第1033話 ウェナトル

統一歴九十九年五月十日、午後 - グナエウス峠山中/アルトリウシア



 シトシトと音も無く降り続く冷たい雨は、樹々の葉を濡らし、葉の上を流れて集まり、葉の先から雫となって下の葉へと伝い、やがて大粒の水滴となってボタッ、ボタッと地面へ向かって落ちていく。峠を吹きすさぶ身を切るような冷たい風は、この山林の中では樹々にさえぎられて勢いを大きく減じられているが、時折頭上から落ちてくる大粒の水滴はまるで氷の槍のように重く冷たく、すぐにでもここが冬将軍の領域に飲み込まれるのだと警告しているかのようである。地面を覆いつくすフカフカの腐葉土はいつしか重く冷たく濡れて、歩く者の脚にイチイチまといつき、これから訪れる新たな支配者への生贄いけにえに加えようとしているかのようだ。

 こごえる身体を分厚い冬用外套パエヌラで包み、スッポリと頭全体を覆うフードの中で今にも鳴り出しそうな歯をギュッと噛みしめながら寒さに耐える彼が、かくも悲壮な感想を抱いているのはここが昼なお暗い森の奥だからではない。ただ単に、彼がホブゴブリンで寒さが大の苦手だったからだ。


 これじゃラーウスコルウスの坊ちゃんのことを笑えないな。


 昨日、呼びもしないのに事件現場の視察についてきたラーウスが寒さに耐えかねてキレ散らかしていたのを冷めた目で見ていた自分を思い出すと、今更ながら滑稽こっけいに思えて仕方ない。地元アルビオンニア属州出身でレーマから赴任してきたホブゴブリンなんかよりはずっと寒さに慣れていると自負していても、それは所詮平地での話。山に登ればまた寒さのレベルは平地の比ではない。

 結局のところ、昨日多少なりとも寒さに耐えれていたのは、自分より寒さに弱くて不平不満を素直に表に出すラーウスが近くにいたからこそなのだ。田舎者特有の、都会人に対する対抗意識なのか、あるいは上級貴族パトリキに対する下級貴族ノビレス平民プレブスひがみなのか、ともかくラーウスの存在が彼のヤセ我慢を助けていたのは間違いない。それに気づいた今、自分が思っていたより大人ではなかったこと、そして自覚していたよりずっと偏屈な人間であったことに自嘲じちょうを禁じ得ない。


幕僚の旦那ドミヌス・トリブヌス、終わりましたぜ。」


 また一つ、罠を仕掛け終えた猟師ウェナトルが振り向き、報告する。


「ああっ、ご苦労!」


 報告に応えたゴティクス・カエソーニウス・カトゥスの声が変に上ずっていたのは、垂れそうになった鼻水を堪えた拍子に鼻孔がムズムズし、クシャミが出そうになっていたからだ。


 くそ、クシャミが出そうで出ない。

 というか、鼻水が垂れそうだ。

 ああ、何だ……鼻毛が伸びてるな。

 さっきからムズムズするのは鼻毛コイツのせいか!?


 難しい顔をして鼻先を摘まむゴティクスに、立ち上がった猟師が怪訝けげんな表情を見せる。


旦那ドミヌス、どうかなすったんで?」


「いや、何でもない。」


 鼻をいじるのをやめたゴティクスは、鼻のムズムズを堪えるように顔面に力を入れて鼻をいからせながら猟師が仕掛けた罠を見た。素人目にも出来が良いとは言えない、かなり大雑把おおざっぱ代物しろものである。そもそも、仕掛けを隠そうという意図がまるで無い、罠のサンプルとして展示されているかのようだ。


「こんなモンでホントにいいんですかね?」


 有り合わせの材料ででっち上げられた、とてもではないが出来が良いとは到底言えない罠……もはやオブジェと言った方がよさそうな代物を観察するゴティクスに、猟師はすり寄ってきた猟犬の首を撫ですさりながら呆れたように尋ねる。それに対するゴティクスの答えはひどく楽観的であっけらかんとしたものだった。


「かまわないさ。」


 楽しそうにすら見えるゴティクスは、猟師の目にはもはやヤケクソになっているかのようにしか見えない。。


「元々、そういう依頼だったはずだろう?

 お前もそれを承知で引き受けたはずだ。」


「そりゃまぁ……そうですがね?」


 昨夜、猟師は居酒屋タベルナで酒を飲んでいたところへ突然押しかけてきた軍団兵レギオナリウスに連れ出され、マニウス要塞司令部プリンキピア・カストリ・マニで今日の仕事を告げられた。ゴティクスは「依頼」と言ったが、彼の雇い主である子爵公子アルトリウスのサインが入った書類を突き出されては断ることなど出来るわけもない。猟師は領主の家来であり、領主に代わって領主の森を管理するのが仕事なのだ。その領主の代理人であるアルトリウスが「やれ」と言えば、それは雇い主からの命令なのである。猟師本人からすれば、承知も何もあったものではない。しかし、それでも猟師は抵抗した。成功などする見込みが全くなかったからだ。


「無理ですよ!

 罠を仕掛けるって簡単に言ってくれやすがね、罠を仕掛けるにゃ獲物の通り道や行動パターンとか調べてからじゃねぇと、罠を仕掛ける場所を選べねぇんだ。

 それにダイアウルフ!?

 冗談じゃねぇや!

 アタシらが普段使ってるオオカミ用の罠じゃサイズが違いすぎて使えねぇ!

 材料だって一から用意しなきゃ揃ってぇんだ。

 昨日の今日じゃ獲物の通り道だってわからねぇし、材料もありゃしねぇ。

 たとえレーマいちの猟師連れてきても、出来っこねぇですよ!」


 彼だって遊びでやってるわけではないのだ。グナエウス峠山中で狩猟をし、山を管理するのは彼の仕事だが、ダイアウルフは軍の畜獣だ。いわば生きている兵器であり、その対処は軍人の領分だ。猟師の領分ではない。

 それなのにいきなりダイアウルフが現れたから罠を仕掛けてくれと言われてホイホイと引き受けるわけにはいかない。下手に引き受けて失敗し、その責任を取らされるようなことにでもなればたまったものではない。まだ犯してもいない罪で死刑執行の予約書類にサインをするようなものだ。

 話を聞いて酔いが一気に醒めてしまった猟師が、早馬タベラーリウスで届けられたばかりの子爵公子のサイン入りの書類を目の前にしながら、それでも必死の抵抗を試みるのも無理はなかった。


「落ちつけ。

 別にダイアウルフを本気で捕まえなくても良いのだ。

 要は、罠が仕掛けられているのを見せつけるのが目的だ。

 だから罠は、むしろ見せてやった方がいいくらいなのだ。」


 グナエウス峠での視察から帰ったゴティクスがなだめながら一時間近い時間をかけて辛抱強く説得し、更にダイアウルフが捕まえられなくても責任は問わないと文書にすることでようやく猟師は納得した。そして今日、実際に猟師たちはいくつかのグループに分かれ、こうして山の中で罠を仕掛けて回っているのである。


 だが、猟師は承知の上で引き受けたとはいえ、それでもやっぱり納得しきれていない様子だった。職人気質かたぎなのだろう、絶対に獲物が引っ掛からないであろう出来の悪い罠を、ただ見せびらかすために仕掛けて回るなど、プロの猟師としてのプライドが許さないのだ。まして一つの猟師グループにそれぞれ二個十人隊コントゥベルニウムずつの軽装歩兵ウェリテスが護衛として随伴ずいはんしているのだ。ただでさえ丸見えな罠の周囲に、人間の臭いと足跡をこれでもかというくらい残していくのだから、野生動物は決してこの罠に近寄っては来るまい。


「まあ、一度引き受けた以上は仕事ですから、アタシもやりますがね。

 できればこんな仕事は二度と御免ですね。」


 不満を隠そうともしない猟師はそう嘆息すると、道具を持って次の場所へと歩き始める。それにゴティクスも、そして護衛の軍団兵たちもついて行く。

 仕事に納得がいっていないとはいえ、そこは流石にプロの猟師である。山のことはよくわかっている。まるで自分の庭のように迷いなくズンズンと進んでいく。そこが既にどこかも分からなくなっている軍人たちはついて行くだけで精一杯という有様だ。が、その猟師が急に立ち止まった。


 猟師の前を尻尾を振りながら歩いていた猟犬が急に立ち止まり、地面の臭いを嗅ぎ始める。それ自体は珍しいことではない。これまでも何度も見た光景だ。が、今回は違った。左右に振られていた猟犬の尻尾が止まっている。異変に気付いた猟師は猟犬の近くまで小走りで駆け寄ると、慎重に地面を観察し始めた。そしてパッと後ろを付いて来る軍人たちに向かって広げた両手を突きだし、止まるように合図する。

 ゴティクスたちは驚いてその場に立ち止まった。


「何だ?」

「いや、わからん。」

「何か見つけたみたいだ。」


 しゃがみ込んで地面を観察していた猟師はスッと立ち上がり、戸惑う軍人たちの方を振り返り、人差し指を口に当てた。そして指をクイックイッと動かして無言のまま手招きする。ゴティクスは護衛部隊を指揮する百人隊長ケントゥリオと一度顔を見合わせると無言のまま頷き、なるべく音を立てないように猟師の方へ近づいた。


「どうした、何かあったか?」


 尋ねるゴティクスに猟師は低い声で答える。


旦那ドミヌス、どうやら足跡を見つけちまったみたいです。」

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