第1017話 男親の本性

統一歴九十九年五月十日、昼 ‐ティトゥス要塞カストルム・ティティ・ルキウス邸/アルトリウシア



「それで、ルクレティウス先生は御帰りになられたのですか?」


「ああ、気分を損ねたままな。」


 ルクレティウスが帰った半時間ほど後、ルキウスの執務室タブリヌムにはアルトリウスが訪れていた。

 ルキウスは昨夜アルトリウスを家族の待つ『花嫁の家ドムス・ノヴス・スポンサ』へ帰らせる際に、どうせこの酔い方では明日は二日酔いだろうから明日の予定は忘れてゆっくり休ませてやれと言づけていたし、アルトリウスの妻コトも家人たちもそのつもりでいたのだが、根の真面目なアルトリウスは午後からサウマンディアからの救援隊を引き連れて来たマルクス・ウァレリウス・カストゥスを交えて今後のことを話し合う予定があったことを思い出し、二日酔いをおしてルキウス邸のあるティトゥス要塞カストルム・ティティまで来たのだった。

 どうせウァレリウス・カストゥスマルクスも二日酔いで未だに起きて来れていないというのに……アルトリウスの来訪を伝えられたルキウスは呆れかえったものだったが、わざわざ来てしまったものを追い返すわけにもいかず、こうして招き入れてルクレティウスが来たことを、そしてその時の様子を教えてやったのだった。

 ルクレティウスの話をルキウスから聞かされたアルトリウスは、沈痛な面持ちで額に手を当てて唸るように溜息をついた。その息は酒好きのルキウスでさえ眉間にシワを寄せるほどまだ酒臭く、かつての恩師の我儘わがままに頭を痛めているのか、それとも二日酔いで苦しんでいるのか判然としない。おそらく両方だろう。もしもアルトリウスがハーフコボルトでなければ、白く密集した短い体毛に全身を覆われていなければ、その被毛の下に隠された皮膚が黒くなければ、その顔が二日酔いで青ざめているのが見て取れたに違いない。


アルトリウスお前の手紙にはリクハルド卿は調査結果をすべて伝えると書かれているのだから、悪い話では無いとは言ったのだがね。」


 ルキウスはアルトリウスを慰めるように言うと、香茶の湯気の立ち昇る茶碗ポクルムを手に取った。


「スパルタカシウス卿はどうも、ルクレティア一人娘のこととなると分別を見失いがちでいかん。」


 口元まで運んだ茶碗から立ち昇る香茶の香りを胸いっぱいに吸うと、満足げにハァーっと息を吐き出し、一口すする。


 酒の匂いというのはそれだけで気分が軽やかになるほど魅力的だというのに、どうして二日酔いの人間が吐き出す酒の臭いはこうもくさいのだろうか?


 それはルキウスが昔から抱き続けている疑問の最たるものの一つだった。


「娘を持つ男親とは、そうしたものなのでしょう。」


 アルトリウスはそう言うと卓上の茶碗に手を伸ばす。もっとも、彼の茶碗に入っているのは豊潤な香豊かな香茶などではなく、酔い覚ましのために用意してもらった冷たい酢水ポスカだった。それをグイッと一気にあおる。

 ルキウスはアルトリウスを見て目を丸めた。


「娘親の気持ちがお前にも分かるのか?」


「私には娘はおりませんが、妹が二人もおりますので……」


 アルトリウスは飲み干して空になった茶碗をかざし、控えている使用人にお代わりを催促するとそれを卓上に戻した。


「そういうものか……」


 ルキウスももちろん知識としてそういうものだとは知っている。が、アルトリウスの言葉にはそうした知識だけで知っている者のとは違った、ある種の実感のようなものが込められていた。ルキウスは今は息子となった甥っ子のそのような成長に多少驚き、多少うらやましくも思い、自分の手の内の茶碗に視線を落とす。


「それで、ルクレティウスせんせいは協力してくれそうなのですか?」


 再び額に手を当て、使用人が茶碗に新しい酢水を作るのを見ながらアルトリウスはルキウスに尋ねる。


「するだろう。」


 ルキウスは気を取り直したように香茶をもう一口すすり、舌鼓を打って続けた。


「スパルタカシウス卿は確かに娘のこととなると分別を見失いがちになるが、己を見失うほど愚かではない。

 まして、その大事な一人娘が仕える降臨者様のことなのだ。ここで我儘を通せば降臨者様に御迷惑をおかけしかねんことぐらい承知しておる。ルクレティア一人娘のことを想いながら、ルクレティアの不利になるようなことなど、さすがにすまいよ。」


 アルトリウスは新たに入れなおしてもらった酢水の入った茶碗を自分の額に押し当て、目を閉じながらルキウスの答えを聞き続ける。


神官フラメンを使った調査は打ち切ってはくれるだろう。

 ただ、リクハルド卿の面会要請に応じるか、あるいは協力してくれるかはまだわからんが……」


 アルトリウスは茶碗を額に押し当てたまま閉じていた目を開き、視線だけをルキウスへと向けた。


「どういうことです?」


「お前も気づいているだろうが、スパルタカシウス卿はリクハルド卿のことをあまりこころよく思ってはおられん。

 ましてや今回のことがあったから猶更なおさらだ……」


「今回のこと?」


 頭の回らないらしいアルトリウスの反応にルキウスは視線を合わせないまま短く嘆息して答える。


「リュキスカ様だよ。

 彼女は、リクハルド卿の店の娼婦だっただろう?」


 アルトリウスは「ああ……」と低く短く声を漏らすと、目を閉じ困った様な様子で額に当てていた茶碗を口元へ運び、酢水を口へ流し込んだ。


 そういうことか……


 ルクレティウスは元々リクハルドら新興郷士ドゥーチェたちのことを快く思っていなかった。出自の定かならぬ平民プレブスというだけならともかく、裏社会の出身者……法と秩序の敵とでもいうべき者たちだったからだ。文化文明をもたらし、法と秩序を齎した降臨者を信奉し、その降臨者の直系の子孫であることを誇りとするスパルタカシウス家当主としては最も忌避すべき相手だったからだろう。

 そこへ降臨が起き、リュウイチが降臨した。ルクレティウスの一人娘ルクレティアは幸運にもリュウイチの降臨に偶然居合わせ、居合わせた唯一の女神官フラミナとしてリュウイチに仕えるという栄誉を得た。にもかかわらずリュウイチはルクレティアという巫女が居ながら、雌狼犬リュキスカなどというふざけた名前の娼婦を買い求めた。ルクレティアの一人親として面白いわけがない。

 もちろん、降臨者という存在を信奉し降臨者を崇め奉るルクレティウスに、そうした不満を降臨者リュウイチに向けられるわけもない。既に聖女サクラとなったリュキスカもまた、不満のはけ口にはし難い。ではその出口を失った不満の行き先はどこか? ……それはリクハルドだった。

 リクハルドは裏社会の出身者であり、ルクレティウスからすれば距離を置くべき下賤げせんの人間である。そしてリュウイチが聖女に選んだリュキスカはリクハルドの店で働いていた娼婦……つまり貴族的発想からするとリクハルドはリュウイチ様の許へ自分の領袖から女を送り込んだ、いわば競争相手なのだ。敵愾心てきがいしんを燃やすべき政敵そのものだったのである。


 アルトリウスはルキウスの説明でようやくそのことに気づいた。そして合点がいった。同時に自分がそのことに気づけていなかったことを深く後悔した。


「つまり、神官フラメンを使ったリュキスカ様の調査は控えてくださるかもしれないが、リクハルド卿との面会には応じるつもりはないと……そういうことですか?」


「応じるつもりはない……ということは無いと思うが、応じたくはないようだな。」

 

 ルキウスはそう言うと茶碗に残った香茶の最後の一口を飲み干し、空になった茶碗を両手に抱えたまま膝の上に降ろすと天井を見上げた。


「おそらく、スパルタカシウス卿自身も戸惑っておられるのだ。

 政敵なんてものを持ったのは、スパルタカシウス卿にとってもおそらくは初めてのことであろうからな。

 リクハルド卿とどう対したら良いかお分かりにならないのだろう。」


 ルクレティウスの心情、反発は彼らにとって全くの想定外のことだった。アルトリウスにとってルクレティウスはレーマ留学前の基礎教育を施してくれた恩師であったことから、ルクレティウスの知性と理性を盲目的なまでに過大評価していた。話の通じる人だから話せば分かってくれるものと思い込んでいた。ルキウスにしても、ルクレティアを彼女の望み通りにリュウイチの聖女にすることができたのだから、それ以外のことは問題にならないと勝手に思い込んでいた。だが、現実にはルクレティウスも人間であり、一人娘をこよなく愛する男親でしかなかったのだった。

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