第997話 パンを食べるカール

統一歴九十九年五月十日、朝 ‐ マニウス要塞陣営本部プリンキパーリス・カストリ・マニ/アルトリウシア



 スライスした食用パンブロートの切り口にバターブターを分厚く塗る。パン生地の発酵によって出来た気泡のすべてがバターで埋まって見えなくなるほどタップリと……それがランツクネヒト流バターつきパンブターブロートだ。ライ麦を使った酸味のあるパンには、クリーミーなバターがよく合う。

 塩が高価で貴重なアルビオンニア属州では無塩バターが主流である。それは貴族の食卓であっても同じだ。塩を添加したバターに慣れた人間にとってはやや味気ない気もするが、発酵させてあるので風味は強い。バターを塗ったパン……シンプルだがそれだけで一つの立派な御馳走だ。それがコクの強い《レアル》ドイツ伝来のランツクネヒト・パンともなれば猶更なおさらである。


 カール・フォン・アルビオンニア侯爵公子が手にしているのは小麦とライ麦を半々に混ぜた混合パンミッシュブロートの生地に、汁気をしぼったザワークラウトを混ぜ込んだザワークラウトブロートである。

 病弱な身体ゆえに寝室に閉じこもらざるを得ない日々を送っていたカールは英雄譚が大好きだ。軍隊が大好きだ。だから本当はライ麦で作られる軍用パンコミスブロートを食べたいのだが、ありがたくも勿体もったいなくもサウマンディア属州の司教がカールのために祝福をほどこした小麦を送ってくれたとあっては食べないわけにはいかない。そも、病弱さゆえにミルク粥ミルヒブライばかりを食べさせられていたカールも、最近の体力の回復をアピールすることでようやくパン食を認めてもらえたばかりなのだ。それが混合パンなのは軍用パンを食べたいカールの希望と、祝福を受けた小麦で作る白パンヴァイスブロートを食べさせたい母エルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人の気持ちの両方をくみ取った妥協の末に採用された折衷案だった。しかし、正直飽きがきすぎて見ても食欲のわかなくなったミルク粥から食卓の主役がパンに代わっただけで、カールにとっては心の奥底がなにやらムズムズしてくるような喜びを感じずにはいられない。だいたい、香りのよいパンに贅沢なくらいたっぷりとバターを塗りつけるという、その何気ない日常の作業に幸福感を覚えぬ者などこの世に在るのだろうか?


 自然と頬をほころばせながらバターを塗ったザワークラウトブロートをカールは手で引きちぎり、口へと運び入れる。ただでさえ酸味のあるライ麦入りのパンに酸っぱくて塩っぱいザワークラウトが混ぜられていると聞くと、酸味の苦手な人は眉をひそめるかもしれない。だが練りこまれるザワークラウトの量はさほど多くない上に、ザワークラウトの酸味はパンを焼く際の熱で飛んでしまうので実際には思ったほど酸っぱくはならずに済む。事実、カールも酸っぱいのはあまり好きではないがザワークラウトブロートの酸味は気になるほどではなかった。

 鼻を突くほのかな酸味、次いで広がる発酵バターの豊潤な風味と甘味、練りこまれたザワークラウトのわずかな塩気、噛むごとに染み出てやがては口内を支配するパンのコク……。カールの目の前の食卓にはザワークラウトブロートの他にも人参パンカロッテンブロート玉葱パンツェーベルブロートが並んでいる。なんて豊かな食卓だろう!風味の異なるパンが三つも供されるなど、カールが貴族の公子であるからに他ならない。

 それらが朝から運動をして汗を流した直後の身体を心地よく満たしていくのを感じ、カールは御満悦だった。そんなカールをテーブルを挟んだ対面から眺めるリュウイチも思わず笑みがこぼれる。


『朝からよく食べるね。

 おいしいかい?』


 カールはハッと我に返り、リュウイチを見ると笑みを消した。その顔に少し赤みがさす。そのまま二度三度と顎を動かして口の中のパンをかみ砕くと、ゴクリと無理やり飲み込み、少し恥ずかしそうに答えた。


「はいっ、すみません!」


『いや、謝ることはないよ。

 たくさん食べることはいいことだ。

 特に君は、たくさん食べて身体を強く大きくしなきゃいけないからね。

 いっぱい食べなさい。』


 リュウイチが優しくそう語り掛けると、カールはハシタナイととがめられたわけではないことに安心したのか、ニッと頬の表情筋を大きく膨らませて「ハイッ」と答え、再びパンを食べ始める。

 カールは八歳という年齢にしては体格は大きい。体格の大きいランツクネヒト族だということを加味したとしても、十歳とか十二歳とか言われても誰も疑わないのではないかと思えるほどだ。ベッドで横になっている時間が長いので身長の伸び方が顕著なのかもしれないとリュウイチは想像していたが、それにしては骨格のバランスにおかしいところはない。

 カールはアルビノという生来の体質ゆえに日光に当たれない。それが原因と思われる病を長い間わずらっていたため、骨がもろく曲がりやすくなってはいた。実際に背骨が曲がっていたり脚の骨が変形したりしており、それはカールがベッドの上で過ごさねばならない理由の一つになっていたものの、リュウイチの治癒魔法によって既に完治している。


 だとしてもこんなに体格がいいものなんだろうか?


 ベッドの上で横たわっていたせいで背が同年代の子より高く伸びてしまうというのは何となく想像がつく。しかし骨の弱さから運動を控えねばならなかったカールの筋肉量は圧倒的に不足しており、今椅子に座っているとはいえこうして身体を起こしているだけでも辛いくらいなはずなのだ。圧倒的運動不足の状態で背だけが異常に伸びたとして、こうもバランスの良い骨格が出来るものだろうかという疑問は医者ではないリュウイチでも少し気になるところであった。


 治癒魔法でそこまで治るとは思えないしなぁ……現に筋力は弱いままだし……


 専門家でもないリュウイチにはその答は出せない。

 ジッと自分を見つめ続けるリュウイチの視線に気づいたカールは噛み応えのあるパンをモグモグとかみ砕き、ゴクリと飲み込む。


「リュウイチ様は、パンはお好きですか?」


『え!?ああ、好きだよ?』


 突然の質問に驚きながら、リュウイチも目の前のパンに手を伸ばした。カールだけが食べて自分が食べないのをカールが気にしたのかと思ったからだ。


「リュウイチ様は、どのようなパンがお好きですか?」


『どんなパン!?』


「はい、《レアル》には見たことも無いものがたくさんあると伺っております。」


『あ~~……パンの種類ねぇ……』


 リュウイチは答えに困った。日本でパンと言えば小麦から作られる白パンばかりで、ライ麦など小麦以外の穀物を原材料とするパンは存在しないわけではないがマイナーなジャンルでしかない。アンパンやジャムパン、クリームパン、メロンパンなど色々あることはあるが、トッピングの種類が豊富なだけでパン自体は所謂いわゆる白パンばかりである。そしてカールがそうしたトッピングの種類について尋ねているわけではないことは、意味を直接伝える念話で会話しているリュウイチには誤解なく理解出来ていた。


『私の国では白パンばかりだね。

 健康志向強い人はライ麦入りのパンを食べたりするけど、小麦にライ麦を混ぜて食べてるって感じだし、あとは小麦は小麦でも全粒粉を使ってみたり……』


 答えるうちにリュウイチの残念な気持ちが伝わったのか、カールが失望を隠そうとしているのが見て取れる。

 日本の食べ物は何でも世界一美味しいと思っている日本人は多いしそれは多くの分野で事実に近いのだが、すべての分野においてそうというわけでは決してない。日本の白パンは信じられないほど柔らかくておいしいと日本を訪れた外国人にも評判ではあるが、それだけだ。パンの種類の豊富さや味わいの豊かさは歴史ある欧州諸国には到底敵わないし、日本のチーズは不味いと断言してはばからない外国人は少なくない。日本人でも日本のチーズを残念に思っている美食家は存在するのだ。

 しかし、事実はどうあれ目の前の少年の期待に輝く眼差しを裏切るのはリュウイチとしても心苦しい。答えながら頭を巡らし、期待に沿えそうな答えを探す。


『あとはそうだなぁ……変わり種としては米粉で作る米粉パンとかがあるぐらいかな?』


米粉パンライスミーブロート!?」

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