第1017話 男親の本性
統一歴九十九年五月十日、昼 ‐
「それで、
「ああ、気分を損ねたままな。」
ルクレティウスが帰った半時間ほど後、ルキウスの
ルキウスは昨夜アルトリウスを家族の待つ『
どうせ
ルクレティウスの話をルキウスから聞かされたアルトリウスは、沈痛な面持ちで額に手を当てて唸るように溜息をついた。その息は酒好きのルキウスでさえ眉間にシワを寄せるほどまだ酒臭く、かつての恩師の
「
ルキウスはアルトリウスを慰めるように言うと、香茶の湯気の立ち昇る
「スパルタカシウス卿はどうも、
口元まで運んだ茶碗から立ち昇る香茶の香りを胸いっぱいに吸うと、満足げにハァーっと息を吐き出し、一口すする。
酒の匂いというのはそれだけで気分が軽やかになるほど魅力的だというのに、どうして二日酔いの人間が吐き出す酒の臭いはこうも
それはルキウスが昔から抱き続けている疑問の最たるものの一つだった。
「娘を持つ男親とは、そうしたものなのでしょう。」
アルトリウスはそう言うと卓上の茶碗に手を伸ばす。もっとも、彼の茶碗に入っているのは豊潤な香豊かな香茶などではなく、酔い覚ましのために用意してもらった冷たい
ルキウスはアルトリウスを見て目を丸めた。
「娘親の気持ちがお前にも分かるのか?」
「私には娘はおりませんが、妹が二人もおりますので……」
アルトリウスは飲み干して空になった茶碗を
「そういうものか……」
ルキウスももちろん知識としてそういうものだとは知っている。が、アルトリウスの言葉にはそうした知識だけで知っている者のとは違った、ある種の実感のようなものが込められていた。ルキウスは今は息子となった甥っ子のそのような成長に多少驚き、多少
「それで、
再び額に手を当て、使用人が茶碗に新しい酢水を作るのを見ながらアルトリウスはルキウスに尋ねる。
「するだろう。」
ルキウスは気を取り直したように香茶をもう一口すすり、舌鼓を打って続けた。
「スパルタカシウス卿は確かに娘のこととなると分別を見失いがちになるが、己を見失うほど愚かではない。
まして、その大事な一人娘が仕える降臨者様のことなのだ。ここで我儘を通せば降臨者様に御迷惑をおかけしかねんことぐらい承知しておる。
アルトリウスは新たに入れなおしてもらった酢水の入った茶碗を自分の額に押し当て、目を閉じながらルキウスの答えを聞き続ける。
「
ただ、リクハルド卿の面会要請に応じるか、あるいは協力してくれるかはまだわからんが……」
アルトリウスは茶碗を額に押し当てたまま閉じていた目を開き、視線だけをルキウスへと向けた。
「どういうことです?」
「お前も気づいているだろうが、スパルタカシウス卿はリクハルド卿のことをあまり
ましてや今回のことがあったから
「今回のこと?」
頭の回らないらしいアルトリウスの反応にルキウスは視線を合わせないまま短く嘆息して答える。
「リュキスカ様だよ。
彼女は、リクハルド卿の店の娼婦だっただろう?」
アルトリウスは「ああ……」と低く短く声を漏らすと、目を閉じ困った様な様子で額に当てていた茶碗を口元へ運び、酢水を口へ流し込んだ。
そういうことか……
ルクレティウスは元々リクハルドら新興
そこへ降臨が起き、リュウイチが降臨した。ルクレティウスの一人娘ルクレティアは幸運にもリュウイチの降臨に偶然居合わせ、居合わせた唯一の
もちろん、降臨者という存在を信奉し降臨者を崇め奉るルクレティウスに、そうした不満を降臨者リュウイチに向けられるわけもない。既に
リクハルドは裏社会の出身者であり、ルクレティウスからすれば距離を置くべき
アルトリウスはルキウスの説明でようやくそのことに気づいた。そして合点がいった。同時に自分がそのことに気づけていなかったことを深く後悔した。
「つまり、
「応じるつもりはない……ということは無いと思うが、応じたくはないようだな。」
ルキウスはそう言うと茶碗に残った香茶の最後の一口を飲み干し、空になった茶碗を両手に抱えたまま膝の上に降ろすと天井を見上げた。
「おそらく、スパルタカシウス卿自身も戸惑っておられるのだ。
政敵なんてものを持ったのは、スパルタカシウス卿にとってもおそらくは初めてのことであろうからな。
リクハルド卿とどう対したら良いかお分かりにならないのだろう。」
ルクレティウスの心情、反発は彼らにとって全くの想定外のことだった。アルトリウスにとってルクレティウスはレーマ留学前の基礎教育を施してくれた恩師であったことから、ルクレティウスの知性と理性を盲目的なまでに過大評価していた。話の通じる人だから話せば分かってくれるものと思い込んでいた。ルキウスにしても、ルクレティアを彼女の望み通りにリュウイチの聖女にすることができたのだから、それ以外のことは問題にならないと勝手に思い込んでいた。だが、現実にはルクレティウスも人間であり、一人娘をこよなく愛する男親でしかなかったのだった。
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