第1001話 英語を学ぶカール

統一歴九十九年五月十日、朝 ‐ マニウス要塞陣営本部プリンキパーリス・カストリ・マニ/アルトリウシア



 カールは朝食の後しばしの間リュウイチとの歓談をし、お腹が少し落ち着いてきたところで席を立った。リュウイチから対光属性の防御魔法をかけなおしてもらって部屋を出、そのまま右へ行けば自室まですぐなのだが腹ごなしの運動を兼ねて左へ向かい、庭園ペリスティリウムを時計回りに一周して自室へ帰る。実際に歩く距離は多分百メートルも無いだろうが、それでもカールにとっては結構な運動であり、胃袋がパンパンの状態ではかなり苦しい。だからこそ食後にリュウイチと歓談して胃が収まるのを待ったのだが、手を壁についてカニ歩きの要領で進むカールの額はすぐに汗が浮かび始めた。

 拳大の食用パンブロート三つにソーセージヴルスト二本、ポテトサラダとザワークラウト、ゆで卵、牛乳、細かく刻んだキノコと豆と玉葱のスープズッペ……あの身体によく収まるものだとリュウイチは内心で毎回のように驚くが、実のところカールはかなり無理して食べている。たくさん食べて身体を強くしなければ……リュウイチに言われるまでも無くカールはそのことを人一倍意識していた。ランツクネヒト風のモコモコした綿入りの服のせいで分かりにくいが、胃のあたりはポッコリ膨らんでいるほどであり、リュウイチとの歓談で胃を休めることができなければ、多分途中で戻してしまっていた事だろう。


 自室に戻ったカールの体力はもう限界に近い。頭はグラグラするし額には玉の汗がいくつも浮かんでいる。気を抜けばさきほど食べたばかりの物を今にも戻してしまいそうな嘔吐感おうとかんこらえつつ、家庭教師のミヒャエル・ヒルデブラントに身体を支えられながら自室の勉強机に座り、机に手を突きながらハーハーと荒くなった呼吸を整える。

 それが落ち着いたら勉強だ。カールにとって一番嫌な時間である。

 つけられた家庭教師がミヒャエルになってから気持ちがだいぶ前向きにはなったのだが、それでも嫌なものが好きになるほどではない。ミヒャエルの姓がヒルデブラントだから、自分がアルターヒルデブラントに師事するディートリッヒ・フォン・ベルンになったような……カールの好きな英雄譚の主人公の気分を味わえるから気持ちが前向きになっているにすぎないのだ。しかし、やることはディートリッヒ・フォン・ベルンがやるような武術の鍛錬などではなく、今まで嫌々やっていたただの勉強だ。いくら家庭教師が好きなキャラに似ていても、向き合うべき勉強は現実以外の何物でもない。そして嫌な現実に向き合うこと以上に不愉快なことはそうそうあるものではなかった。

 だいたい、家庭教師が教え子の好きなキャラに似ているだけで教え子の成績が上がるなら、日本中の家庭教師の多くは躊躇なくコスプレすることを選ぶだろう。嫌いな勉強に興味を持ってもらう苦労は、コスプレする恥ずかしさなどとは比べ物にならない。


「なぁ、アルターヒルデブラントよ。

 英語っていうのはどうしても覚えなければならないものなのか?」


 勉強が始まって早一時間、休憩を告げられたカールはついに匙を投げ始めていた。


若殿よユンガー・ヘル、英語は貴族にとって身に着けるべき教養の筆頭です。

 英語は降臨者様の多くが話される高貴な言語であり、世界ヴァーチャリアの共通言語なのですから。」


 ミヒャエルはカールの何度目になるかもわからない泣き言に対し、いつものように落ち着き払って答える。もちろん、老ヒルデブラントの演技は忘れない。それだけでカールはとても素直な教え子になってくれるからだ。


「でもリュウイチ様は英語は話されないぞ?

 リュウイチ様は念話で話されるのだから、英語なんて憶えなくったっていいじゃないか!?」


「念話は便利ですが不便もあるのです。

 言葉で直接会話できるのであれば、それに越したことはありません。」


「どんな不便があるというのだ!?」


「例えば異国の貴族がリュウイチ様と謁見なされたとしましょう。

 そこには殿ヘルも同席なさっておいでです。

 英語は高貴な言葉ですから、貴族はリュウイチ様に英語で話しかけます。

 リュウイチ様は念話を使われますから、念話でお応えになられるでしょう。

 するとどうなりますか、若殿ユンガー・ヘル?」


「どうなるというのだ、老師アルター・マイスター?」


「リュウイチ様は念話で話されるので、リュウイチ様が話されることはその場にいるすべての人が理解できるでしょう。

 ですが殿ヘルは念話が出来ません。英語も解されません。

 すると、殿ヘルはリュウイチ様の話されることは理解できるのに、貴族の話したことは理解できず、二人の会話についていくことが出来なくなってしまうでしょう。」


 カールは説明するミヒャエルを見つめたまま顔をしかめた。たしかに、社交の場で会話に取り残されるなど、貴族にとって恥以外の何物でもない。いくら社交界にデビューしたことのないカールであっても、それくらいは想像がつく。それがどれくらい深刻な問題なのかまでは、理解しきれていないにしてもだ。


「もしもその貴族が良からぬことをリュウイチ様に吹聴ふいちょうしようとしても、殿ヘルはそのことに気づくことすらできないかもしれません。

 逆に愉快な冗談を口にしても、殿ヘルは笑うことが出来ずその場をしらけさせてしまうかもしれません。」


「んーっ!」


 カールはムズがる様に唸った。反論したくても出来ないのがもどかしいのだろう。だが子供というものは自分が嫌いなものを避けるための理由を見つけ出すことにかけてはいつだって天才的だ。正攻法でダメならからめ手を狙い始める。


「でも降臨者様とお話するなら降臨者様の話される言葉を覚えるほうがいいのではないか!?

 リュウイチ様は英語は子供の頃に習ったけど苦手で話せないとおっしゃられた。

 リュウイチ様がお話になるのはニホンゴっていう言葉だ。

 南蛮の言葉だぞ!?

 南蛮の言葉を覚えた方が良いのではないか?」


「それは英語を覚えた後にした方がよろしいでしょう、若殿よユンガー・ヘル。」


 ミヒャエルの連れない態度にカールは愕然とする。


「何でだ老師アルター・マイスター!?」


 カールは致命の一撃となるはずの奇襲攻撃を放ったのに、ミヒャエル涼し気に微笑んでいた。子供たちは間違いなく天才だ。だが子供の多くは意外と気づいていない。大人たちもかつては子供だったという事実に……


若殿よユンガー・ヘル

 南蛮の言葉はまだ帝国の貴族にも異国の貴族たちにも知られておりません。

 そしてリュウイチ様は念話を用いられます。

 ゆえに、異国の貴族はリュウイチ様に対し、英語で話されることでしょう。

 南蛮の言葉で話せと言われても無理なのですからね。

 ですから、殿ヘルがたとえ南蛮の言葉をマスターし、リュウイチ様と自在に会話なされたとしても、殿ヘルが英語を理解せねばならない必要性は少しも無くならないのです。

 殿ヘルがリュウイチ様と南蛮言葉で自在に話せても、それはお二人だけの間で意思疎通ができるというだけのことにしかないりません。それは確かに殿ヘルにとっての強みとなりましょう。ですが他の貴族との会話について行けないのであれば、それは殿ヘルにとって致命的な弱点となってしまいます。」


 ミヒャエルの反撃にカールは成す術がなかった。浮かせていた腰を言葉も無く椅子に降ろす。


「それに、南蛮言葉は英語よりもずっと難しいそうですよ?

 文字だけで何千何万もあり、おまけに土地や身分ごとに、そして男と女でも、話す言葉が違うのだそうです。

 英語すら覚えることが出来ないのであれば、南蛮言葉を覚えるなどもっと難しいのではありませんかな?」


 勝敗は決したようである。とどめの一言にカールは勉強机に広げた教科書に顔をうずめるように突っ伏した。そのカールを励ますようにミヒャエルは穏やかに続ける。


「そのリュウイチ様も、せっかくこの世界に来たのだから英語を勉強したいと御所望ごしょもうだそうです。

 もし、殿ヘルがリュウイチ様よりも早く英語をマスターすれば、殿ヘルがリュウイチ様にお教えして差し上げらえることが増えるのではありませんかな?」


 カールは顔を教科書にうずめたまま首を回し、恨みがまし気にミヒャエルを見上げた。


「ほんとうか?」


「はい、どなたがその大任に当たられるかはまだ決まっておりませんが、スパルタカシア様がお戻りになられればあるいは……」


 それはまだ噂話である。リュウイチがどうせ暇だし、せっかくだから何か勉強してみようかと言い出したのは本当だった。そして、そのことを奴隷たちの口から聞いたアルトリウスが英語教師を探そうとしたのだが、ルクレティアが留守中にルクレティアを差し置いて勝手に決めるわけにはいかないということで棚上げになっている。

 カールは再び顔を教科書にうずめた。そのまま数秒、口をモニョモニョとさせたあと、意を決したようにバッと顔をあげる。


「ああ~、でも英語って何でこんなに変なんだ!?

 ラテン文字を使ってるくせに発音が出鱈目でたらめじゃないか!

 何でユリウス・カエサルがジュリアス・シーザーになるんだよ?!

 ユリウス・カエサルはユリウス・カエサルだろ!!」


 やっとやる気を出してくれるかと期待したミヒャエルだったが、それはどうやら楽観的過ぎたようである。

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