第1036話 気がかり

統一歴九十九年五月十日、午後 - ティトゥス要塞カストルム・ティティスパルタカシウス邸/アルトリウシア



 筆頭幕僚トリブヌス・ラティクラウィウスという役職は基本的には名誉職である。本来、軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥムを束ね、軍団長レガトゥス・レギオニスに何かあった場合はその指揮権を引き継ぎ、軍団レギオーを掌握する立場ではあるが、就任するのはどこかの上級貴族パトリキの子弟に限られていた。未だかつて、平民プレブス下級貴族ノビレス出身の将校が叩き上げで筆頭幕僚の地位に就いた試しはない。

 百%コネだけで決まる、ある意味稀有なポストではあるが、何せ軍団長に次ぐ地位である。下手な人物を就任させるわけにはいかない。したがって軍団司令ドゥクス・レギオニス……野戦軍コミターテンセスならレーマ皇帝インペラートル・レーマエ辺境軍リミタネイなら領主の息子や兄弟など、軍団が壊滅しかねないヘマをやらかしてもフォローできそうな身内か、あるいはよほど信頼のおける有能な人物が選ばれる。


 ラーウス・ガローニウス・コルウスはというと、両者の中間だった。彼の父は元老院議員セナートルである。ガローニウス・コルウス家は代々元老院議員を輩出する名門の家柄で、ラーウスの父であり現当主であるプロクルスは皇帝派にも守旧派にも属さない中道派の重鎮として知られている。アルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアに入隊したラーウスが百人隊長ケントゥリオを経ることなく、いきなり幕僚トリブヌスに就任したのはその父プロクルスの口利きがあったからに他ならない。未だにかつての敵としてレーマ帝国元老院セナートス・レーマエの中で警戒の目を向けられることが多く、帝国貴族の中で立場の弱いアルトリウシア子爵家にとって、中道派の議員を一人味方につけることが出来るなら軍団のポストの一つくらいは安いものだった。

 もっとも、ラーウスが思っているようにそれが全てだったわけではない。帝都レーマの兵学校を首席で卒業した彼は決して無能というわけではなかったのだ。彼の頭脳の明晰さは誰もが認めるところであり、あえて筆頭幕僚のポストにすげたのもプロクルスに対する点数稼ぎだけが理由だったわけではなかったのである。


 ただ、経験不足は否めない。兵学校を卒業したは良いものの軍人として身を立てようと入隊を志した先に父からの干渉(息子を頼むという口添え)があったことを知り、父と実家への反発から入隊を撤回……そのままほぼ丸一年を棒に振り浪人生活を送り、なんとか自力で見つけた伝手つてを頼りにアルトリウシア軍団への入隊を果たしている。

 結局、そこでもおせっかいな父からの口添えはあったわけだが、それを知ったのは既に入隊した後のことだった。今度は辞めようにも既に入隊した後だったし、おまけに既に帝都レーマから遠く離れたアルトリウシアに到着してしまっていた。今更辞めるわけにはいかなかったし、辞めたところでレーマに戻ることもできない。南の辺境にはアルトリウシア軍団以外に入隊できそうな就職先も無い。

 ともあれようやく始まった彼の軍歴はようやく一年と五か月目に突入したところである。そんな短い期間に積める経験など、所詮はたかが知れている。そして経験不足なエリートというと、どうしても考えが教条的になりがちだ。ラーウスもその例外ではなかった。


 ラーウスは結局、情報が漏れたことに対して事実上何も対応しなくてよいという決定に納得しきれていないようだった。頭は悪い方ではないのでもちろん理屈は理解している。

 麓のマニウス要塞カストルム・マニからグナエウス峠頂上のグナエウス砦ブルグス・グナエイまで二十マイルを超える街道を守るために投入可能な兵力はたったの三百人だ。街道沿いの中継基地スタティオを守る警察消防隊ウィギレスは含んでいないが、街道を行き来する荷馬車に随伴する騎兵隊エクィテスはその三百人に含んでいるのだから、街道を離れてダイアウルフを狩りたてるために仕える兵力は三個百人隊ケントゥリアと少々と言ったところである。

 たかが二百人で山狩りを行えと言われても無理な話だ。しかも相手はタダの獣ではなく、草原を駆けまわる野生馬のように山林の中を自在に駆け回ることのできるダイアウルフだ。本気で狩りたてようとしてもどだい無理な話である。


 そこでゴティクスは森の中に罠をかけて回る作戦を立案した。罠でダイアウルフを捕まえようというのではない。どうせダイアウルフにはハン支援軍アウクシリア・ハンの騎兵が同行しているのだから、罠にかかったとしても簡単に解除されてしまうのは目に見えている。だから罠そのものには期待していない。期待しているのは心理的効果だった。

 どうせダイアウルフには騎兵が随行している。というより、騎兵がダイアウルフを操っているに違いない。ならばその騎兵の心理に働きかけようというのだ。


 狩猟につかう罠は仕掛けて終わり、ということはない。罠猟を行う猟師は罠を仕掛けたら獲物がかかってないか、あるいは間違って人間が掛かるような事故が起きてないか、あるいは獲物に気づかれて壊されてしまっていないかなどを確認するため、定期的に点検して回ることになる。つまり、罠が仕掛けられているということは、必ずそこを誰かが見て回っているということだ。そこに近づけば、誰かに見られてしまう危険性があるということだ。

 しかもその罠があからさまにダイアウルフを狙った物だったら? ……仕掛けたのは間違いなくアルトリウシア軍団かその関係者であろうし、罠を点検して回る際はダイアウルフがかかっていることを想定してダイアウルフに対抗できるだけの戦力を伴うはずだ。

 つまり、ダイアウルフ用の罠を目にしたハン族騎兵は、仮にその罠が見せかけだけの偽物だったとしても、それ以降そこへ近づくことに危険を覚えるはずなのだ。


 ハン族はダイアウルフが逃げたと言っている。つまり、ハン支援軍の兵士はダイアウルフと同行しておらず、ダイアウルフはハン支援軍のコントロール下から離れていることになってなければならない。ダイアウルフに同行しているであろう騎兵は人に絶対に見つかることのないよう厳しく命じられているだろうから、この罠の存在はかなりな効果が期待できる。


 であれば、そこへアルトリウシア軍団が今日からダイアウルフの掃討作戦を展開するという情報が漏れたところで何だというのだろうか? むしろ敵の警戒心が高まり、却って仕掛けた罠の心理的効果が高まるくらいではないか?


 アルトリウスの説明にラーウスは反論を思いつかなかった。それでも手の内はなるべく敵に知られない方がいいのではないかというような、根拠の曖昧な原則論しか口にできなかった。実際のところ、彼の頭の中には何か気になる部分があったのかもしれない。だがそれを明確に言語化することが、彼にはできなかったのだ。そしてラーウスは、自分でも何に引っ掛かっているのか自分で理解できていなかった。

 反論したくても出来ない。何か引っかかるのだが何に引っ掛かってるのか自分でもわからない……そんなモヤモヤしたものを抱えたままラーウスは退室している。


「頭は悪くないんだがな……むしろ、私より良いはずなんだが……」


 ラーウスが退室した後、残ったアルトリウスはそう嘆息した。そしてすぐに気持ちを切り替えて、ルキウス邸を後にしている。アルトリウスも暇ではないのだ。領主代行という仕事から解放されたとはいえ、子爵公子として領主の仕事の一部を代行しなければならない点は今も変わっていない。おまけに軍団長としての仕事もある。そして次の仕事は、彼の持つあらゆる肩書に関する責任の重複したものだった。


「突然の訪問にもかかわらずお会いいただきありがとうございます、先生。」


「君の訪問を拒む扉を私は持たんよ、アルトリウス。」


 ルクレティウス・スパルタカシウスはそう言ってかつての教え子を歓迎した。

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