第1010話 なすり合い

統一歴九十九年五月十日、午前 ‐マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



 事情を説明するロムルスの声も表情も最後の方は冷たいものになり、視線は突きさすようにアウィトゥスへ向けられる。オトも思わずその視線を追ってアウィトゥスの方を見た。二人の視線に責められているような気になったアウィトゥスは居心地が悪くなり、思わず反駁はんばくする。


「しょ、しょうがないだろ!?

 あんな口まで小便でいっぱいのアンフォラなんかこぼさず運べるわけねえよ!」


 尿瓶として使われているのはアンフォラと呼ばれるテラコッタの壺だ。高さ約二十インチ(約五十一センチ)、直径十二インチ(約三十一センチ)ほどの大きさで約三十リットルくらいの容量がある。酒や水、油、その他液体なら何にでも便利に使われる容器で大量に生産され大量に出回っているため、中にはこうして尿瓶として使われる物もあった。あまりにも大量に出回るので「アンフォラ」という名前自体がレーマ帝国での容積の単位にもなっているほどである。

 しかし平均身長が五ペス(約百五十センチ)ほどのホブゴブリンにとって高さが二十インチほどもある壺というのは結構大きい。しかもアンフォラは下の方が細くなっているので、専用のスタンドに乗せなければ簡単に倒れてしまう。ホブゴブリンは筋力に優れているのでアンフォラの重さ自体は中身がいっぱいまで入っていたとしてもどうというほどでもないのだが、大きさが大きさだけに両手で抱えなければまず持ち上げられず、それなのに口まで小便が並々と入っているとなればその洗礼を受けずに済むわけもない。実際、ゴルディアヌスは尿瓶を運び出そうとした際、口から溢れた小便が胸にかかり、それを嫌がって抱えた尿瓶を身体から離そうとしてバランスを崩し、尿瓶を落として中身を全部ぶちまけたのだった。同じ失敗が目に見えているのにそれをやるというのは、若いアウィトゥスには我慢ならないのだろう。

 だが、それはやらなくていい理由にはならない。


「運ばなきゃどうすんだ!?

 このままほっとくのか?」


 駄々をこねる子供には強くガツンと行くのは古今東西共通の常識である。言い訳を繰り返してやるべき仕事をやろうとしないアウィトゥスをオトは怒鳴りつけた。アウィトゥスは嫌そうに渋面を作って黙り込み、ロムルスが慌てて取りなしはじめる。


「ま、まあそう怒るなよオト。」


 ロムルスは常にうだつの上がらない日々を過ごしてきた。軍団兵レギオナリウスとして十年以上のキャリアがあるのに、未だに自分の中にアイデンティティを築けていない。まあ、軍団レギオー内の厄介者をひとまとめにした十人隊コントゥベルニウムに配属されているくらいだからなのは御察しである。だが、現実はどうあれ人間は自分の居場所や立場というものを求めるものである。存在感を示したいという承認欲求は、何も中二病患者だけの病気なわけではない。それに、仮に当人が望まなくても、ただそこに存在するだけで人間は何らかの役割を求められる場合もある。

 ロムルスは年長者だ。リウィウスに次ぐ十人隊で二番目の古参兵であり、リウィウスが居なくなった今、リウィウスの代わりに隊をまとめなければならなかった。彼らの十人隊はネロが十人隊長デクリオだったが、最年少のネロが隊長を務めて隊運営が成り立つのは、陰でリウィウスが他の兵たちを纏めていたからこそであった。ロムルスは今、そのリウィウスの役割を果たさねばならないのである。

 そして、そのロムルスに絶好の機会が回ってきた。ゴルディアヌスが失敗して小便を便所にまき散らし、その片づけをアウィトゥスに手伝わせようとしたところアウィトゥスが逃げ出そうとした。これを叱り、しつけ、アウィトゥスに教育を施すのは年長者たるロムルスの役割ではないか!?

 この分かりやすく、そしてにロムルスは内心で張り切っていた。しかし、彼にとって不幸なことに逃げ出したアウィトゥスは偶然通りかかったオトを巻き込み、結果的にオトが首を突っ込んできてしまう。この思わぬ展開にロムルスは焦った。このままオトに場を仕切られてしまったら、せっかくのロムルスの立場が無くなってしまうではないか。


アウィトゥスコイツにはロムルスオレがちゃんと言っとくからよ。

 オトお前オトお前で仕事があるんだろ?

 構わねぇからそっちをやってくれ。

 オトお前を引っ張り出したんじゃ、奥方様ドミナに申し訳がねえや。」


「そっちはいいよ!」


 媚びるようなロムルスにくだらないことを言うなとばかりにオトは跳ねつけた。ロムルスは愛想笑いを引きつかせる。


奥方様ドミナは今フェリキシムス様と一緒にお休み中で、オト汚れ物コイツらを片づけちまえば後は暇なんだ。

 それよりゴルディアヌスは?」


「そうだよ!

 ゴルディアヌスさんがひっくり返したんだから、ゴルディアヌスさんにやらせりゃいいだろ!?」


 オトは尿瓶をひっくり返した張本人だというゴルディアヌスが見当たらないことに疑問を抱いただけだったが、アウィトゥスはそれに乗っかるようにロムルスに詰め寄った。

 もちろんオトにはアウィトゥスのようにゴルディアヌスを追求するつもりがあったわけではない。不始末をしでかした人間がその場にいないというのは、それなりの理由があるはずだ。単に面倒が嫌で逃げたという可能性も無いとは言えないが、今回の場合はその可能性は低いだろう。彼らはこの狭い空間で共同生活をしているのだ。どこへも逃げられない。それなのに不始末をしでかして後始末から逃げれば、後で損をするのは逃げた本人だけである。

 この環境で逃げるとすれば、逃げられる可能性がある場合だけだろう。すなわち、誰にも犯人を特定される恐れが無い場合だけだ。だが今回はロムルスが「ゴルディアヌスがやった」と断言している……ということは、おそらくロムルスは現場を見ているのだろう。逃げたところで逃げ切れないのに、自分の立場が余計に悪くなることが分かっていて逃げるのは愚か者でだけである。ゴルディアヌスは馬鹿ではあるが、根は正直者である。卑怯を嫌う、良い意味での男らしさを信条としていた。そのゴルディアヌスが、ロムルスに現場を見られてなお逃げ出すとはまず考えられない。となれば、逃げたというよりゴルディアヌスが怪我をして運び出されてしまった心配などをせねばならないだろう。


 だがアウィトゥスにはそんな発想はなかった。ただ単に嫌なことから逃げたい一心である。これはゴルディアヌスがやらかした不始末……ならゴルディアヌスに後始末をさせればいい。至極真っ当な理屈ではある。誰も否定はできまい。

 誰も否定できない主張を掲げることで自分の我儘わがままを押し通す……なんて痛快なことだろう。それにアウィトゥスは知っていた。ロムルスはゴルディアヌスのことが苦手なのだ。

 ゴルディアヌスは「力こそ正義」を地で行く男だ。力自慢で自分より力の弱い人間の言うことは聞きたがらない。年長者であるロムルスに対しても当然反抗的で言うことなんかまず聞こうとしない。それどころか人前でロムルスに反抗し、ロムルスに恥をかかせることもしばしばだ。リウィウスあたりはそれでも「まぁまぁ」となだめて受け流すだけの度量はあったし、ゴルディアヌスが失敗した時も率先して世話を焼いてやることでゴルディアヌスも一目置くようにはなっていたが、ロムルスはまだリウィウスほど人格が成熟していなかった。

 そのロムルスに「ゴルディアヌスさんにやらせればいい」と言ってやるのは最高の嫌がらせと言っていいだろう。小心者の癖に自分より立場の弱い相手にだけ強気に出ることの多いロムルスのことがアウィトゥスは嫌いだった。詰らないことで小言や嫌味を言うロムルスに、アウィトゥスは痛恨の一撃を放ってやったわけだ。


「ゴ、ゴルディアヌスの奴ぁ今ぁ着替えてんだよ!

 服を小便で濡らしちまったんだ。

 服からポタポタ小便垂らしながらじゃ、掃除する端から汚しちまうじゃねえか。」


 ロムルスは狼狽うろたえながら反論する。ロムルスは実はアウィトゥスのことも苦手だった。ゴルディアヌスに憧れているのか知らないがとにかくゴルディアヌスの真似をしたがるアウィトゥスは普段からロムルスに対し生意気な態度をとり続けている。それはこれまでもロムルスの自尊心をけがし、傷つけ続けてきたものだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る