第1038話 状況変化

統一歴九十九年五月十日、午後 - ティトゥス要塞カストルム・ティティスパルタカシウス邸/アルトリウシア



 アルトリウスはアルトリウシアの防衛を担う軍団長レガトゥス・レギオニスとして、ルクレティウスにグナエウス街道の状況を説明した。

 ルクレティアの一行が間もなく……おそらく明日にはグナエウス峠を越えてアルトリウシアへ戻るであろうこと。しかしグナエウス街道には現在ダイアウルフが出没しており、街道上の荷馬車や街道付近の山中で被害が生じていること。万が一にもルクレティアに被害が及ぶことのないよう、今日からアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアがダイアウルフ掃討作戦を開始していること。そしてダイアウルフを掃討し安全が確保されるまで、ルクレティアの一行はグナエウス砦ブルグス・グナエイに留まってもらう方針であること……リュキスカとリクハルドという不愉快な話題から遠ざかったことで気分を一新して聞いていたルクレティウスだったが、アルトリウスの説明が進むにつれてその表情は再び曇っていく。


「……、現在アルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシア軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥム抽出可能な戦力の全てを投入し、ルクレティア御息女の安全確保を最優先に作戦を開始しております。

 本日の時点で投入している戦力は二個百人隊ケントゥリア騎兵隊エクィテス一個十騎隊デクリアですが、明日からは更に一個百人隊ケントゥリアが追加投入されます。

 子爵家ウィケコメスのお抱え猟師ウェナトルも全員に協力させており……先生?」


 ついに眉間を手で揉み始めたルクレティウスにアルトリウスは思わず説明を中断してしまった。もっとも、説明はほぼ終わりに差し掛かってはいたのだが……。

 ルクレティウスは手を降ろすと失望したと言わんばかりに首を振った。


軍団長閣下レガトゥス・レギオニス、それでは困りますな。」


「何がでしょうか?」


 作戦はアルトリウシア軍団のみならずエルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人臨席の下で行われた会議の場で決定した方針に従って策定されている。すべてはルクレティウスの愛娘ルクレティアの安全確保を最優先にしたものだ。ルクレティアは名門スパルタカシウス家の令嬢というだけではなく、今や降臨者リュウイチの聖女サクラの地位にあり、その身に何かあれば《暗黒騎士リュウイチ》がその力を振るおうとするかもしれない。それだけは何としても防がねばならない……それは侯爵家ならびに子爵家の両家家臣団らも含めた首脳陣の総意だ。それを実現するためにどうするかについて意見を戦わせる場面はあったが、現時点では会議の列席者たちは今の方針が最善であると結論を下している。つまり、今更くつがえし様がないことだ。


 それはルクレティウス先生も御承知の筈だが……


「アルトリウス、それではルクレティアは早く帰ってこれんではないか?」


 問いかけるルクレティウスの顔には失望の表情いろがアリアリと浮かんでいた。


「ただでさえ予定より二日も遅れているのだ。

 これではいつ帰ってこれるか分からん。」


「し、しかし御言葉ですが先生!」


 アルトリウスは思わぬ批判に動揺しながら抗議する。


「これはルクレティア御息女の安全を最優先に「アルトリウス!」」


 ルクレティウスはアルトリウスの言葉を遮った。


「ルクレティアには君の部下が、アルトリウシアの精兵が二個百人隊ケントゥリアも護衛についているではないか!?

 ダイアウルフごときなど寄せ付けはすまい。」


 アルトリウスは思わず口をパクパクさせて喘いだ。まさかルクレティアの安全を最優先にする方針にルクレティアの父親であるルクレティウスからダメ出しを食らうとは思ってもみなかったからだ。


「確かに護衛につけた軽装歩兵ウェリテスは精兵ですが、しかし万が一ということもあります。

 ダイアウルフは神出鬼没の機動性が最大の強み、たった五頭でも場所とタイミング次第では軽装歩兵ウェリテス二個百人隊ケントゥリアの守りとて、鉄壁とは言い切れません。」


軍団兵レギオナリウスの守りをダイアウルフが突破できたとしても、ルクレティアは今やリュウイチ様より《地の精霊アース・エレメンタル》様の御加護をいただいておるのだぞ?」


「いけません!」


 アルトリウシアが思わず血相を変え、大きな声を出すとルクレティウスは驚き目を丸くしてアルトリウスを見た。そのルクレティウスにアルトリウスは何とか平静を取りつくろい、反論する。


「だからこそです先生。

 もしもルクレティア御息女にダイアウルフが襲い掛かることがあったとしても、ダイアウルフがルクレティア御息女を害することなど出来はしないでしょう。御指摘の通り、我が精兵二個百人隊ケントゥリアの守りと《地の精霊アース・エレメンタル》様の御加護がありますから。

 しかし、それに頼ることは許されません。

 リュウイチ様のことはまだ伏せねばならぬのです。

 万が一ダイアウルフがルクレティア御息女の一行に襲い掛かり、《地の精霊アース・エレメンタル》様が御力を振るえば、それをたまたま近くにいた無関係な者に見られでもしたら、リュウイチ様の秘匿が危うく……」


 ルクレティウスは苦笑いを浮かべながら首を振り、アルトリウスの説明を否定する。


「《地の精霊アース・エレメンタル》様ならばダイアウルフを街道まで寄せつけもせんさ。

 実際、ブルグトアドルフでの戦でもその御力を振るわれたが、住民には知られなかったのだろう?」


 今度はアルトリウスの方が渋面を作り、首を振る番だった。


「問題は秘匿だけではありません。

 《地の精霊アース・エレメンタル》様が御力を振るうということは、ルクレティア御息女が襲われたことをリュウイチ様に知られるということです。」


 声を低くするアルトリウスとは逆に、ルクレティウスは声高に反論する。


「それはブルグトアドルフでも同じことだったではないか!」


 アルトリウスは急に頭痛でも覚えたかのように目を閉じ、両手で自らの左右のコメカミを押さえた。そして何かを押し殺すように深呼吸すると手を降ろし、目を開けて説明を再開する。


「それは相手が我々でも対処できる相手だったからです。

 確かに《地の精霊アース・エレメンタル》様の御助力を賜りはしましたが、リュウイチ様は我々の力を御信頼くださいました。

 ですが今度もそうとは限りません!

 今度の相手はダイアウルフ! ハン支援軍アウクシリア・ハンです。

 エッケ島に引きこもったハン族が相手では我々も簡単には手が出せません。

 リュウイチ様はそのことを御存知です。

 そのハン支援軍アウクシリア・ハンルクレティア御息女に害をなそうとしたとなれば、今度もリュウイチ様が我らにお任せくださるとは限らないではありませんか!?」


 理不尽としか思えないクレームとはいえ相手はかつての恩師、アルトリウスは努めて冷静に説得する。そのアルトリウスをルクレティウスは片眉を持ち上げて見上げしばらく観察すると、おもむろに片肘をついて身を乗り出した。


「そんなことを言って居って良いのかな?」


「何がです?」


「今はルクレティアに一日でも早くお戻りいただいた方が良いということだ。」


 アルトリウスは眉を寄せ、一瞬考えたが何を言われているのか分からなかった。


 まさかリュキスカ様と張り合うおつもりか?


 そこまで身贔屓みびいきするとは思いたくないアルトリウスはその邪推を振り払うように首を振る。


「申し訳ありません先生、何をそんなにお急ぎなのかわかりません。」


「リュウイチ様をお一人にしておいて良いのかということだ。」


 アルトリウスは苦笑いを作った。鼻で笑うのは辛うじて堪えたが、口角が引きつるのは抑えきれなかった。


「言いにくいのですが、リュウイチ様の御傍おそばにはリュキスカがいらっしゃいます。」


 てっきりルクレティウスはその一言に憤慨するかとアルトリウスは予想していたが、しかしルクレティウスは謎の余裕を見せる。


「アルトリウス、君は大事なことを忘れておるようだ。

 リュキスカ第一聖女様は女なのだぞ?」


「はい、よく存じておりますとも。」


 相変わらず何を言いたいのか分からず、アルトリウスは眉をしかめた。そのアルトリウスにルクレティウスは再び片肘をついて身を乗り出す。


「い~や、忘れておるなアルトリウス。

 いいか、女は月に一度、不浄の身となるのだぞ?」


 ルクレティウスが何を言おうとしているのか気づいたアルトリウスは驚愕の表情を浮かべ、ルクレティウスを凝視した。


「まさか!」


 アルトリウスの表情に勝利を確信したのか、ルクレティウスは完璧にいつもの様子に戻り、世の真理でも説くかのごとき落ち着いた口調で断言する。


「そのまさかだとも。

 リュキスカ第一聖女様は昨日より、不浄の身となられておいでだ。」

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