幕間の根回し

第1014話 ルクレティウス来訪

統一歴九十九年五月十日、昼 ‐ティトゥス要塞カストルム・ティティ・ルキウス邸/アルトリウシア



 いつもより薄い貫頭衣トゥニカの上にお気に入りのダルマティカを羽織ったルキウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵は、その上から久しぶりに正衣トガまとっていた。腰の調子はだいぶ良くなってきている。本当はもう少し療養を続けたいところだが、どうやらそんな贅沢は許されない情勢になって来ていた。

 別に養子にした甥っ子アルトリウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵公子の領主代行が上手くいっていないというわけではない。アルトリウスはむしろよくやってくれていると言っていいだろう。彼に大きな負担がかかっているのも否定のしようのない事実だが、まだ限界というほどでもない。そもそも正式に領主代行を委任してから一週間しか経ってないのだ。この程度で限界を迎えられては困る。

 限界が近づいているのはルキウスの妻アンティスティア・ラベリア・アヴァロニア・アルトリウシア子爵夫人の方だ。平民プレブス出身の彼女はルキウスの妻となった時から変わってしまった。素朴で裏表のない彼女は生来の生真面目さゆえか、誰よりも上級貴族パトリキの妻たらんと努力するようになった。その傾向はルキウスがギックリ腰で倒れてからは顕著であり、療養に徹しているルキウスが一日でも早く公務に復帰できるように、療養中のルキウスの立場が悪くならないようにと目をみはるよう頑張りを見せている。が、それはいささか空回り気味のようだ。このままでは彼女の方が……というより、彼女を取り巻く使用人たちや子爵家の家臣たちに害が及び、それは放置すれば遠からずアンティスティアに対する悪評へと変わっていくことだろう。

 正直、ルキウスは貴族ノビリタスも貴族に取り入ろうとする者たちも嫌いである。貴族たちの中には好むと好まざるとによらず、生まれついてより貴族として生きざるを得ない者も少なくないが、大部分は好き好んでやっているのだ。そんな奴らなんてむしろ自分より高位の貴族に振り回されることを望んでいるくらいなのだから、迷惑がかかるだのなんだのと気を遣ってやる必要は一つも無い……ルキウスは普段そのように考えている。だからその結果として自分に対して不評・悪評が立つことは別になんとも思わないが、それが愛する妻アンティスティアに対してとなると看過するわけにはいかなかった。


 もう少し、ゆっくりしたかったのだがな……


 腰の痛みという代償によって得られた妻との蜜月をルキウスは名残惜しむ。


「やれやれ、親友の前で溜息とは失礼じゃないかね?」


 応接室タブリヌム円卓メンサを挟んだ対面で車椅子に身体を預けたルクレティウス・スパルタカシウスは無遠慮に顔をしかめる。無論、本気で嫌がっているわけではない。


「すまんな、親友なら許してくれると思ったんだ。」


「領主に復帰するのがそんなに嫌かね?

 いっそこのままアルトリウスに家督をしまえばいいじゃないか。」


 ルクレティウスはどうもここのところ辛辣しんらつだ。アルトリウスの言を借りるなら、彼の一人娘ルクレティアを彼に無断で嫁入りさせてしまったのだから多少は恨まれても仕方のないことなのかもしれないが、しかしそれで心に刺さる言葉のダメージが解消されるわけではない。


「そうもいかんさ。」


 ルキウスは苦笑した。


「彼から、腰が痛くなったから返すなんて言えんだろう?」


 本来、ルキウスの今の地位はルキウスのものになる予定ではなかった。子爵家の家督は順当にいけばアルトリウスが継ぐはずだったものだ。それがルキウスの兄であり初代子爵であるグナエウスが火山災害に巻き込まれて急死し、成り行きでルキウスが継ぐことになってしまった。しかもそのというのが、アンティスティアが巻き起こしたお家騒動なのだから、という非難は決して不当なものではない。


 アルトリウスはまだ若すぎて領主は無理ですわ。

 おまけに領主貴族パトリキでありながら南蛮から嫁を貰おうとしていて、子爵家がレーマ本国に二心を疑われかねません。


 それがアルトリウスの家督相続に反対したアンティスティアの主張だった。それもアンティスティアが自分で考えたものではなく、ブリギッタ・フォン・クプファーハーフェン男爵夫人に吹き込まれたものだった。ブリギッタは当時、時を同じくして死去したマクシミリアン・フォン・アルビオンニア侯爵の跡を夫レオナード・フォン・クプファーハーフェン男爵に継がせようと侯爵家で御家騒動を起こしており、騒動の鎮静化のために介入してきた子爵家を牽制するつもりでアンティスティアを焚きつけて騒ぎに巻き込んだのだ。

 結局侯爵家の御家騒動は騒ぎを聞きつけたレオナード自身が領国から乗り込んできて妻を一括、自分は侯爵家を継ぐつもりはないと宣言してブリギッタを連れて帰ったことで終息したが、巻き添えを食った子爵家の方はそうはならなかった。子爵家の家督は結局アルトリウスではなく、ルキウスが継ぐことになってしまったのだ。ルキウスは若い頃の落馬が原因で足腰が弱っており、子供も無かったのでルキウスの死後はアルトリウスに家督を譲るという条件付きで……。

 ルキウス側からすれば家督を一時預かるというつもりではあったし、アルトリウス本人もアルトリウスの妻コトの実家アリスイ氏族もそれで納得しているが、しかしそれ以外のアルトリウス支持派の一部は今でも「ルキウスが家督を横取りした」と思っている。

 ルクレティウスの発言はそれを揶揄やゆした皮肉だった。ルキウスからすればかなりキツイ冗談である。ルキウスが思っている以上に、ルクレティウスは勝手にルクレティアを聖女サクラにされたことを根に持っているのかもしれない。


 視線を伏せたまま苦笑いを浮かべたルキウスは両手を広げ、降参の意を示した。同時にそれは早く本題に入ってくれという合図でもある。


「ふん」


 ルクレティウスは小さく鼻を鳴らし、身体を揺すった。


「それで、わざわざ訪ねて来たんだ。

 何か用があったんだろう?」


「まあな。

 といっても、アルトリウスにも会いたかったのだがね?」


「アルトリウスに?」


 ルキウスはあからさまに顔を歪めた。人の家を訪れておいて会いたかったのはお前じゃないと言われれば誰だって不愉快に思うだろう。ましてや彼らは上級貴族パトリキだ。貴族ノビリタスなら相手の家を訪れる前に先方へ先触さきぶれを送り、用件を伝え、相手が居ることを確認したうえで訪れるのが常識である。そして訪れれば訪れたで、家に上がり込む前にその家の使用人に取り次ぎを頼み、これから会おうとしている相手が居るかどうかもちゃんと確認するものだ。ルクレティウスだって今日ここへ来る前にそうした面倒な手続きを踏んでいる筈。だというのに今ここには居ないアルトリウスに会いたかったなどと言われるのは、この家の主たるルキウスからすれば大変失礼な物言いなのだった。

 ルクレティウスはルキウスがあからさまに機嫌を悪くしそうになっているのに気づくと、苦笑いを浮かべた。


「アルトリウスにと言ったろ?

 二人に相談したいことがあったんだよ。

 アルトリウスはてっきりここへ泊ったもんだと思ってたんだが、違ったかね?」


 ルキウスは身を乗り出しかけていた状態から力を抜き、背もたれに体重を預けながら勘弁してくれと言わんばかりに目を閉じかぶりを振った。


「いや、昨晩は家に帰したよ。」


「そのようだな、残念だ。

 しかし意外だな、泊めてやらなかったのか?」


 ルキウスは目を閉じたまま頭を左へかしげ、右手を持ち上げてヒラヒラさせる。


「本人は泊まる気だったのだがね。

 なに、ここしばらく家に帰れてなかったんだ。

 どうせ今日の予定は半分流れるだろうから、たまには家に帰れと言ってやったのさ。」


 言い終わってからルキウスは身体を脱力させ過ぎたことに気づいたのだろう、「んんっ」と唸るように声を挙げると肘掛けに突いた両手で体重を支えて座りなおした。ようやくギックリ腰から回復したのに、崩れた姿勢で腰かけてはまた腰を壊してしまう。

 その様子をやや身を引いて見守っていたルクレティウスは、姿勢を正したルキウスとは逆に車椅子の肘掛けをきしませてルキウスの方へ身を乗り出した。


「聞いたぞ?

 リクハルド卿と飲み比べをして、二人ともヘベレケに酔っ払っていたそうじゃないか。」


「そのようだな。」


 ルキウスは努めてました態度を保つ。


「前後不覚になった状態で家に帰されたところで、家族の団欒だんらんというわけにはいかんのじゃないか?

 まして、夜もだいぶ遅かったのだろう?」


 家に帰して家族との時間を取り戻させる……それは一見すると良いことのように思えるが、当人が酒に酔いつぶれている状況でもそうした名分が成立するだろうか?


「そうとも限るまいよ。」


 ルクレティウスの投げかけた疑問にルキウスの答えは淀みない。


「たとえ寝顔であっても、久しく会えなかった愛しい家族のものとなればうれしいものさ。まったく会えないよりは……。」

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