第1007話 リュキスカ
統一歴九十九年五月十日、朝 ‐
リュキスカはベッドに
前回の生理は四月二日か、いや三日だったか……ともかく四月になってすぐ位だった。息子フェリキシムスを産んでから最初の生理で、久しぶりだったので慌てたのを覚えている。おまけにやたらキツかった。
妊娠前は生理痛をそれほどひどく感じたことはなかった。軽い方だったのだ。しかし、出産を機に体質が変わったのだろうか? 前回といい今回といい、やたらと重い。娼婦という職業上欠かさず飲んでいる
あぁ……なんてこと……
子供なんてもう産みたくないのに……
アタイにゃフェリキシムス一人で十分なのに……
なんで生理は無くならないの?
リュキスカは首だけを動かして息子の方を見た。ベビーベッドの柵の中で彼女の愛してやまない息子は、リュウイチから貰ったタオルで作った暖かそうなモコモコの
「んん~~~……フェリキシムスぅ~」
力のない小さい声でその名を呼ぶと、驚くことに急成長中の一歳児の耳に母の声は届いたようである。ハッとリュキスカの方を見る。赤ん坊の目は基本的にド近眼だ。近くのモノしか見えない。特に手で顔を隠さなくても、顔を前後させるだけのいないいないバァでも赤ん坊が喜ぶのは、まさにほんの数十センチ距離が離れるだけで何も見えなくなるからである。実際、フェリキシムスの目にはこの距離でリュキスカの顔を見つけ出すだけの視力は無かった。が、フェリキシムスはその視線の先に赤い何かを見つける。そう、母リュキスカの赤く染められた髪だ。
「ア゛ア゛ア゛ア゛~~~~」
何か嬉しそうな声をあげ、フェリキシムスはリュキスカの方へ四つん
「ああ~いい子ねぇ~フェリシキムスぅ~」
可愛い。何でフェリキシムスはこんなに可愛いのだろう? 赤ちゃんはみんな可愛いが、フェリキシムスは特別だ。絶対世界一可愛い。先月まではあんなに苦しそうでここへ来たときは今にも死にそうだったのに、今やあんなに元気だ。今までの遅れを取り戻すような凄い勢いで成長している。きっと本当に世界中の幸運を背負って生まれてきたに違いない。
その姿を見ているだけでリュキスカの目は自然と潤みだす。
「ア゛、ア゛ヴヴ~~~」
柵に行く手を阻まれたフェリキシムスはその柵を掴み、しがみつき、
「ああ~、フェリキシムス、偉いねぇ~」
リュキスカは枕に顔を半分うずめたまま微笑んだ。先月までハイハイすらしなかったのに、御乳も満足に飲んでくれないこともあったのに、泣き声ですら弱々しくか細かったのに、それがああやって立ち上がり母を、リュキスカを求めてくれている。その姿を見ているだけで、生理痛の苦しみも
しかし、当のフェリキシムス本人にとって事態はもっと切実だったようである。彼は声のする方へ、愛する母の許へ行きたかったのだ。だが彼の前には難攻不落の城砦にも等しい木柵が立ちはだかり、その行く手を阻んでいる。
フェリキシムスは挑んだ。愛する母を求め、その行く手を阻む木柵を取り除こうとした。だが鉄のごとく頑強な木柵はフェリキシムスの全力でもビクともせず、天を突くほど高いそれは乗り越えることすら認めようとしない。
「ア゛ッ、ア゛ッ、ブッ、ブッ、ヴッ、ヴッ、ウゥゥ~~~」
フェリキシムスは戦士のごとく雄叫びを上げながら、掴んだ柵に挑み続ける。両手で柵を掴んだまま、ピョンピョンと跳ね、そして力尽きてその場にペタンと座り込んでしまった。
リュキスカの目にはその姿はとても愛らしく映ったが、しかしフェリキシムスにとっては一つの大きな挫折であった。彼は……敗北したのだ。愛する母の許へ行けない……その絶望に彼は打ちのめされていた。
「ウヴゥ~、フッ、ヴッ、ヴェェ……」
悔しさに、悲しみに、フェリキシムスの表情が染まる。
「あぁ、フェリキシムス……」
息子の表情の変化に気づいたリュキスカが小さく声をかけると、それが引き金にでもなったかのようにフェリキシムスは大粒の涙をポロポロと流しながら声をあげて泣き始めた。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ーーーーーーッ!!!」
「ああぁ、フェリキシムス、待って、母ちゃん今いくからねぇ」
赤ん坊の盛大な泣き声に急かされるように、リュキスカは身体を起こしはじめた。フェリキシムスの可愛い姿を見て多少は癒されたとはいえ、生理痛がいきなり解消するわけもない。頭もお腹も腰も痛い、だがそうも言っていられない。
リュキスカがベッドから立ち上がると
ああ、もうっ、こんな時に!!
「
フェリキシムス様!!」
その時、丁度部屋のドアが開き、外からオトが血相を変えて飛び込んできた。それと同時に部屋を荒らしていた突風も不思議なほど急に大人しくなるが、リュキスカの気分は荒れ模様のままだった。
「チョイとオトさん、何なんだい!?
アタイだって女なんだよ!?
いきなり部屋に入って来んじゃないよ!!」
「いやぁ、あの……すみません。
その、フェリキシムス様の泣き声がしたもんでつい……」
普段は優しいリュキスカの怒声にオトは思わず震えあがり、飛び込んできた時の勢いはどこへやらその場に立ち尽くしてしまった。部屋の中は文字通り嵐の通り過ぎたような散らかり様で、今朝がた片づけたばかりだとはとても思えない。
「アタイが居ンだから、この子は大丈夫よ。
何やってんだいこんなになっちまってまったくっ……」
リュキスカはブツクサ言いながらそれでもベビーベッドの傍まで歩み寄ると、両手でまだ泣き続けている息子を抱き上げた。フェリキシムスは愛する母に抱き上げられるのに合わせてリュキスカに両手を伸ばしてしがみつく。そして母の胸の柔らかさと温もりを感じてようやく泣き止むのだった。
いや、俺がやったわけじゃないんだけど……
まるで部屋を散らかしたのを自分のせいにされてしまったような理不尽にオトは釈然としないものを感じていたが、しかし今下手に反論してもリュキスカの機嫌を悪くするだけだと分かっているので身を縮こませ、ボリボリと頭を掻いて我慢する。
リュキスカは泣き止んだ我が子をゆさゆさと揺すり、優しく声を掛けながらあやすと、思い出したようにオトに命じた。
「ああ、オトさん、悪いけど、そこらへん片づけておくれ」
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