第1039話 アルトリウスの憂鬱

統一歴九十九年五月十日、午後 - マニウス街道ウィア・マニ/アルトリウシア



 一面を灰色の雲に覆われた空の下、一団の車列がマニウス街道を南下していく。今日は時折晴れ間が覗くことも無いではなかったが、おおむね曇り空であり断続的に小雨が降る……いかにもアルトリウシアらしい天気だった。おかげで地面はどこもかしこも重く冷たく濡れており、街道の石畳も艶やかに空の雲を移している。軍用街道ウィア・ミリタリスとして整備されたマニウス街道は路面の平坦さも水捌けも良好で水溜まりもほとんど出来ていないが、それでも馬のひづめや車輪はどこか小さくだが水を跳ねるような湿った音を響かせていた。

 その馬車の中から緻密なレース織の施された薄絹の窓越しに淀んだ空模様を眺め、アルトリウスは空に負けないくらいに沈鬱な気分に浸り、馬車の揺れに身を任せている。


 何ということだ……


 幾度となく繰り返した思考がまたぞろ彼の頭の中を巡り始めた。


 では昨夜から!? そうだとも、リュウイチ様はお一人で御過ごしだ。今、他にマニウス要塞カストルム・マニに、リュウイチ様の御傍おそば上級貴族パトリキはべっておるのか? カ、カール侯爵公子だけです。ダメではないかアルトリウス!カール閣下はまだ御幼少の身だ。いくら上級貴族パトリキとはいえ降臨者様のお世話など務まるまい! し、しかし……。 だぁ~か~らっ、私はルクレティアに一日でも早くお戻りいただかねばと言って居るのではないか。


 子供の頃のように恩師に叱責されたアルトリウスはルクレティウスの前を辞すると、養父ルキウスに事情を説明し、ティトゥス要塞カストルム・ティティで予定されていたサウマンディア軍団第三大隊コホルス・テルティア・レギオニス・サウマンディイの歓迎会への出席をキャンセルして車上の人となったのだった。


 ひとまず、急いでマニウス要塞へ戻らねばならない。リュウイチを一人にしては、また何が起こるか分からない。リュウイチはアルトリウシアに来て一人にされた初めての晩、魔法とスキルを駆使して誰にも気づかれないように勝手に抜け出し、夜の街へ繰り出して娼婦リュキスカをさらってきてしまった前科がある。一応本人は反省してくれていて「もうしない」と約束してくれているが、だからといってこちらに反省しなければならない点が無いわけではないのだ。

 客人を持て成すのは貴族ノビリタスの務めの基本中の基本。そして降臨者は世界ヴァーチャリアの客人なのだ。そして客人をほったらかしにするなど、客人に対してして良いことではない。貴族の中の貴族たる上級貴族が、そのような過ちを繰り返すなどあってはならない。


 リュキスカ様が居るからと安心していたが、認識が甘かった……


 考えてみれば当たり前のことだった。人間なら誰だって生理現象はある。そしてそれが女性なら、妊娠でもしてないかぎり毎月月経があってしかるべきなのだ。そしてリュキスカはリュウイチにさらわれて来てからほぼ一か月近く一人で夜伽よとぎを務めていた。これまで彼女の生理が問題にならなかった、それを気にしなかったなど、間抜け、不見識と責められても反論のしようがない。それがよりにもよって、サウマンディアからの救援隊を迎える日程と重なったのは単に不幸な巡りあわせとしか言いようがないのだが、それでもリュキスカ一人にすべてを任せてしまっていた事は事実である。これで再び何かあれば悔いても悔いきれない。


 幸い、療養中だったルキウスが復帰し、今日から領主として公務に就いてくれている。今夜の歓迎会でのアルトリウシアの代表としての役目はルキウスに、明日へ順延となったサウマンディア軍団との事務的な手続きはラーウスに任せ、アルトリウスは今アルトリウシアで唯一自由に動ける上級貴族としてリュウイチの下へ赴くことが出来た。ちなみにラーウスも上級貴族出身ではあるが、彼は三男であるため上級貴族としての地位には無い。

 アルトリウスがリュウイチのところへ行ったからといって、まさかなど務められるわけではないが、しかしアルトリウスが傍にいることで最低限、貴族として降臨者を持て成すという役目は果たすことができる。せめて誠意を見せることが出来る。高貴な者の世話をするのは高貴な者の役目とされている以上、リュウイチの世話は上級貴族が努めねばならず、今ティトゥス要塞を離れてリュウイチの下へ行けるのはアルトリウスしかいないのだから、他に何も成しようがないのだ。


 しかし、クィントゥスめ……そうならそうと知らせてくれればいいのに……


 クィントゥス・カッシウス・アレティウス……彼は特務大隊コホルス・エクシミウスを指揮してリュウイチの警護に専従しているが、リュウイチの身の回りに何かあれば報告する監視役としての役目も担っている。リュキスカが生理でリュウイチの夜伽ができなくなったのならクィントゥスから報告があってしかるべきなのだが、残念ながらクィントゥスは「リュキスカ様は体調が思わしくない」という程度にしか知らされていなかった。まさか生理でこれから数日は夜伽ができなくなるとは思ってもみなかったのである。当然、クィントゥスからアルトリウスへ報告など上がるわけも無かった。


 ではルクレティウスはどうして知ったのか? ……それはルクレティアの使用人たちから報告があったからである。ルクレティアは祭祀のためにアルビオンニウムへ旅立ったが、使用人の全てを連れて行ったわけではなかった。半分以上はマニウス要塞の陣営本部プリンキパーリスに残っており、リュウイチの周辺の様子についてルクレティウスに逐一報告していたのだ。さらに言うとクィントゥスはネロたちリュウイチの奴隷八人と特務大隊の将兵の出す手紙に着いては検閲していたが、ルクレティアやスパルタカシウス家の使用人たちの手紙は検閲していなかった。

 ルクレティウスがリュキスカの生理について知りながら、アルトリウスは把握も出来ていなかったのはそうした背景があったのである。アルトリウスのクィントゥスに対する苛立ち、不満は少しばかり理不尽ではあったかもしれない。が、クィントゥスがアルトリウスの期待に応えきれていないのもまた事実ではあった。


 ともかく、帰ったらまずリュウイチ様にお目通りしなければ!

 それから陣営本部プリンキパーリスだ。

 軍団司令部トリブニ・レギオニスに作戦の修正を指示する必要がある。

 このままではルクレティウス先生のおっしゃる通りルクレティアが帰ってこれない。


 基本方針を領主臨席の会議で決められていたとはいえ、手紙で知らされた作戦計画に十分な検討も加えずに承認を与えたのは失敗だった。

 たしかに、グナエウス街道の安全が確保されるまでルクレティアをグナエウス砦ブルグス・グナエイに留まらせるという判断は間違っている。そもそもあれは『勇者団』ブレーブスがルクレティアを(正確には捕虜たちを)追ってきた場合を想定し、グナエウス砦にルクレティアを留まらせることで『勇者団』がアルトリウシアへ流れ込まないようにするための方便だったのだ。

 『勇者団』がルクレティアや捕虜たちを追ってアルトリウシアまでついてきてしまい、万が一にもリュウイチの存在に気づいたら大変面倒なことになる。だからグナエウス街道にダイアウルフが出るから安全を確保できるまで……という名目でルクレティアをグナエウス砦に留まらせ、あわよくば《地の精霊アース・エレメンタル》の力を利用してグナエウス砦で『勇者団』を一網打尽に……という下心があって策定されたものだった。

 無論、『勇者団』対策の名目に利用したとはいえダイアウルフは掃討しなければならないし真面目にやるが、しかしダイアウルフを名目にルクレティアにグナエウス砦に留まるよう指示を出した以上、たとえ『勇者団』が来なかったとしてもダイアウルフが一掃されるまでルクレティアは帰ってこれないということになってしまう。

 しかもダイアウルフを五頭全部を討ち取れればいいが、もしも逃げ去ってしまった場合は本当に居なくなったと確認するのが難しくなる。限られた人数で何日もかけて山を巡り、ダイアウルフ生息の痕跡が無くなったと確認されるよりも、雪が降り始めて峠が閉鎖される方が早いだろう。

 グナエウス街道が積雪で通行止めになればルクレティアは一旦ライムントの方へ戻ってクプファーハーフェンから船で帰って来るしかなくなってしまう。天候に恵まれればよいが、それでもただでさえ遅れている帰還予定は更に十日以上遅れざるを得ない。そして、現在ゴティクスが指揮している作戦ではダイアウルフを積極的に狩らず、罠をあちこちに仕掛けることでゴブリン騎兵に心理的圧迫を与えて追い払うことを目標にしているため、雪が降り始める前にルクレティアが帰ってこれる可能性はかなり低くなってしまう。


 とにかく修正しなければ……ゴティクスカエソーニウス・カトゥスはまたぞろ機嫌を悪くするだろうな。

 朝改暮令ちょうかいぼれいだなどと叱られても、こればかりは仕方ない。


 アルトリウスは今から憂鬱だった。彼も子爵公子という立場だからこそ軍団長という職責を担っているが、所詮は二十歳の若造……立派に務めているように見えて、軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥムたちからは常々小言を言われる日々を送っていたのだった。

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