第1006話 精霊の知恵

統一歴九十九年五月十日、朝 ‐ マニウス要塞陣営本部プリンキパーリス・カストリ・マニ/アルトリウシア



 リュウイチのどこか寂しそうに笑う声にフと違和感を覚えたオトが顔をあげてリュウイチを見ると、リュウイチは誰も居ない窓の方へ顔を向けていた。


『サモン・ウインド・エレメンタル』


「えっ!?えっ!?」


 オトは一瞬、急激に気圧が変化したのを感じた。が、それだけである。風が吹いたような気がしないでもないが、部屋の中には何の変化も無い。戸惑うオトが何かを見据えているらしいリュウイチの視線を追うと、その先に何やら極めて小さな旋風つむじかぜが舞っており、それのせいで向こう側が陽炎かげろうのようにわずかに歪んで見えるのに気づいた。


『《風の精霊ウインド・エレメンタル》、話がある。

 オトも関係者だから彼にも聞こえるように話せ。』


 リュウイチは《風の精霊》を召喚していた。問題は赤ん坊が放出する魔力に精霊エレメンタルたちが反応して怪現象を引き起こしていること……ならば、その解決方法は精霊に訊くのが一番手っ取り早い。


かしこまりました、我があるじ様』


 オトの頭の中にやけに軽やかな声色の、リュウイチとは異なる者の念話が届く。


「え、《風の精霊ウインド・エレメンタル》様!?」


 ハッキリとではないが、そこに居ることが魔力のないオトにも知覚できるほどの強力な精霊エレメンタル……本来なら神の一柱としてどこかの神殿で祀られててもおかしくない存在だ。リュウイチが使役しているとはいえそのような高貴な存在を前に、オトはこのまま椅子に座っていて良いものなのか、椅子から降りてひざまずくべきなんじゃないのかとあせり、迷い、動転してしまう。

 そんなオトを無視するようにリュウイチは《風の精霊》と話を続けた。


『それで《風の精霊ウインド・エレメンタル》、相談があるんだ。』


『何なりと……』


『実はこの屋敷に赤ちゃんが一人いる。人間の、ヒトの赤ちゃんだ。

 オトの話によると、その子が魔力を持っていて、その子が泣く時に魔力も放出しちゃって、それに周りの精霊エレメンタルが反応して、色々問題が起きているらしい。』


『わたくしども《風の精霊ウインド・エレメンタル》は悪戯いたずら好きが多いですからねぇ。』


『……なるほど、あり得るのか。』


 《風の精霊》の口ぶりでは、さもありなんといった感じだ。まずはそういう現象が本当に起きるかどうかを訊くつもりだったリュウイチは、《風の精霊》の反応から真偽を尋ねるまでもないようだと判断する。


『じゃあ、それを防ぐ方法を知りたい。』


『防ぐ方法……ですかぁ?』


 間延びしたその口調はどこか億劫おっくうそうだ。面倒だと思っているのかもしれない。

 いや、自分で《風の精霊》は悪戯好きだと言っていたところをみると、遊びのチャンスを自ら潰したくないと思っている可能性もある。いずれにせよ、《風の精霊》にとって、あまりやりたくない仕事のようだ。

 しかし、リュウイチは《風の精霊》のそうした心情を無視した。


『そうだ、精霊エレメンタルたちの悪戯が過ぎて、赤ちゃん自身や周囲の人間たちが怪我したり死んだりするようになっちゃ困るんだ。

 風で物が飛んで何かが壊れたり、それで誰かが怪我したり、火が燃え広がって火事になったりとか、そういうことが起きないようにしたい。』


『その子から魔力を奪い取ってしまうのが一番手っ取り早いのでは?

 主様の「魔力吸収マナ・ドレイン」を使えば簡単でしょう?』


 問題の根本原因は魔力を制御できない赤ん坊が過大な魔力を持ち、それを放出してしまうことにある。なら赤ん坊から魔力を奪ってしまえば、これ以上問題は起きようがない。理屈から言えばそれは正しいだろう。だがリュウイチは首を振ってその提案を拒否した。


『いや、赤ちゃんには手を出さない。

 赤ちゃんはそのままで、周囲の精霊エレメンタルが反応しないようにしたい。』


 この世界ヴァーチャリアにおける魔力というものが具体的にどういうものなのか……その詳細についてリュウイチは十分な理解をしているとは言えない。ただ、魔力は生命エネルギーそのものであり、それを失うと死ぬこともあり得ると幾度か話を聞いている。だとすれば、赤ん坊から魔力を奪えば死んでしまったり、体調を崩してしまったりすることも考えられないことではない。

 実際、リュウイチはリュキスカの子フェリキシムスを初めてみた時、彼は死に瀕していた。そして魔法によって治癒を行い、更に魔力を直接与えようとしたのだが、その時リュウイチの与える魔力があまりにも膨大過ぎて赤ん坊は一瞬内部から爆発しそうになった。慌てて一度与えた魔力を引き戻すことで最悪の事態は避けられたが、その後魔力を与え、爆発しそうになって引っ込め、引っ込めすぎて死にそうになって再び与え、爆発しそうになって……というのを何度か繰り返してしまっていた。結局、微調整が難しすぎて嫌になってしまい、どうやら赤ん坊が死なないでいられそうな落としどころを見つけたところでさじを投げ、残りの微調整をエリクサーに頼ってしまったのだった。


 また、あれと同じことはしたくない。

 下手したら、今度こそ赤ちゃんを破裂させてしまいかねない……

 きっとアレで赤ちゃんが死ななかったのは運が良かったんだ。


 リュウイチは幸運に頼る習慣を持っていなかった。リュウイチはこれでも《レアル》ではプロのトラックドライバーだったのだ。安全確認を怠り、安全確保を妥協し、幸運に頼った所謂いわゆるをするのは二流のドライバーのすることである。いや、プロ失格と言っていいだろう。

 赤ん坊を助けるつもりで逆に死なせかけてしまったという自覚がある以上、リュウイチに同じ真似は出来ない。


『ふ~む……なら、その子の周囲の精霊エレメンタルをすべて支配下に置いてしまいましょう。』


『……それって、できるの?』


『赤子の魔力にイチイチたかるような精霊エレメンタルなぞ所詮は小者です。

 そのような者ども、いくらいようとも物の数になりますまい。

 主様の実力をもってすれば容易たやすきことかと……』


 《風の精霊》の慇懃いんぎんな物言いに、オトは感心したように「おおっ」と思わず声を漏らした。だが、リュウイチの方の表情は思わしくない。


『それって、その赤ちゃんのいる部屋にいなくてもいいの?』


 あっ……オトが何か不味いことに気づいたようにリュウイチの顔を見た。


『たしかに……主様は御力が強大ですから、小者どもは逆らえますまい。

 ですが、主様は強大すぎますから、どこぞの物陰に隠れた小者どもは却って小さすぎて見落とされてしまうかもしれませんねぇ。

 同じところに居られた方がよろしいでしょう。』


 さすがにそれは不味い。リュウイチがその場にいなければならないのだとしたら、リュウイチは常に赤ん坊と一緒に過ごさねばならなくなる。それは事実上、リュウイチがリュキスカの部屋で常に過ごすことを意味するし、同時にリュウイチが自らフェリキシムスの子守をすることを意味した。

 リュウイチが赤ん坊の子守をする……いくらそれがリュウイチに仕える聖女サクラリュキスカの子であったとしても、まず認められないだろう。フェリキシムスがリュウイチの子であるならまだしも、フェリキシムスはリュウイチとは何のつながりも無い赤の他人の子。なのにリュウイチがフェリキシムスの世話をしたりすれば、リュウイチがそれだけリュキスカに肩入れしていることになってしまう。


 そんなところへ、ルクレティアが帰ってきたらどうなるのか?


 かなり厄介な状況になってしまうだろう。リュキスカはリュウイチの事実上の第一聖女プリムス・サクラだが、リュキスカは本来ルクレティアが正式に嫁ぐまでのという位置づけなのだ。本来、高貴な者でなければ近づくことさえ許されないはずの降臨者に、貴族どころか父親が誰かすら分からない娼婦リュキスカが夜伽よとぎをしているというだけでも問題視されてしかるべきだというのに、ここへきてリュウイチがリュキスカに必要以上に肩入れしてはルクレティアの居場所が、立場が、無くなってしまう。これは間違いなく大問題である。

 いくら平民プレブス出身の奴隷に過ぎないオトといえど、ルクレティアがただの聖女候補から名目上の聖女になった経緯を知っている以上、これがどれだけ厄介なことになるかぐらいは簡単に想像がついてしまった。


「ダっ、ダメです旦那様ドミヌス

 そ、そ、それじゃあ……え、えっと……私の、子守としての立場が……」


 さすがにルクレティアの名をここで出すわけにはいかない。オトはルクレティアを巻き込むのを防ぐためにも、あえて自分の失職を理由にして反対を唱えた。

 リュウイチは少し驚いたような顔をしてオトを見たが、黙ったままオトに向かって手をかざして抑えると、そのまま《風の精霊》に語りかける。


『じゃあそれも無しだ。

 私はその子がいる部屋に入るわけにはいかないんだ。』


 その一言にオトはホッとしたが、実を言うとこの時リュウイチ自身はルクレティアとリュキスカの関係がどうにかなるとかいう心配は全くしてなかった。むしろ、赤ん坊の命にかかわることなんだからルクレティアは話せば納得してくれるだろうぐらいにしか考えていない。

 リュウイチが《風の精霊》の提案を否定したのは、リュウイチがリュキスカ女性の部屋に居座らねばならないことへの心理的抵抗が理由のすべてである。いや、あともう一つ、あのあまりにもデリケートすぎる赤ん坊を身近に置くことで不用意に触れてしまい、それがきっかけで万が一にも傷つけたり死なせたりするのではないかという恐れもある。

 だが、結果としてリュウイチの拒絶はオトの心配したトラブルを未然に回避するものとなった。リュウイチは続ける。


『赤ちゃんを部屋から出して私のそばに置くのも無し。

 別の方法を教えてくれ。』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る