールを上回っている。しかしメルヒオールも元々太った女を好んでいたためメルヒオールの惚れ込みようもマーヤの体重に比例して強くなり続けており、二人の夫婦仲は今でも熱々だ。

 ともかく、いくら二人の心の距離が近いからと言って物理的な距離まで常に密着していていいわけではない。狭い馬車では二人並ぶだけでも結構窮屈だというのに、メルヒオールが椅子から腰を浮かせて窓に食いつくように振り返ったのだから、その拍子にメルヒオールの尻に押されたマーヤからしたら溜まったものではなかったのだろう。


「だってお前、子爵の若様だぜ?

 これからサウマンディア軍の歓迎会だってぇのによ!」


 メルヒオールは特に悪びれるでもなく、マーヤの方を振り返りながら座席に腰を戻した。マーヤはメルヒオールにスカートを踏まれないように服の裾を引っ張りながら機嫌悪そうにした。

 せっかく着飾ったドレスが台無しになったらどうしてくれるのか? マーヤは別に今夜の宴会に出る予定はなかったが、ティトゥス要塞カストルム・ティティは一応アルビオンニウムの宮殿である。宮殿で他の貴族たちと顔を合わせるかもしれないのにみっともない恰好はできないではないか。

 だがメルヒオールはそのようなことは気にも留めない。自分だってランツクネヒト風の身体のあちこちをモコモコと膨らませた派手な服を着飾っているというのに、着崩れることなどこれまで気にしたこともない様子だ。


「歓迎会ったって、偉い人の歓迎会はもう終わってて、今夜は兵隊さんたちのなんでしょう?」


「偉いの偉くないのの話じゃねえよ。

 アチラさんはアルトリウシアを助けに来てくれてんだ。

 アルトリウシアの領主の息子が歓迎しないでどうするよ?」


「きっと何か用事がおありなのよ。

 あの御方はとっても真面目で、しかも軍団長であらせられるんだし。」


 マーヤは努めて澄ました顔でそう言うと、晩秋だというのに扇子を取り出して煽ぎ始めた。既に車内に充満しているマーヤの香水が、扇子で引き起こされた風に乗ってメルヒオールの鼻をくすぐる。


「そうなんだろうけどよぉ」


 興奮気味だったメルヒオールが小鼻を膨らませて胸いっぱい息を吸い込む。


「まいったなぁ、子爵公子様にちょっとでもお話を聞けたらと思ったのによぉ」


 言葉とは裏腹にどこか満足した表情を浮かべながら再び窓の外へ視線を向ける。

 男というのはいつもそうだが、自分を大きく見せたがるものだ。特に惚れた女の前では良い恰好したがる。マーヤはメルヒオールのそう言うところを今まで呆れるほど見て来た。そしてメルヒオールの口ぶりは、マーヤに自分を大きく見せる時の特有のしゃべり方だった。郷士として、貴族として、立派に働いているところを、ちゃんと政治っぽいことを考えていることをアピールする時のポーズだ。それが分かっているマーヤは小さく鼻を鳴らし、少し意地悪な笑みを浮かべる。


「何だい今更。

 お前さま、いつだってお会いできるんじゃなかったのかい?」


 マーヤの揶揄からかうような口調にメルヒオールは慌てた。


「バッカお前ぇ!

 いつでも会えるからって、いつでも何でもすぐ話せるってのは違うんだよ!」


 引っ掛かったぁ……そう書かれているようなマーヤの笑顔にメルヒオールは自分が我を見失ったことに気づき、取り繕うようにオホンと咳払いする。


「な、なんていうかよぉ。

 その場の雰囲気っていうか、タイミングってもんがあんだよ。

 難しい話を聞きだす時とかってのはよぅ。

 俺ぁそのぉ、そういうのもちゃんと考えてよぅ。」


「はいはい。

 それじゃあどんな話を聞こうとしたの?」


 マーヤがどこか拗ねたような様子のメルヒオールに今度は子供を甘やかすように尋ねると、メルヒオールは偉そうにふんぞり返って胸を張った。


「そんなのぁ決まってらぁな!

 次の戦よぉ!」


「次の戦!?」


 誇らしげなメルヒオールとは対照的にマーヤは眉をひそめる。


「おうよ!

 ハン族のゴブリンども、エッケ島に籠ってんのが見つかったんだ。

 当然、エッケ島を攻めて、奴らに目にモノ見せてやらにゃなるめぇよ!?」


 フフンと上機嫌に笑うメルヒオールからマーヤは顔を背け、自分の側にある窓から外を眺める。西の空は雲より低くなった太陽が雲を下から照らすとともに水平線を金色に輝かせている。アルトリウシア名物『黄金の夕焼け』がちょうど見頃のタイミングだった。アルトリウシアの住民たちが自慢する夕焼けは、しかしマーヤの目に虚しく映る。メルヒオールは愛妻の気持ちにも気づかず名調子で続けた。


「今ぁ、侯爵夫人様の御心で領民どもが冬を越せるように復旧と復興に集中しちゃあいるが、戦の準備は水面下で着々と進んでやがんだ。

 実際、昨夜聞いた噂じゃあアルトリウス様ぁセーヘイムのネストリに船の手配の根回しをしていたらしい。」


「ネストリさん?」


「おう!

 ネストリはヘルマンニの爺さんに次いでたくさん船を持ってるセーヘイムの豪商だ。ヘルマンニの爺さんとネストリが船を出すって言いだしゃ、アルトリウシアの船主たちゃみんな船を出さなきゃならなくなるだろうぜ?

 そのための下準備よ!」


 そこまで言ってメルヒオールはようやく自分の女房の顔を見る。だが、その顔は自分とは反対側の窓の外へ向けられ、表情をうかがい知ることはできなかった。


「船の手配が始まったってこたぁ、戦はもうすぐだ。

 あとはタイミングよ。

 こっちだって準備もしなきゃいけねぇしよ?」


 メルヒオールの最後の一言にマーヤはピクッと反応し、一瞬間をおいてメルヒオールの方へ振り向いた。メルヒオールの予想に反し、マーヤの顔は悲痛に歪んでいる。


「まさか、お前様も戦に出るのかい!?」


「おっ!?

 おう……そりゃ、俺の街をあんなにしてくれたんだ。

 きっちり『血の復讐フェーデ』はさせてもらわねぇとよ!?」


「よしとくれよ『血の復讐フェーデ』だなんて!!」


 叫ぶようなマーヤの訴えに、メルヒオールは目を丸くして一瞬怯む。が、その後決意を新たにしたように口をキュッと結び、マーヤを睨みつけるかのように顔に力を入れると、今度はマーヤの方がハッとして身を引き、顔を背けた。


「ご、ごめんなさい。

 でも、でも……そういうのは、イエス様の教えに背くことだよ。」


 男尊女卑差社会のレーマ帝国では一般に女性が政治や軍事のことに意見を言うなど許されることではない。属州女領主ドミナ・プロウィンキアエのエルネスティーネでさえ、男性の家臣たちに意見を言う時は遠慮がちに、相手を立てるように言葉を選んでいるくらいなのだ。そのタブーを犯した妻を、小さく巨体を震わせる女房を、メルヒオールは叱らなかった。小さくため息をつき、視線を前へ移す。


「そうかもしれねぇな。

 だが、俺は郷士で、騎士なんだ。

 子爵様の家来だ。

 子爵様が戦をするって言われりゃ、どのみち行かなきゃいけねぇ。」


「戦は、避けられないの?」


「無理だ。」


 二人は視線を合わせないまま、メルヒオールは断言する。


「この戦ぁハン支援軍アイツらが始めたことだ。

 それに、ハン支援軍アイツらが諦めちゃいねぇ。

 むしろ、未だにこっちにチョッカイ出し続けてやがる。」


「許してやることは、できないのかい?

 イエス様は、『汝の敵を許せ』って、おっしゃってるよ?」


「許してやるさ。」


 メルヒオールは狭い馬車の中で無理して脚を組み、窓の外へ顔を向ける。それはこの話はもうこれで終わりだというサインであることをマーヤは知っていた。メルヒオールは金色の夕日を受けて輝く車窓へ顔を向けたまま、最後に捨て台詞でも吐くかのように言った。


「『血の復讐フェーデ』を果たした、その後でな。」

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