第1019話 牽制

統一歴九十九年五月十日、昼 ‐ ティトゥス教会/アルトリウシア



 威圧するようなアグリッパの声にマティアスはわずかに身を固くしつつ、ジッとアグリッパの目を見つめる。


 彼も、アンチ・キリストだったのか?


 レーマ帝国にアンチ・キリスト者は珍しくない。過去の大戦争でレーマ帝国と戦った啓展宗教諸国連合の主要な宗教であり、亜人や獣人たちを不当に差別し、亡命者を大量に発生させた宗教として知られているからだ。特に啓展宗教諸国連合側で抑圧され、虐待や迫害を受けてレーマ帝国へ逃れてきた亜人や獣人たちのキリスト教への憎悪は凄まじいものがある。それは子孫へと受け継がれ、大戦争が終結した今現在でもなおキリスト教を嫌悪し、キリスト教会や信徒に対して憎悪を向ける者は一向に減らない。

 だが、彼らと同じく啓展宗教諸国連合側で迫害され、レーマ帝国へ亡命してきたランツクネヒト族によって立ち上げられたキリスト教会であるレーマ正教会では、亜人や獣人に対する差別を否定する立場をとっている。神は自身に似せて人間を創り、被造物を支配する権利を与えた……それが啓展宗教諸国連合側のキリスト教会の多くが亜人や獣人に対して迫害を行っている理由ではあったが、レーマ正教会ではそれはあくまでも《レアル》での話だとして、この世界ヴァーチャリアからは切り離すこととしたのだ。

 キリスト教は《レアル》の宗教であり、キリスト教の神は《レアル》の世界を創り上げた創造主ではあるが、このヴァーチャリア世界は《レアル》とは別の世界であり、……としたのだ。キリスト教の神によって創られた《レアル》とヴァーチャリア世界はあまりにも異なる。少なくとも別の世界である点は間違いない。よって、このヴァーチャリア世界を創った創造主はと認めたのである。そうすることで亜人や獣人たちを「この世界ヴァーチャリアの人間」として認め、共存の道を探るべきとしたのである。

 無論、これはヴァーチャリア世界におけるキリスト教の主流からは完全に外れる考えであり、レーマ正教会は啓展宗教諸国連合側のキリスト教会の殆ど全ての宗派から異端扱いされている。レーマ正教会を設立する際も、ランツクネヒト族聖職者たちや神学者たちの間でかなりな論争になったぐらいなのだ。

 おそらく、レーマ正教がキリスト教の他の宗派と今後折り合う可能性はほぼ無いだろう。もしも現在の大協約体制が崩壊し、再び大戦争のような事態に陥れば、啓展宗教諸国連合側の捕虜となったレーマ正教会信徒は間違いなく異端者として火あぶりにされてしまうに違いない。


 それでも今のような教義を掲げるようになった理由は、生きねばならなかったからだ。迫害され、故郷を追われてレーマ帝国へ逃れた彼らランツクネヒト族が、多民族多宗教のレーマ帝国の中で、ランツクネヒト族というアイデンティティを保ちながら生き続けるためには、キリスト教を嫌うレーマ帝国の亜人や獣人たちと折り合いを付けられるようにせねばならなかったのである。

 異教徒・異民族・異種族との共存共栄……レーマ正教会の教義はキリスト教会がそれを実現するために生み出されたものだった。そしてマティアスは、レーマ正教会が目指すものを実現するために、ここアルビオンニア属州へ派遣された司祭だ。ホブゴブリンの法務官との間に摩擦などあってはならないし、あるとすればそれは解消されねばならないのだ。


「なるほど、では我々は同じ目的のために存在していると言えるでしょう。」


 マティアスはニッと口角を上げて声を張った。そのマティアスを面白がるようにアグリッパは口元を歪める。


「同じ目的ですか?」


「はい。」


 首肯しゅこうしながらマティアスはタイミングを計るかのように間を置き、そして頭の中にあらかじめ原稿を用意してあったかのように語り始める。


「残念ながら、人は過ちを犯すものです。

 時に迷い惑わされ、間違った考えに陥ったり、罪を犯したり……

 我々の役割は人々がそうした不幸な過ちを犯さないように、あるいは不幸な過ちを犯しそうな者たちや、犯してしまった罪びとたちを、正しい方へ教え導くことです。

 我々の違いは手段の違いでしかありません。

 法務官殿は法によって、私たちは神の教えによって、法務官殿は権力と刑罰によって、私たちは祈りと赦しによって、それぞれがそれを成すのです。」


 どうですか?……マティアスがそう視線で問いかけると、アグリッパはとても面白い冗談を聞いたかのように満足げな笑みを浮かべ身体を揺すった。


「なるほど、言われてみればおっしゃる通り!」


 その反応にマティアスがホッと気を緩めると、アグリッパは薄笑いを浮かべたまま椅子をきしませて身体を前傾させる。


「であれば、我々は協力できるはずですな?」


 テーブルを挟んだ向かいからとはいえ、下から上目遣いで覗き込んでくるアグリッパに、マティアスはわずかに身を引いた。

 先ほどの発言から、アグリッパはマティアスに何らかの協力を求めているものと考えられた。それ自体は普通ならば何も問題ない。後ろめたいところがなく、またそれを誇示してレーマ正教会がレーマ帝国にとって無害な存在であることを世に広く知らしめねばならないマティアスからすれば、法と秩序の番人たる法務官に協力するのは当然と言える。ただ、肝心のアグリッパの求めてくる協力をどんなものかはわからない。アグリッパが本当にアンチ・キリスト者で、その要求が教会や信徒に害をなしたり、信仰を妨げるような物であれば聞き入れるわけにはいかない。


「それが主の御心に沿うものであれば、拒む理由はありません。」


「ん~……困りましたな。」


 アグリッパは言葉とは裏腹にさして困った様子も見せず、薄笑いを浮かべたまま身体を起こして続ける。


「キリスト教の神の御意思に沿うかどうかは、小官には分かりかねますから。」


 わずかに眉を寄せて想像を巡らしたマティアスは、訳が分からないという風に小さく首を振った。


「ハッキリとご用件をお聞かせいただければ、お応えのし様もあると存じますが?」

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