第1035話 謎の足跡

統一歴九十九年五月十日、午後 - グナエウス峠山中/アルトリウシア



「足跡だと!?」


「ああっ!踏み荒らさないで!!」


 軍団兵たちレギオナリイが我も我もと一斉に近づこうとするのを、猟師ウェナトルは慌てて両手を広げて押しとどめなければならなかった。百人隊長ケントゥリオ咄嗟とっさに両手を広げて踏みとどまり、後ろからついてこようとする部下たちを押しとどめる。下り坂で勢いづいてしまった行き脚を止めようと足を踏ん張るが、足場が悪い。百人隊長は蹈鞴たたらを踏む振動でガレアが前にズレ落ちそうになってしまいながら、ようやく手前で立ち止まった。


「周囲への警戒を、厳とせよ!」


 兵たちの子供のような落ち着きの無さに呆れつつ、ゴティクスが短く命じると百人隊長はサッと振り返り、先ほど見せた失態を打ち消すかのように部下たちに同じ命令を伝えた。


「周囲を警戒しろ!

 短小銃マスケートゥムはまだ込めんで良い!

 盾持ちパルマティ投槍ピルムを構えて全周防御!!」


 兵たちが獣道から外れてぞろぞろと周囲に広がっていくのを見ながら、ゴティクスと猟師は地面の足元へ注意を戻した。


「これか、これがそうなのか?」


 しゃがんだゴティクスが触れないように慎重に指さした先には、巨大な足跡があった。三つの大きな丸が一つに重なった様な横に長い雲形の巨大な肉球と、それに付随するように四つの肉球が等間隔で弧を描くように一組になって並んでいる。その雲形の肉球の跡だけでも、ゴティクスが手の目一杯広げたのと同じくらいの大きさがあった。

 ゴティクスはもちろんダイアウルフを直接見たことがある。その足跡を観察したことはなかったが、しかしあの巨大なオオカミの足跡なら確かにこれくらいあってもおかしくはない。ドッドッドッドッ……あの近くを歩かれると腹にまで響いてくるように聞こえる低い足音は、これくらいの大きさの脚とそれに見合った体重があればこそだろう。


「それなんですが……わかりません。」


 自信なさそうな、困った様な猟師の答えにゴティクスは耳を疑った。


「ダイアウルフの足跡じゃないのか!?」


「大きさからするとそうなんですけど……アタシもダイアウルフの足跡は見たことないんでね。断言はできねぇんでさ。」


 アルビオンニアにはオオカミは居てもダイアウルフは居ない。ダイアウルフはハン支援軍アウクシリア・ハンが飼育し使役している分だけだ。山の中で野生動物ばかりを相手にしている猟師が、ダイアウルフの足跡をマジマジと見たことが無くても仕方がないだろう。

 自分が間抜けな質問をしてしまったこと、猟師のことをいくらなんでも無邪気に期待しすぎてしまったことにゴティクスは恥じ、何とも言えない気まずそうな表情を作ったが、それは猟師も同じだった。


「大きさからするとダイアウルフだろう。

 それとも、この山には他にこういう足跡を残す動物が他に居るのか?」


 ゴティクスは気まずさを隠すように視線を地面に戻しながら尋ねる。猟師があえて断言しないのには、もしかしたらゴティクスが想像もしてないような理由があるのかもしれない。


「いや、ありませんがね。」


 おいおい……猟師の答えにゴティクスが目を閉じ頭を抱えようとした時、猟師は「ただね」と続けた。


「コイツぁ、オオカミの足跡とは違うんでさぁ。」


「オオカミとは違う?」


 そりゃ、ダイアウルフなんだからオオカミとは違うだろ。

 コイツは何を言ってるんだ?


 思った事を軽卒に口にせずにひとまず腹の内に留めるのは人が持つべき美徳の一つである。猟師の方へ視線を戻しながら尋ねるゴティクスに、猟師は機嫌を損ねるでもなく、真剣な面持ちで応えた。


「ええ、コイツぁアタシの見たところ犬の足跡でさぁ。」


「犬にしちゃデカすぎないか?」


 眉をひそめるゴティクスの顔などに目もくれず、猟師は改めて足跡を指差して解説を始める。


「犬とオオカミの足跡はほとんど同じ形です。

 この、肉球の形は全く同じで、それだけだと区別なんかつきやせん。

 ただね、ほらココ。」


 肉球の形をなぞっていた猟師の人差し指が、等間隔に弧を描くように並んだ小さい肉球の先端を指さす。


「肉球の先の爪の跡を見てください。

 ほら、肉球のせいでできたヘコミと爪が地面に食い込んだ跡がくっついてるでしょう?

 これはオオカミじゃなくて犬の足跡の特徴なんでさぁ。」


「オオカミは違うのか?」


 猟師の指さす足跡を睨みながらゴティクスが尋ねると、猟師は初めてゴティクスの方を見た。その顔には、彼が今日初めて見せる笑みが浮かんでいる。


「ええ、オオカミの足跡は、爪の跡と肉球の跡が離れてるんでさぁ。」


 ゴティクスは猟師の顔を見た。猟師の目は自信に満ち溢れており、まっすぐゴティクスの目を見ている。嘘をついたり、いい加減なことを言っている者の目ではない。


「じゃあ、これは犬の足跡だって言うのか!?」


「多分ね。

 アタシもこんなデカイ犬の足跡なんざ見るのは初めてでさぁ。

 アタシの猟犬だって今日連れて来てるのはオオカミ狩りに使うための、犬にしちゃかなりデカい方だが、それでもコイツの半分くれぇしか無ぇ。

 コイツぁとんでもない化け物ですぜ?」


 最初、猟師として初めて自慢に値する発見をした喜びに笑みを浮かべていた猟師だったが、言っているうちに自分の言っていることの意味に改めて気づいたのだろう、だんだん笑みが強張り、最後の方はむしろ怖い表情になっていた。


「お前はダイアウルフの足跡を見たことが無いのだろう?

 これがホントにダイアウルフじゃなくて犬の足跡だと、断言できるのか?」


 ゴティクスの真剣味を増した表情に怯えたわけではないだろうが、猟師はゴクリと喉を鳴らして一瞬躊躇ためらった後に答えた。


「間違いありやせん。」


「理由を訊いていいか?」


「もちろんでさ。」


 猟師の顔には既に笑みはない。いや、余裕そのものがない。自信はあるが、とんでもない化け物が近くに潜んでいるらしいことを確信し、その確信への自信ゆえに怯えているのだ。


「犬とオオカミは親戚だ。ダイアウルフもオオカミの親戚。

 だからそれぞれ足跡が似てるのは間違いありやせん。

 ですがね。

 犬はオオカミを人間が飼いならした生き物だ。

 飼いならされた犬はオオカミほど狩りをしねぇ。

 人間のために働き、代わりに人間から餌を貰ってる。

 だから直接獲物に襲い掛かることはなくなっちまった。

 アタシの飼ってる猟犬だって、オオカミほどは狩りはしねぇ。

 だから犬は身体が退化して、オオカミとは違う生き物になっちまった。」


 そこまで言うと猟師は再び足跡を指さす。


「オオカミは獲物を狩るために爪が発達してる。

 爪がデケェから、足跡も爪が肉球から離れてるんでさ。

 けど犬は違う。

 狩りをしねぇから爪が退化しちまった。

 爪が縮んで、足跡を見ると肉球と爪がくっついて見えるくらいになっちまった。

 この足跡みたいにね。」


「つまり、これは間違ってもオオカミの足跡なんかじゃありえないと……」


「ダイアウルフが狩りをオオカミほどしねぇ。

 犬みたいに爪が退化した生き物だってぇなら、アタシの見立てが間違ってるかもしれませんがね。」


 ダイアウルフは人間に飼われている。が、伝承によればダイアウルフがハン族に飼われるようになったのは、伝説上の降臨者バランベルが降臨した結果だとされている。つまり、どれだけ長く見積もってもダイアウルフが飼われるようになってから現在まで、数百年程度しか経っていない。ダイアウルフは特に犬のように人工交配による品種改良などはされていない。むしろ、ハン族はダイアウルフの種としての純血を守ろうとしているのだ。そんなダイアウルフが、一つの種として身体構造に変化を生じさせるには数百年程度は短すぎるだろう。ダイアウルフは、ハン族に飼育されるようになる以前と変化が生じていないと見る方が自然だ。


「コイツは、ダイアウルフじゃありません。」


 改めて猟師は断言した。ゴティクスはダイアウルフの物としか思えない巨大な犬の足跡を睨んだまま、口元に手を当てて立ち上がる。


「コイツがダイアウルフじゃないなら、コイツは一体何なんだ!?」


 ダイアウルフ並みの大きさの犬……そんな化け物、聞いたことも無い。想定外の発見に頭を悩ませ始めたゴティクスに、猟師はしゃがんだまま尋ねた。


「ところで旦那ドミヌス

 今日、この山に貴族様ノビリタス騎兵隊エクィテスが入る予定はおありですかぃ?」


 猟師からの思わぬ質問にゴティクスは再び顔をしかめた。


「いや、そんなのは無いぞ?

 今、グナエウス峠はダイアウルフが出ると警告が出されてるんだ。

 炭焼き職人だって避難を指示されてる。

 それなのに今わざわざ山に入る物好きなんて居るはずがない。」


 意味が分からない……そんな混乱を内包した表情のゴティクスに、猟師は追い打ちをかけるように新たな謎を示した。


「じゃあ、こっちの馬のひづめの跡は、何なんでしょうかね?」

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