第1037話 想像以上
統一歴九十九年五月十日、午後 -
「で、君とて暇な身ではないはずだ。
わざわざ恩師の顔を見に来たなどというわけもあるまい。」
ルクレティウスは挨拶もそこそこに、気さくな調子でかつての愛弟子に話を促した。
「はい先生、お心遣いに感謝申し上げます。」
アルトリウスもルクレティウスの使用人が淹れてくれた香茶の茶碗に手を伸ばし、自分の方へ引き寄せる。
「本日先生をお訪ね申し上げましたのは、過日にお手紙でお願い申し上げました件につきまして、改めて御協力賜りたく……また、
アルトリウスの口調がどこか持って回った様な
ルクレティウスはアルトリウスの説明を聞きながら口をすぼめて香茶を啜ると、フムッと小さく息を飲み、視線を正面の、どこか空中へ投げかけながら、何かを思い出すように話す。
「ああ、たしかリクハルド卿が困っているとかいうお話だったかな?」
いつもならそうは思わなかっただろうが、アルトリウスにはルクレティウスが何かとぼけているような白々しさが感じられてしまい、思わず口を横一文字に引いて苦笑いを作る。
リクハルド卿を快く思っておられないという
「はい、先生。おっしゃる通りです。」
アルトリウスがそう言うとルクレティウスは手に取った茶碗を再び口元へ運び、香茶を啜るような姿勢を作り、一瞬だけアルトリウスの方を横目で見る。
「それは構わん。」
ルクレティウスは短くそう言うと、すぐに香茶をわざと音を立ててズズッと啜った。てっきりルクレティウスがゴネるものと思っていたアルトリウスは驚き、両眉を持ち上げて言葉を探す。が、アルトリウスが言うべき言葉を見つける前にルクレティウスは出鼻をくじくかのように舌鼓を打ち、ハァーッと大きく息を吐いた。
「たしかに君の言う通りだ。
リュウイチ様の降臨を伏せるためには、新聖女様のことも秘する必要がある。
なのに
私はどうやら、己の軽卒を恥じねばならんようだ。」
窓の向こうに見える中庭の美しい冬の花々に視線を遊ばせながら、ルクレティウスは独り言ちるように反省の言葉を並べ立てる。やや大袈裟に聞こえるそれは何かを思い切って洗いざらい打ち明けるかのような勢いと音量を持ってた。
いえ先生、そこまでおっしゃるほどのことは……と、宥めようとしたアルトリウスだったが、ルクレティウスはまたしても切っ先を制するかのようにおもむろにアルトリウスの方を向く。目が合ってアルトリウスは初めて、そういえば今日、ルクレティウスがまだ一度も目を合わせてくれていなかったことに気が付いた。
「実はもう、神官たちには調査を止めるよう指示を出してある。」
何の感情も読み取れないがまっすぐ自分に向けられたまま微動だにしないその視線にアルトリウスは思わず息を飲み、返す言葉を失ってしまう。
やはり、
尊敬していた、優れた理性と知性、そして高潔な人格の持ち主だと思っていた恩師の怒り……それも理不尽なまでの私情を目の当たりにし、アルトリウスは動揺を禁じ得ない。
表情を失ったアルトリウスを、まるで睨むように見つめていたルクレティウスは不意にニコリと笑い、再び視線を窓の外の中庭へ向けた。
「だから、リクハルド卿へは君からそのように答えておいてくれるかな?」
中庭へ向けられたルクレティウスの横顔からは再び表情が消えていた。
アルトリウスはゴクリと唾を飲み、それから溜息を噛み殺す。
「かしこまりました……。」
アルトリウスはそう答えるしかなかった。
ルクレティウスとリクハルドの間に不和の火種が残されてしまっているのはアルトリウスにとって残念な結果だった。ルクレティアとリュキスカは共に協力してリュウイチに仕えている。その二人を支える立場になるはずのルクレティウスとリクハルドの間にも協力関係を築くことが出来たなら、アルトリウスにとって、いやアルビオンニア全体にとっても心強い体制を構築できたことだろう。アルトリウスもそれを望んだからこそ、リクハルドとルクレティウスの間を取り持つように手紙を
ルクレティウスは聖貴族である。その出自と血統こそが彼の一族、スパルタカシウス家が貴族たる最大の根拠となっている。だからこそ、出自も血統も怪しい
そこへ来てリュウイチという降臨者に、生まれも定かならぬ娼婦を差し出し、リュウイチの最初の聖女となるはずだった自分の愛娘ルクレティアをないがしろにしたのである。ルクレティウスがリクハルドを嫌うようになるのも当然と言えば当然のことと言えよう。
が、ルクレティウスはそのように思ってはいてもリクハルド本人はそのようには考えていない。そもそも彼はリュウイチの存在はもちろん、降臨があったことすら知らないのだ。当然、自分がルクレティウスに嫌われていることも知らない。
困ったな……
リクハルドはいずれ降臨のこともリュウイチのことも知ることにはなるだろう。が、それまでは秘さねばならない。秘匿を解除した後、ルクレティウスとリクハルドには是非友好的な協力関係を結んでもらわねばならないのに、両者の協力関係はゼロどころかマイナスからのスタートになってしまう。
アルトリウスは心なしか、頭がクラクラしてくるのを感じた。
「よろしく頼むよ。
ではその件は以上だな
では次だ。
たしか、ルクレティアの帰路の安全がどうのとかいう話だったと思ったが?」
アルトリウスの気持ちなど気にも留めていないかのように、ルクレティウスは先を促した。おそらく、リュキスカやリクハルドの話題など、触れたくも無いのだろう。
ルクレティウスに促されてハッと我に返ったアルトリウスは「ハイッ」と声だけは元気に答え、手に持っていた茶碗から香茶を一口啜った。
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