第1027話 老将の危惧

統一歴九十九年五月十日、午後 - ティトゥス要塞司令部プリンキピア・カストリ・ティティ/アルトリウシア



「イカンとは……どういうことですか?」


 スプリウスは訳が分からず、思わずとなりにいるマルクスの方を見たが、マルクスは相変わらず具合が悪そうに額に手を当て、頭を預けている。視線はスプリウスへ返すが、その表情には何の感情も無く、また言葉による答えも無い。

 どうやら本気で分かっていないスプリウスに、バルビヌスは渋面を収める代わりに眼力と語気とを強めた。


「我々は今、戦闘を起こしてはならんのだ。

 忘れたのか?

 このアルトリウシアには、『竜の筆頭』プリンケプス・ドラコーが居るのだぞ!?」


 『竜の筆頭』プリンケプス・ドラコー……それは降臨者リュウイチのことである。降臨したリュウイチが初めて自らの名を名乗った時、相手のルクレティア・スパルタカシアに日本語が通じたことから、わざわざどういう字を書くかまで説明してしまった。まだ念話を可能とする魔導具マジック・アイテム『ソロモン王の指輪』リング・オブ・キング・ソロモンを装備しておらず念話を使えなかったリュウイチとルクレティアの会話を《火の精霊ファイア・エレメンタル》が翻訳していたわけだが、その際に《火の精霊》は漢字を説明するくだりをリュウイチのリュウは『竜』ドラコーの意、イチは数字の『一』……つまり『第一の竜プリムス・ドラコー』という意味だ!と必要も無いのにわざわざ伝えていた。それが更にプブリウス・ウァレリウス・サウマンディウス伯爵に伝わり、そこからサウマンディア軍団レギオー・サウマンディアの諸将に伝えられる際に更に『竜の筆頭』プリンケプス・ドラコーへと変化していたのである。


「このような所で下手に戦になってみろ。

 叛乱軍相手に勝てるか負けるかの心配などどうでもよい!

 それよりも『竜の筆頭』プリンケプス・ドラコーを刺激してその力を振るわれでもしたら、どうやって防げばいい?

 世界中のゲイマーガメルをたった一人で蹴散らした《暗黒騎士ダーク・ナイト》を、いったい誰にいさめることが出来る?

 そうなれば、ことはアルトリウシアだけでは済まんのだぞ?」


 バルビヌスの声と視線には怒気が含まれてはいたが、その態度は年齢相応の落ち着きを保った、抑制の利いたものだった。しかし久しぶりに恩師の、かつての鬼教官の本気の叱責に、スプリウスは喉奥が自ずから絞められていくような息苦しさにゴクリと唾を飲む。


「し、しかし、だからといって野放しには出来ますまい。

 民衆は降臨があったことも知らんのです。

 ハン族ゴブリンどもが叛乱を起こし、ダイアウルフを使ってチョッカイを出してきているのを放置すれば、今度は民衆が暴発してしまいます。」


「それはだ。」


 スプリウスの上ずった声に脅しが効きすぎたようだと悟ったバルビヌスはわずかに身を引く。


「下手に戦果を挙げて見ろ、ましてそれで実はダイアウルフだけでなくハン族のゴブリン騎兵が隠れていた。ゴブリン騎兵を討ち取ったなどと知った民衆はどうなる?

 ハン族討つべしと声高に叫びだすに違いない。

 民衆が騒ぎ出せば、侯爵夫人マルキオニッサ子爵閣下ウィケコメスも動かざるを得んようになるだろう。」


 アルトリウシア軍団の将兵たちと同じことをスプリウスが口にしたものだから、つい普段バルビヌスがアルトリウシア軍団に抱いている不満をスプリウスにぶつけてしまったが、しかし冷静に考えればそれはおかど違いというものだ。スプリウスは軍人として当たり前の疑問をバルビヌスに投げかけただけであり、スプリウスにはアルトリウシア軍団の最近の行動について何の責任も無いのだし、今後も何らかの影響力を発揮できるわけでもない。もし、スプリウスに責任や影響力を求めることが出来るなら、バルビヌスにはスプリウスと同等以上のものがあるはずだからだ。

 それでも感情は感情、理性だけで腹に溜まった鬱憤うっぷんを抑え込めるわけではない。それなのにバルビヌスがこうして自らの感情を抑制できたのは、バルビヌスの見せた怒りに素直に怯えたスプリウスの反応から、ワシもまだまだでもないなという優越感というか満足感のようなものを内心に抱いたからに過ぎない。要はスプリウスをビビらせたことで溜飲が下がったということだ。もちろんバルビヌスはそのことを自覚してはいなかったが……。


「銃をぶっ放すにしても空砲か、あるいは誰にも当たらぬように明後日の方へでも撃てばよかったのだ。

 ダイアウルフとて所詮は獣、騎手が乗っているならともかく、乗り手がいないなら銃声と火薬の臭いだけで追い払うことは十分可能だ。

 敵を追い払い、脅威に対処したという実績……それさえあれば事足りる。戦果など、むしろ挙げてはイカンかったのだ。」


 バルビヌスの言っていることは間違ってはいない。が、彼のその要求は傲慢と評して良いものだろう。それを実現できたかと言えば否……まず現実的ではないからだ。

 彼は忘れている。アルトリウシア軍団も全員が降臨について知っているわけでは無いという事実を。降臨を知っているのは大隊長ピルス・プリオル以上の高級将校だけであり、セヴェリ川沿いで防衛に当たっている部隊の将兵は降臨のことなど全く知らないのだ。それなのに川向うにいるダイアウルフに対して、まるで手加減でもするかのような指示を出されたところで納得できないだろう。そして何より、軍団兵レギオナリウスもアルトリウシアの領民であり、民衆の一員なのだ。

 明確に存在する“敵”を前にして弱腰な態度をとる領主貴族パトリキに対し、民衆が不満を抱くのが当然ならばそれは軍団兵たちとて同じなのである。軍人なのだから上官の命令には従え……という力づくは、軍人ではない民衆よりはまだ通じるとはいえ、絶対的というわけではない。軍人も人間なのだから、忍耐の限界を超えて不満を蓄積させれば間違いなく爆発するのだ。一般の民衆の暴発は軍隊で抑え込むことが出来るが、軍隊の暴発は抑えようがない。軍団レギオーだけは大事にしろ……《レアル》古代ローマの統治の鉄則は、この世界ヴァーチャリアのレーマ帝国でも同じだった。軍団兵の給料が一般的な平民プレブスの平均的な収入の数倍に達しているのは、相応の理由があってのことなのである。


「実際のところ、バルビヌスカルウィヌス殿の危惧きぐするような状況になっておるのですかアルトリウシアは?」


 バルビヌスの思うところ、その危険性を理解したマルクスがここでようやく口を開いた。その態度はまだ如何いかにも体調がすぐれませんといったものだったが、その眼光に曇りは無い。

 マルクスの様子に不満を抱いていたバルビヌスも、その目を見てどうやら己の職責を思い出したようだと理解し、態度をわずかに堅いものにする。


「いや、なってはおりません。

 が、そうなりつつありますな。」

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