指導者不在の十人隊

第1002話 オトの報告

統一歴九十九年五月十日、朝 ‐ マニウス要塞陣営本部プリンキパーリス・カストリ・マニ/アルトリウシア



 カールとの朝食を終えたリュウイチはわざわざ庭園ペリスティリウムを遠回りに一周して自室へ帰っていくカールを見送ると、汚れ物部屋ソルディドルムへ向かった。元々、使用人や奴隷のための小部屋アラエの一つだったのだが、今は陣営本部プリンキパーリスで出たありとあらゆる汚れ物を集めて処理するための専用の部屋となっている。そこに集められた汚れ物を処理するのがリュウイチの日課だ。

 とはいっても手で洗ったりするわけではなく、浄化魔法を一発かけるだけである。浄化魔法をかければ時間をかけることなく、あらゆる汚れ物がまるで新品のように綺麗になる。洗濯モノも食器もも、落ちなかった臭いやシミも一つとして残すことなく綺麗になるのだから便利なことこの上ない。最初は奴隷や使用人たちは「リュウイチ様にそのようなことをさせるわけには」とかなんとか言っていたのだが、自分たちで洗うよりもずっと早くずっと綺麗になるし、実際やってもらえれば自分たちの仕事が相当楽になるのは否定のし様のない事実なのでリュウイチが毎日これをするようになっている。

 リュウイチとしてもここでは本当に何もすることが無いうえに、下手なことをすると周囲に色々と迷惑をかけてしまうため、こうして誰の迷惑にもならずむしろ助けになることであれば、やらせてもらえた方が却って助かるのだった。人間、何がしか果たすべき役割というものを持っていた方がいい。じゃないと自分自身の存在価値を堅持できなくなり、自分でも気づかぬ間に自尊心をボロボロにして心を病んでしまう。

 魔法の一つや二つじゃ減る様子すらない膨大な魔力をもつリュウイチにとって、日に一度の浄化魔法の行使は指一本動かすよりも容易たやすいことなのだから全く苦にもならない。それでいて目の前の汚れ物の一切が一瞬で綺麗になるうえ、周囲の人間たちがこぞって礼を言ってくれる……それも社交辞令などではなく、間違いなく本心から感謝してくれるのだからリュウイチからすれば逆にありがたいくらいだ。

 いっそのこと屋敷中の部屋という部屋に浄化魔法をかけて回ってやってもいいくらいだったが、さすがにそこまですると使用人や奴隷たちの仕事が無くなってしまう。今度は彼らの存在価値を否定してしまいかねない。実際、それをやれば彼らの何人かは職を失うことになるだろう。


 今のところリュウイチが日常的にしなければならない(と、本人が思っている)仕事は、浄化魔法での浄化とカールに対光属性防御魔法をかけてやることの二つだけだ。それ以外のことでリュウイチがしなければならない作業や仕事、果たすべき役割と言ったものは何もない。強いて言うなら、何も問題を起こさないことぐらいだろう。それ以外の身の回りの世話は全て奴隷たちや使用人たちがやってくれる。正直言って却って居心地の悪さすら感じるレベルだ。

 が、今日は一つ特別な用事ができた。主人として奴隷の陳情ちんじょうを聞くことである。


 奴隷や使用人の主人というものは何もしなくてよいというわけではない。何者かを支配するということは、支配される者たちの面倒を見てやることでもあるからだ。それが奴隷や使用人たちであれば、支配者たる主人は彼らが生活できるように環境を整えてやらねばならない。報酬を支払ったり、衣食住を確保し提供してやったりは基本だろう。そして、何か問題があればその訴えに耳を貸すことも重要な役目となる。

 普段、そうした奴隷たちの問題を調整するのはネロの仕事だった。彼らが現役の軍団兵レギオナリウスだったころ、ネロは彼らの隊長だった。その流れからか、ネロは奴隷たちを率先して取り纏め、問題の調整役を引き受けていた。奴隷たちもネロみたいな若造に色々指図されるのを快く思っていたわけではなかったが、だからといってそういう面倒ごとを自分が担うことになるのはもっと御免だったがために、ネロがそうするのを受け入れていた。そして、ネロの手に余ることがあればネロはクィントゥスに、必要に応じてアルトリウスに相談していた。


 正直言ってリュウイチは彼らに主人らしいことをした覚えがない。


 好き好んで彼らを奴隷にしたわけではないし、そもそも奴隷という存在を欲したわけでもない。人の上に立つ立場というものを堪能したいと望んだ覚えなどもちろんないし、誰かを支配したいと明確に欲した覚えもない。しかし、成り行きとはいえリュウイチは彼らを奴隷にしてしまったのだ。そして彼らも仕方のない……ある程度は自業自得ともいえる経緯によってリュウイチの奴隷となってしまった。互いに望まぬ成り行きだったとはいえ、奴隷と主人という関係を持ってしまったのだ。そして、それはしばらくの間は解消できない。彼らは刑罰として奴隷に堕とされたのであるから、主人であるリュウイチが解放を望んだとしても、一定期間は彼らが奴隷という身分から脱せるわけではないのだそうだ。

 多分、リュウイチが彼らを手放せば、彼らは解放奴隷として自由になるのではなく、別の主人へ売り払われることになるだろう。そして、軍命に背いた反逆者である彼らに奴隷としての価値はない。法律で定められた最低価格で売りに出されたとしても買い取る者が現れる可能性は限りなく低く、そうなれば鉱山などの過酷な環境での強制労働に投入され、刑期が明ける前に死ぬことになるだろう。

 半ば彼らの自業自得であるとはいえ、そのきっかけを作ったのは間違いなくリュウイチ本人だ。リュウイチが軽卒な行動を起こしたりしなければ、彼らもこんな風にならずに済んだかもしれない。だからこそ、リュウイチは彼らを奴隷にしてしまった事に責任を感じていたし、せめて良い主人でありたいと考えていた。そして今、その機会が巡ってきたのである。


『それで、話というのは何かな?』


 居間代わりに使っている食堂トリクリニウム長椅子クビレに腰かけたリュウイチはオトに対面に座るように促しつながら問いかけた。オトは奴隷という身分に慣れてはいなかったが、それでも自分の立場くらいは承知していたし、いくら主人に勧められたとはいえ主人と対等の椅子に座っていいものか分からず混乱する。


「え、いや、あの……旦那様ドミヌス、わたしゃぁその……」


『落ち着いて話をするには座った方がいいだろう?

 さあ座って、それで話は?』


 それでもリュウイチに強く勧められるとオトは逡巡の末に思い切ったように「ありがとうございます」と深くお辞儀してから、それでも躊躇ためらいがちに腰かけた。


『オトさんには赤ちゃんの世話を押し付けてしまって申し訳ないと思ってたんですよ。』


「いえ、申し訳ないだなんてとんでもない!」


 普段は「何で俺ばっかり」と内心で思っており、時折口に出して愚痴ることもあることではあったが、リュウイチにそう言われたオトは咄嗟に首を振った。自分が不満に思っていたことを理解してくれたとか、自分の仕事を評価して貰えたとかいうようなことではなかったが、この期に及んでなおもリュウイチに言うべきかどうか悩んでいたオトは何かが心の中でストンと整理がついたような、何か吹っ切れたような不思議な感覚を覚える


『それで、ロムルスさんからオトさんから話があると聞きましたが?』


「はいっ!フェリキシムス様……その、リュキスカ様の……赤さんのことで……」


『赤ちゃん!?』


 てっきり自分たちの待遇のことで何か言いたいことでもあるのかと思っていたリュウイチは予想外の話に驚いた。


「はい。」


『何?

 まさか、また体調が悪くなった!?』


 リュキスカの子フェリキシムスは生後間もなく結核にかかり、ここに連れて来られた時は最早死の淵へ落ちようとしている瀬戸際だった。リュウイチは治癒魔法とエリクサーでフェリキシムスとリュキスカを死病から救ってやったわけだが、それ以降は赤ん坊の健康状態について悪い話は一つも聞いたことが無い。

 それどころか結核のせいで成長が遅れていた分の反動が一気に来たかのようで、リュキスカは事あるごとにリュウイチに赤ん坊の自慢をしてくるほどだ。良く泣くようになった、鳴き声が大きくなった、おっぱいを凄い勢いで飲むようになった、ハイハイしはじめた、呼ぶと一生懸命ハイハイしてアタイのところへ来る、昨日は初めて捕まり立ちをした、今日はついに立ちあがった……赤ん坊の話をするときのリュキスカは本当に幸せそうで、赤ん坊の健康に不安があるようなそぶりは一切見せない。


 ひょっとしてリュキスカ本人も気づいてないことがあるのか?

 そういえばオトは育児経験者だけど、リュキスカは初めての子供だし……


 だがそんなリュウイチの懸念をオトは即座に否定した。


「いえ、そういうことでは!」


『じゃあ、一体何?』


 赤ん坊について特に何かしてやったという覚えは確かにリュウイチにはないが、だからといって何か不足があるという話も聞いていない。リュキスカの服はリュウイチがストレージに在ったものを分け与えていたが、赤ん坊の分は何か布があればよいと言われたのでタオルだのシーツだの生地などをリュキスカに渡してやっている。リュキスカはそれを自分で切ったり縫ったりして赤ん坊用の服を自作しているのだそうだ。

 食事についてもアルトリウスたちが用意しているし、リュウイチ自身がアルトリウスたちの世話になっている立場だからオトも赤ん坊の食事についてリュウイチに何か言ってくるとは思えない。健康状態は問題ないそうだし、住む部屋についても不満は無いとリュキスカは言っていた。

 となるとリュウイチには全く予想がつかない。


「それが旦那様ドミヌス、フェリキシムス様はどうも、魔力を使いだしているようなんです。」


 怪訝な表情を浮かべるリュウイチに、オトはまるで勿体でもつけるように言った。

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