第1033話 ウェナトル
統一歴九十九年五月十日、午後 - グナエウス峠山中/アルトリウシア
シトシトと音も無く降り続く冷たい雨は、樹々の葉を濡らし、葉の上を流れて集まり、葉の先から雫となって下の葉へと伝い、やがて大粒の水滴となってボタッ、ボタッと地面へ向かって落ちていく。峠を吹きすさぶ身を切るような冷たい風は、この山林の中では樹々に
これじゃ
昨日、呼びもしないのに事件現場の視察についてきたラーウスが寒さに耐えかねてキレ散らかしていたのを冷めた目で見ていた自分を思い出すと、今更ながら
結局のところ、昨日多少なりとも寒さに耐えれていたのは、自分より寒さに弱くて不平不満を素直に表に出すラーウスが近くにいたからこそなのだ。田舎者特有の、都会人に対する対抗意識なのか、あるいは
「
また一つ、罠を仕掛け終えた
「ああっ、ご苦労!」
報告に応えたゴティクス・カエソーニウス・カトゥスの声が変に上ずっていたのは、垂れそうになった鼻水を堪えた拍子に鼻孔がムズムズし、クシャミが出そうになっていたからだ。
くそ、クシャミが出そうで出ない。
というか、鼻水が垂れそうだ。
ああ、何だ……鼻毛が伸びてるな。
さっきからムズムズするのは
難しい顔をして鼻先を摘まむゴティクスに、立ち上がった猟師が
「
「いや、何でもない。」
鼻を
「こんなモンでホントにいいんですかね?」
有り合わせの材料ででっち上げられた、とてもではないが出来が良いとは到底言えない罠……もはやオブジェと言った方がよさそうな代物を観察するゴティクスに、猟師はすり寄ってきた猟犬の首を撫ですさりながら呆れたように尋ねる。それに対するゴティクスの答えはひどく楽観的であっけらかんとしたものだった。
「かまわないさ。」
楽しそうにすら見えるゴティクスは、猟師の目にはもはやヤケクソになっているかのようにしか見えない。。
「元々、そういう依頼だったはずだろう?
お前もそれを承知で引き受けたはずだ。」
「そりゃまぁ……そうですがね?」
昨夜、猟師は
「無理ですよ!
罠を仕掛けるって簡単に言ってくれやすがね、罠を仕掛けるにゃ獲物の通り道や行動パターンとか調べてからじゃねぇと、罠を仕掛ける場所を選べねぇんだ。
それにダイアウルフ!?
冗談じゃねぇや!
アタシらが普段使ってるオオカミ用の罠じゃサイズが違いすぎて使えねぇ!
材料だって一から用意しなきゃ揃って
昨日の今日じゃ獲物の通り道だってわからねぇし、材料もありゃしねぇ。
たとえレーマ
彼だって遊びでやってるわけではないのだ。グナエウス峠山中で狩猟をし、山を管理するのは彼の仕事だが、ダイアウルフは軍の畜獣だ。いわば生きている兵器であり、その対処は軍人の領分だ。猟師の領分ではない。
それなのにいきなりダイアウルフが現れたから罠を仕掛けてくれと言われてホイホイと引き受けるわけにはいかない。下手に引き受けて失敗し、その責任を取らされるようなことにでもなればたまったものではない。まだ犯してもいない罪で死刑執行の予約書類にサインをするようなものだ。
話を聞いて酔いが一気に醒めてしまった猟師が、
「落ちつけ。
別にダイアウルフを本気で捕まえなくても良いのだ。
要は、罠が仕掛けられているのを見せつけるのが目的だ。
だから罠は、むしろ見せてやった方がいいくらいなのだ。」
グナエウス峠での視察から帰ったゴティクスが
だが、猟師は承知の上で引き受けたとはいえ、それでもやっぱり納得しきれていない様子だった。職人
「まあ、一度引き受けた以上は仕事ですから、アタシもやりますがね。
できればこんな仕事は二度と御免ですね。」
不満を隠そうともしない猟師はそう嘆息すると、道具を持って次の場所へと歩き始める。それにゴティクスも、そして護衛の軍団兵たちもついて行く。
仕事に納得がいっていないとはいえ、そこは流石にプロの猟師である。山のことはよくわかっている。まるで自分の庭のように迷いなくズンズンと進んでいく。そこが既にどこかも分からなくなっている軍人たちはついて行くだけで精一杯という有様だ。が、その猟師が急に立ち止まった。
猟師の前を尻尾を振りながら歩いていた猟犬が急に立ち止まり、地面の臭いを嗅ぎ始める。それ自体は珍しいことではない。これまでも何度も見た光景だ。が、今回は違った。左右に振られていた猟犬の尻尾が止まっている。異変に気付いた猟師は猟犬の近くまで小走りで駆け寄ると、慎重に地面を観察し始めた。そしてパッと後ろを付いて来る軍人たちに向かって広げた両手を突きだし、止まるように合図する。
ゴティクスたちは驚いてその場に立ち止まった。
「何だ?」
「いや、わからん。」
「何か見つけたみたいだ。」
しゃがみ込んで地面を観察していた猟師はスッと立ち上がり、戸惑う軍人たちの方を振り返り、人差し指を口に当てた。そして指をクイックイッと動かして無言のまま手招きする。ゴティクスは護衛部隊を指揮する
「どうした、何かあったか?」
尋ねるゴティクスに猟師は低い声で答える。
「
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