第1028話 戦況の変化

統一歴九十九年五月十日、午後 - ティトゥス要塞司令部プリンキピア・カストリ・ティティ/アルトリウシア



 サウマンディア軍団レギオー・サウマンディアアルトリウシア派遣隊首脳による会談は中断を余儀なくされた。部屋の扉が叩かれ、侯爵家の使用人がマルクスに頼まれた飲み物……冷えた果汁飲料テーフルトゥムを持て来たからだった。

 マルクスの前に物々しいデザインの銀のスタンドが置かれ、そこに山羊の角を削って作った角杯リュトンが立てられる。緻密な彫刻と金銀の象嵌ぞうがん細工を施した角杯に真鍮の水差しヒュドリアからオレンジ色の液体が注がれると、マルクスの鼻を柑橘系の爽やかな香りがくすぐりはじめる。チョロチョロという水音と共にカラカラと小さく軽やかな音を立て、オレンジ色の果汁飲料で満たされていく角杯の中に透明な塊が転がり落ちるのに気づいたマルクスは目をみはった。


「今のは氷か?

 去年のがまだあったのか!?」


 この世界ヴァーチャリアには冷凍技術など無い。ムセイオンの聖貴族の中には魔法で氷を作ることが出来る者がいるが、一般に氷と言えば天然物である。冬にできる氷を集め、外気温の影響を受けにくい氷室ひむろに持ち込んで断熱材代わりの大鋸屑おがくずや藁などを被せて保存するのだ。氷は当然冬場に作られる、春から夏にかけて氷室から必要量を取り出して使う。そして今は秋……それも冬間近の晩秋だ。山の頂上はそろそろ白くなり始める時期だが、今年の氷にはまだ早い。しかし、晩秋の今時分は氷室の在庫は最も少なくなる。既に寒くなったこの時期に氷の需要は決して高くはないが、氷の希少性は最も高くなっている筈だった。その氷を一介の軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥムに提供する……アルトリウシア侯爵家のサウマンディア軍団への歓待ぶりが常軌を逸していることにマルクスはもちろん同席していたバルビヌスもスプリウスも驚いた。


「いえ、これは今年の氷でございます。」


 使用人はその大きく特徴的な瞳と唇をキュッと歪めて愛らしい笑みを作って答えた。


「今年の!?

 まだ早いだろうと思ったが……」


 ここアルトリウシアは緯度の割には気温が高い温暖な気候である。東にそびえる西山地ヴェストリヒバーグはレーマ帝国有数の豪雪地帯だが、それは気温の低さに由来するものではなく、偏西風が運び込む大量の水蒸気に由来するものだ。実際、気温はアルトリウシアよりも少しばかり赤道に近いサウマンディウムの方が低いくらいなのである。

 そのサウマンディウムでもまだ今年の氷は手に入らない。ましてサウマンディウムより暖かいアルトリウシアの初氷が早いとは少しばかり納得しがたかった。


「この氷は南蛮の氷です。

 この果汁飲料テーフルトゥムのミカンと共に、アリスイ氏から贈られてきたものでございます。」


「アリスイ氏族からか……なるほど……」


 アリスイ氏族はアルトリウスの妻コトの実家である。アルトリウシア平野を挟んでアルトリウシアの南に領地を接する南蛮氏族であり、アルトリウスと政略結婚で結ばれてからは事実上の同盟関係になっていた。

 ようやく合点がいったマルクスは山羊の角の角杯を手に取るとさっそく口を付ける。オレンジよりもずっと酸味の穏やかで口当たりがよく、程よく甘いミカンの果汁はマルクスの身体に心地よく染みわたっていく。


「う~ん……美味うまい!

 身体が内から洗い流され、二日酔いの苦痛が消えていくようだ。」


 飲み干したマルクスが満足げに言いながら、空になった角杯を突き出すと使用人はニコニコと微笑んだままお代りを注ぎ込む。


「その角杯リュトン山羊やぎの角のようだ。

 酒神バッコス恩寵おんちょうでしょう。」


 スプリウスが言うと、マルクスは「そうかもしれぬ。」と嬉しそうに答えながらもう一口飲み、今度は飲み干さずに角杯をスタンドに置いた。そして果汁飲料を持って来てくれた使用人に手をヒラヒラと振って退室を促す。使用人はそれを見て笑顔を消すと、卓上に果汁飲料と氷が残っている水差しヒュドリアを静かに置き、お辞儀をして退室した。


「さて、話を戻そうか。

 アルトリウシアの状況だったな?

 領民たちは戦を望んでいるのか?」


 再び室内が自分たちだけになったのを確認したマルクスがバルビヌスに話の続きを促すと、バルビヌスはオホンと咳ばらいをし、状況を説明し始めた。


「いえ未だです。

 ですが、今後そうなっていく可能性は高いでしょう。」


「どういうことだ?

 アルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアは銃撃の戦果をどう発表した!?」


 マルクスは顔をしかめた。もしも銃撃の結果、ハン族のゴブリン騎兵を殺傷したと発表すれば、バルビヌスが懸念したように民衆の戦意が燃え上がり、領主たちも手が付けられなくなってしまう可能性が高くなる。だが、昨夜の宴会の様子からはアルトリウシアの貴族ノビリタスたちからそのような話は無かった。ハン支援軍への不満のようなものは聞こえないではなかったが、しかしアルトリウシア平野に騎兵がというような具体的な話は聞こえて来ていない。少なくとも、酒酔いでかなりの部分が消されてしまったマルクスの記憶には、そのような印象は残っていなかった。


「正式な発表はありません。

 ただ、ダイアウルフを撃退したと、ダイアウルフの血痕が残っていたと……それだけです。

 ゴブリン兵については噂話でいくらか漏れている程度でしょう。」


「なら問題ないのではないか?

 セヴェリ川の向こうからダイアウルフの遠吠えも聞こえなくなっているのだろう?」


 再び角杯をとって果汁飲料を飲むマルクスにバルビヌスは首を振った。


「アイゼンファウストの対岸からはダイアウルフは撤退しました。

 おそらくですが、セヴェリ川の向こうからダイアウルフの遠吠えが再び聞こえることは無いでしょう……少なくとも当面は。」


「ではこれ以上状況がエスカレートする心配はないのでは?」


 今度はスプリウスが尋ねる。マルクスもスプリウスと同意見なのだろう。何のつもりか分からないが口に含んだ果汁飲料で頬を膨らませ、角杯をスタンドに戻しながら頷いている。


ハン支援軍アウクシリア・ハンは既に作戦を変更しています。」


 マルクスはゴクリと喉を鳴らせ、口の中に含んでいた果汁飲料を飲み下した。


「セヴェリ川越しにアイゼンファウストをうかがうのは諦め、矛先をグナエウス街道へ変更しました。

 今、ハン族のダイアウルフはグナエウス峠で馬車を襲っています。」

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