第1026話 軍人の発想

統一歴九十九年五月十日、午後 - ティトゥス要塞司令部プリンキピア・カストリ・ティティ/アルトリウシア



 歴戦の勇士も年を召されたということか……そのような不遜な思いも抱かずにはいられない。一人天井を見上げ嘆息するバルビヌスの苦悩は、しかしそれを見るマルクスやスプリウスには少しばかり大袈裟なように思われた。


「しかし、それは致し方のないところではありませんか?」


 しばしの沈黙を破り、スプリウスは問う。


「川越しとは言えダイアウルフの遠吠えを聞かせるのは明らかな示威じい行為です。

 領民を怯えさせ、無用の緊張を高めるハン族に何もしないわけにはいかないでしょう。」


 バルビヌスの見解に異を唱えるようにアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアの肩を持つ後輩の見解に、バルビヌスは背もたれに預けていた頭を起こした。何の感情も見いだせない老将の視線を感じながらスプリウスは続ける。


「アルトリウシア平野は確か海水を含む湿地帯で、開拓も出来ない無人地帯だったはず。しかし、価値の薄い未開の原野と言えども領地は領地……ならば敵に明け渡すことは許されません。

 叛乱軍の自由にさせないためにも、銃で追い払ったのは適切な処置だったのではありませんか?」


 スプリウスの意見は正しい。領土テリトリーというものが厄介なのは、それが土地であれ海域であれ、個人が所有する不動産と同じように考えることが出来ない点にある。個人が所有する土地ならば、アルトリウシア平野のように何も生み出さない土地なら価値がない、所有する意味も価値も無いと切り捨てることが出来るが、国家や諸侯の領土となるとそう簡単な話ではなくなる。

 たとえばアルトリウシア平野のように隣国との間に広がる無産地帯は、何も無い空間がそこに広がっているというその事実が、その空間の向こう側に存在する隣国との安全を保障する緩衝地帯バッヴァーゾーンとして機能する。そこを他国に明け渡し、そこに他国の軍隊が自由に活動するようになれば、その土地は安全を保障する緩衝地帯から、自国への侵攻の足掛かりとなる策源地に変化し、重大な安全保障上の脅威となってしまうだろう。逆にそう言う土地に自ら踏み込み、自国の兵力を進出させたりすれば、それが緩衝地帯の向こう側にいる隣国に脅威を与え、無用の緊張を高め関係を悪化させることになってしまうだろう。

 実際、アルトリウシア平野を自分たちの自由の大地と勘違いしたハン支援軍アウクシリア・ハンはかつてそこで「演習」と称して遊牧生活の再現を試み、不用意に南蛮に近づきすぎて南蛮軍の襲撃を食らってしまった。ハン族は自分たちをレーマ帝国の一部ではなく、レーマ帝国に不当に支配された異民族と考えているが、彼らを襲撃したアリスイ氏族からすればハン族もレーマ軍の一部でしかなく、彼らの異常接近はアリスイ氏族を過度に刺激してしまったのだった。


 無人の原野であるからこそ緩衝地帯として機能している土地である以上、そこは無人地帯のままでなければならない。ましてや叛乱軍などに明け渡し、敵の自由にさせでもすれば、それは明確な脅威になるのは必然だったし、またぞろ南蛮アリスイ氏族との関係を悪化させることになりかねない。それを考えればアルトリウシア平野へのハン族の進出など許すわけにはいかなかったし、ハン族が侵入したなら排除せねばならない。

 そうした事情が無かったとしても、領土というものは一度他国に奪われたら奪い返すのに大変な犠牲と労力を費やさねばならないのだ。奪われた土地を奪い返すのに奪われた時に生じた以上の犠牲を払わねばならないのは、歴史上のいくつもの事例から確認できる。ゆえに、領土というものは寸土たりとも明け渡してはならず、いかなる犠牲を払おうとも守り通さねばならない。それは軍事・外交の鉄則である。

 しかしこうしたスプリウスの認識が、それに固執することが危険であることも一つの事実だった、バルビヌスはそれに気づいている。だからこそスプリウスに向けたバルビヌスの視線は失望にも似た色に染まるのだ。


「威嚇し、追い払うだけならばそうだろう。

 問題は、おそらく叛乱軍側に犠牲者がでてしまったことだよ。」


「何故です?」


 スプリウスは決して無能ではない。平民プレブス出身で一兵卒からの叩き上げで大隊長ピルス・プリオルにまで昇りつめたバルビヌスほどではないが、スプリウスも叩き上げの軍人である。下級貴族ノビレス出身ゆえにその軍歴は一兵卒ではなく百人隊長ケントゥリオから始まったが、それでも実戦の機会のある軍団レギオーで大隊長まで出世するにはそれなりの才覚が必要だ。実際、スプリウスの働きぶりは実直そのものと知られている。


「叛乱軍どもはたしか、アルトリウシア平野にいるダイアウルフは逃げ出したものであって、自分たちが意図して展開させているものではないと言っているのでしょう?

 であればここで死者が出たとしても文句は言えますまい。メルクリウス団による陰謀だとかいう主張は真っ赤な嘘だったと自ら認めるようなものです。

 てっきり誰も居ないと思って誰も居ないはずの藪に向けて銃撃したら、何故かそこに隠れていたハン族のゴブリン兵に当たってしまった……叛乱軍どもは文句を言ってくるどころか、知らぬ存ぜぬを通さざるを得んでしょう。不幸なゴブリン兵は脱走兵だったことにされ、切り捨てられてもおかしくありません。

 むしろアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアは優位になるでしょう。居ないはずの場所に叛乱軍が隠れていた。その証拠を見つけ、手に入れた。

 ハン支援軍アウクシリア・ハンは陰謀に巻き込まれたのではなく自ら叛乱を起こしたのだと、レーマ本国だって納得するでしょう。叛乱軍を攻撃する明確な理由が出来ました。」


 スプリウスの意見を聞いているうちにバルビヌスは困ったように顔を歪め、俯き、首を振り始めた。


「何です?」


 一目も二目も置く先輩の意外な反応にスプリウスは納得できない。怪訝そうな後輩を憐れむようにバルビヌスは答えた。


「スプリウス・スエートーニウス・ヌミシウスよ……そうだからこそ、イカンのではないか……」

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