第1022話 法務官アグリッパの目的
統一歴九十九年五月十日、昼 ‐ ティトゥス教会/アルトリウシア
「それは……間違いないのですか?」
向き合いたくない真実を突き付けられたマティアスが顔に苦悶を浮かべながら再度確認を求めると、アグリッパはマティアスにどこか同情するような色を目に浮かべて頷いた。
「教会に、あの南蛮ロウソクを寄付した者を突き止め、既に調べました。
その男は南蛮商人からもちかけられ、南蛮ロウソクと聖書の交換をしたのですが、実際に交換したその日のうちに教会に寄付しています。
数十本ものロウソクにエルゴットを仕込むような時間はありませんでしたし、まとまった量のエルゴットを所持していた形跡も入手した形跡もありません。」
アグリッパから南蛮ロウソクを寄付した人物の捜索を依頼されたラウリは、次の日には特定して報告していた。報告を受けたアグリッパは部下たちにその男と周囲の人物たちへの聞き取り調査を行わせたのだが、その結果はその男は
ある男が
南蛮商人は売り残った南蛮ロウソクの処分に困っていた。ロウソクはどこでも高級品であり、南蛮では特に貴族や神殿、高級娼館などにしか売れない。そして貴族や神殿では使用する量も仕入れ先もだいたい決まっていて、他で売れ残ったからと言って余計に買い取ってくれるところはない。高級娼館もそれは同じで、買い取ってくれるにしてもどうせ売れ残りなんだからと安く買いたたかれるのがオチだ。南蛮商人の出身地では輸出のためにロウソクを生産しているが、その地域では贅沢品として禁制品扱いされているから持ち帰っても売りさばけるわけではないのだという。かといって冬が迫っている以上、次の貿易の機会まで保存して再び売りに行くというわけにもいかない。植物油を原材料にした南蛮ロウソクは保存期間が短いからだ。一年以上たった南蛮ロウソクは劣化しても使えなくなるわけではないが、高級品として売りさばくためには品質が保たれて無ければならない。品質の悪いものを輸出すればブランド力が低下してしまう。
ロウソクが売れ残ってしまった商人は居酒屋でたまたま同席したランツクネヒト族の男に「いっそあなたが買い取ってくれませんかね」と冗談半分に持ちかける。だが男もロウソクなど必要とはしていないし、まして高級品の筈のロウソクを何十本も買い取れるほど裕福なわけではない。「勘弁してくれ、そんな高価なものを買う金なんざありゃしないよ。」と男が笑って答えると、半ばヤケクソにでもなっていたのだろう、商人は「お金じゃなくて物々交換でもかまいませんよ。」ともちかけた。そもそも一般人の貿易は禁じられている。レーマ帝国でも南蛮でも貿易は許認可制であり、レーマ帝国では貴族の御用商人以外は取引ごとに許可を得なければならないことになっているのだ。だが物々交換なら密貿易の
「そうは言っても金目の物なんかありゃしないよ。ウチで一番価値があるのは聖書くらいなモノさ。」一般に本は高価なものだが聖書は例外だ。レーマ正教会は活版印刷で大量に刷った聖書を信徒に無料で配布しているから、ランツクネヒト族なら誰でも聖書の一冊くらいは持っている。うちで一番価値があるのは聖書くらいなモノ……とは、ランツクネヒト族の間で貧乏を嘆く際の慣用句なのだ。
しかし南蛮商人は男の愚痴に食いついた。「それだ!ロウソクと聖書を交換してください。」聞けば南蛮では本は何でもよく売れるという。特に異国の本は高値で取引されるらしい。男は二つ返事で了承した。どうせ教会がタダでくれる聖書と何十本もの高価なロウソクとを交換できるなんて、こんな良い取引はない。男は話がうますぎて信じられないくらいだった。
「じゃあ明朝、聖書とロウソクを交換しましょう」と二人は分れ、そして翌朝……半信半疑ながらも男は自分の聖書を持って約束の場所に行くと、南蛮商人はロウソクの入った木箱を抱えて待っていた。男は喜んで聖書とロウソクを交換し、両者は気持ちよく分かれた。が、家に帰った男は女房に見つかってしまう。日曜でもないのに珍しく聖書を持って出かけた夫が見慣れぬ木箱を抱えて帰ってきたことを不審に思った女房が男を問い詰めると、男は自慢気に南蛮商人との取引を話した。「タダの聖書一冊でこんなにロウソクを貰ったんだ、凄いだろう!?」実際、金額だけを考えたらとんだ利益率である。しかし自慢げな男の期待とは裏腹に女房は激怒した。「聖書と交換するなんて、なんて罰当たりなことしてんだい!!とっとと聖書を取り返しておいで!!」家から叩きだされた男は商人を探しに行ったが、商人の船は既に港から出航した後だった。男はやむなく教会へ行き、事情を話してロウソクを寄付し、代わりの聖書を受け取った。
何ということも無い詰らぬ話である。しかし、娯楽というものに飢えている一般庶民にとってはしばらくは話題にできる笑い話だった。しかもこの事件とも言えない事件が起きてからまだ一週間と経っていないのだから、当事者はもちろん周囲の人間たちも記憶が真新しい。後ろめたいところのない彼らは役人の質問にも淀みなく答えたし、こうして複数人から得られた証言はいずれも矛盾点は無く、信用に足るものだと判断できるものばかりだった。
つまり、そのロウソクを教会に寄付した人物は犯人ではありえない。当然、ロウソクが侯爵家はもちろん教会へ渡ることも知らない南蛮商人が犯人なわけもない。消去法で、教会内部で毒が仕掛けられたと判断する他なかった。
アグリッパからその説明を聞いたマティアスは頭を抱えた。
「ああ、ではやはり教会の誰かが……」
それはアルビオンニア属州に着任して以来約六年にも及ぶマティアスの努力を否定するものだった。あれほど侯爵家と教会の不和を打ち消すべく努力したのに、未だに侯爵家に……カールに害をなそうとする者がいるなど信じられない。だが、マティアスは自分の仕事から、任務から、目を背けることはできなかった。どれほど不都合であろうと、事実は事実として認め、受け止めなければならない。もし不都合な事実から目を背ければ、それはいずれ壊滅的な破局を
犯人は誰だ……
いや、彼女はあの時私と一緒に礼拝を手伝っていたし、毒ロウソクの被害にも遭っている。彼女が犯人なら自ら毒ロウソクの被害に遭うようなヘマはすまい。
では一体誰だ?
共に教会で働く者たちを疑いたくはないという気持ちはもちろんあるが、しかし
悩んだマティアスは頭を抱えていた両手を静かに降ろし、アグリッパに
「法務官殿、私に捜査に協力する意思があることは間違いありません。
ですが、意思はあってもやはり私には難しい。苦労を共にしてきた兄弟たちを疑うなど……ましてや罪人として官憲の手に引き渡すのは……」
マティアスはアグリッパが激昂するか、あるいは憎悪を露わにするであろうことを覚悟していた。協力すると言いながら、舌の根も乾かぬうちにできないと
が、マティアスのその想像は
「御安心ください。
私は何も犯人の引き渡しを求めているのではないのです。」
マティアスはアグリッパの言葉に我が耳を疑い、アグリッパの顔を見た。
「現時点までの捜査では残念ながら犯人の特定まではできていません。
教会関係者であることは間違いないのですが……特定できるだけの証拠が揃って無いのです。今の時点で犯人を引き渡されても、逆に困ります。」
事件は重大だ。侯爵家一家の暗殺……並の殺人事件などとはレベルの違う、帝国全体を揺るがしかねない大事件なのである。ここで犯罪捜査に素人の教会関係者に「コイツが犯人です」と言われても「はいそうですか」とはならない。もしそれが
「では何を?」
「次の犯行の、抑止です。」
「次の犯行?」
「次の日曜、再び礼拝でしょう?
教会関係者が侯爵家の御一家を害そうと狙うのであれば、機会はそれしかありません。」
マティアスはアグリッパの示唆する次の犯行を想像し、身を震わせた。
「そ、それは何としても防がねば……」
「もちろんですマティアス司祭様。
犯人捜査にはまだ時間が必要です。
しかし、犯人を特定する前に犯人が次の犯行に及ぶのはだけは、何としても避けねば……司祭様にはその協力をお願いしたいのです。」
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