第1009話 トラブル

統一歴九十九年五月十日、午前 ‐マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



 では《風の精霊ウインド・エレメンタル》様、あとはよろしくお頼みもうしあげます……オトは念話でそう告げるとリュキスカの部屋を後にした。ついでにリュキスカの部屋から出たゴミや汚物を桶にひとまとめにして抱えて、汚れ物部屋ソルディドルムへ持っていくべく運び出す。朝一番に一度掃除してはいたのだが、先ほどの野良のら精霊エレメンタルが引き起こした突風によって新たに出てしまったゴミ、そして朝の掃除の後に使われたの中身である。当然、臭い。

 悪臭を発する汚物を抱えていたせいだろうか、オトは異変に気付けなかった。階段を降りて角を曲がり、汚れ物部屋へ向かう途中にある便所の近くまで来たところでオトは何やら騒々しい物音に気付き、何だろうと疑問に思いつつ便所の前を通り過ぎようとしたところで便所から突然飛び出してきた誰かとぶつかった。


「あっ!?」

「痛っ!!」


二人はぶつかった勢いのまま姿勢を崩し、折り重なるように倒れこむ。手に持った汚物と共に・・・。


「うっわ、何やってくれてんだよ!?」


 衝撃から遅れてやってくる痛み、そして便所の方から浴びせられるロムルスの非難めいた声に耳朶じだを打たれ、二人は我に返った。鼻孔を突きさす異臭に気が付いたのはその時である。


「うぅわ、クッセッ!

 クソッ!どこ見て歩いてんだよ!?」


 突然飛び出してきて体当たりをかまし、あまつさえ悪態をつく相手の正体に気づいたオトは負けずにののしり返す。


「やかましい!

 いきなり飛び出してきたのはお前だろアウィトゥス!!

 どういうつもりだ!?」


「げっ、オトッ・・・さん!?」


 実は相手の正体も知らずに悪態をついていたアウィトゥスはオトに気づくと身を凍らせた。

 オトやネロたちと共に奴隷になったアウィトゥスは十九歳になったばかりの若造で、勢いに任せた無鉄砲な所の多いやんちゃ坊主である。対してオトは二十五歳、アルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアへの入隊時期こそ似たようなものだったが、オトはアウィトゥスより六つも年上なうえアルビオンニウムの職人街で生まれ育っただけあって度胸も腕っぷしもしっかりしている。オトの普段の大人しい態度や言葉遣いは決して彼の柔弱さゆえではなく、成熟した大人が持つ落ち着きと職人として商売用に身に着けた礼儀作法の成果に過ぎない。本気で怒らせたらオトは力自慢のゴルディアヌスにだって負けていないのだ。アウィトゥスごときが敵うはずもない。軍隊生活を通してそのことを知っていたアウィトゥスはオトを怒らせてしまったことに気づき、震えあがってしまう。


「逃げようとすっからそうなるんだぞ、アウィトゥス!

 起きれるかオト?」


 説教臭いことを言いながら便所から出て来たロムルスの顔はニタニタと笑っていた。オトに同情するかのような態度を見せているが、その表情は楽しんでいるようにしか見えない。

 オトは舌打ちしたいのを我慢しながら、間違って手や服を地面にぶちまけられた汚物でこれ以上汚されいないよう気を付けながら立ち上がる。


「なんだ、アンタら何してたんだ?」


「見ての通り便所掃除さ!

 アウィトゥスこいつはそれが嫌で逃げ出そうとしたんだ。」


「便所掃除ぃ!?」


 掃除の時間はとっくに過ぎている。が、それは貴族ノビリタスたちの生活空間の話だ。奴隷や使用人たちは主人や客人である貴族たちが朝食を摂っている間に、貴族たちの生活空間の掃除を一斉にやる。そうすれば貴族たちの生活の邪魔をすることなく、掃除片づけをこなすことができるからだ。

 では使用人や奴隷たちの生活空間はというと、それ以外の空き時間にやることになる。すべては主人たちの生活が優先であり、自分たちの家事は主人に与えられた仕事のない時間を見計らって片づけるほかないからだ。自分たちの私的な空間で主人たちの目に触れる機会のない以上、放置したからと言って怒られることも無いので自分たちが納得できる(あるいは我慢できる)範囲で手を抜くのは当たり前。結果、何日も掃除してないというような場所も平気で生まれる。

 そして便所は使用人や奴隷たち専用の施設であった。何故なら主人たちは便所は使わない。彼らは自分の部屋でに用を足し、その後片付けを使用人や奴隷たちにさせるからだ。貴族たちは自分の家の便所になど近づくことすらない。

 下手すると便所という施設のない家もある。そういう家では使用人や奴隷たちも自分の部屋で自分たち用のに用を足すこととなるわけだが、使用人や奴隷というのは普通一人部屋を与えられることはまずない。狭い部屋にベッドを並べて複数人で共同生活するのが普通で、排泄も同僚が寝起きするベッドの間で誰かに音を聞かれながら、誰かに臭いを嗅がれながらすることになる。そう考えると使用人部屋や奴隷部屋から独立した便所が用意されているのはそれだけでかなり恵まれていると言えなくもない。

 とまれ、そうなると他の使用人の私的な空間のように放置されてしまいそうだが、さすがに便所は下手に放置するとたちまち悪臭が主人たちの生活空間にまで流れてしまうので、便所は使用人たち用の施設でありながら例外的に掃除の手を抜くことの許されない場所だった。


「何で便所掃除から逃げる!?

 ちょっと洗うだけだろ?」


 ロムルスの説明を聞いたオトは眉をひそめ、オトに怒られることにおびえ続けているアウィトゥスへ冷めきった視線を向けた。

 ここの便所掃除はそれほど嫌がるようなものではない。尿瓶は毎朝ネロが屋外へ運び出して交換してくれるし、に使っている壺は蓋付きなのでそれほど強烈な臭いが漏れることも無く、ただ汚れ物部屋ソルディドルムへ運び入れさえすれば日に一度リュウイチが浄化魔法で綺麗にしてくれる。だから便所掃除はほぼ空っぽの尿瓶と蓋の閉まった肥壺を一旦部屋の外へ運び出し、床を掃き掃除するだけ(たまに水をかけて壁と床を洗うこともある)ぐらいである。わざわざ逃げ出すようなものではないはずだった。


「それが今日はそうでもねぇんだ。」


 ロムルスは相変わらず何がおかしいんだからニヤニヤしながら、飛び切りの冗談でも披露するようにつまらない説明を続ける。


「何でか知らねえが今日に限ってネロの大将、尿瓶を片づけてなかったのさ。

 しかもそれをゴルディアヌスの奴がひっくり返し、中身を床にぶちまけちまった。」


 オトが驚き、無言のまま目を見開くとロムルスは調子に乗って両手を広げた。


「そんでそいつを掃除しようとしたんだが、生き残った尿瓶を退けようとしたらどれも小便が並々と入ってやがるんだ。

 で、尿瓶そいつを運べってアウィトゥスこいつに言ったら、嫌がって逃げ出しやがったってわけさ。」

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