第996話 ファンニとダイアウルフとバランベル

統一歴九十九年五月十日、朝 ‐ 《陶片テスタチェウス》/アルトリウシア



 農家の朝は早い。貴族ノビリタスの奴隷や使用人たちもだが、いずれも陽の昇る前に起き出し、あれやこれやと仕事を始める。そして白み始めた空の下で二時間三時間と働いてから朝食イェンタークルムる。朝食を摂ったらまた仕事……一家の主は被保護民クリエンテスとして保護民パトロヌスの家に『表敬訪問サルタティオ』に向かい、女たちは朝食の後片付けをし、洗濯だの掃除だのと家事に追われる。家電製品などという便利な物がない社会では家事は長時間にも及ぶ重労働だ。洗濯なんて大量の水を汲んでは布をつけ、重たくなったそれを叩いたりこすったりしぼったり洗い流したりとかなりな筋力も使う。一家族分の洗濯となると毎日二時間三時間かかるのもザラであり、そんな仕事に従事しているのだから二の腕も自然と鍛えられて太くなる。どの町にも並みの男より腕力に優れた女は何人かいたりするのも当然と言えるだろう。


 農家の娘、ブッカのファンニはしかし先月来ずっとそうした重労働から解放されていた。児童労働が禁じられていないこの世界ヴァーチャリアにおいて、まだ八歳といえど彼女は貧乏農家にとって重要な働き手の一人ではあり、家事に家畜の世話に畑仕事に子守にと忙しさに追われる毎日であったが、今の彼女はそうした仕事には一切手を出していない。何せ彼女は今、街でただ一人のダイアウルフの世話係なのだ。

 朝起きたら顔を洗い、外套パエヌラを着せてもらって家から送り出される。そしてダイアウルフたちの小屋にあてがわれている街の……厳密にはラウリが管理している倉庫へ向かい、ダイアウルフたちに挨拶し、鞍をつけて散歩に出かける。ちなみに小屋の掃除はその間にラウリの手下たちがやってくれるのでファンニは掃除だのフンの始末だの餌の準備だのは一切しなくていい。

 ファンニはダイアウルフの内の片方に乗り、《陶片テスタチェウス》をぐるりと囲う柵の外へ出て街を一周する。ちなみに二頭いるダイアウルフの内、どちらに乗るかは決まっていない。ファンニ自身も決めていない。その日ごとにダイアウルフが気分で決めている。どちらかといえばフッタとグートの内、グートに乗る方が多いようだ。

 ダイアウルフに乗ったファンニは街の外にある畑や牧草地で働く他の農家たちを怖がらせないよう、誰にも近づかずに済むコースを選んで街を回る。それから街へ戻って今度は郷士ドゥーチェリクハルドの屋敷ドムスに向かう。街の入り口でラウリの手下たちと合流し、柵の内側では彼らがファンニを囲うように付き従ってくれる。それは街の住民たちがダイアウルフを怖がらないようにという意味もあったが、それ以上に重要なのが住民たちがハン族への憎悪からダイアウルフやファンニを攻撃してしまわないようにすることでもあった。実際、ダイアウルフとその背に乗るファンニへ向けられる住民たちの視線は決して穏やかなものではない。恐怖、不安、憎悪、軽蔑、好奇……そうした視線に常に晒されるファンニの感情は複雑だ。


 たいして強くも無いくせに威張り散らすゴブリン兵、トラブルばかりを起こす集団、日々の面倒ごとのみならず先月はついに叛乱まで起こし、アルトリウシアの街を焼き多くの人々を殺傷して逃げ出した不届き者たちハン支援軍アウクシリア・ハン。彼らを象徴するのがダイアウルフだ。子供のような体格しか持たないハン族ゴブリン兵がヒトやホブゴブリンを中心としたレーマ軍に匹敵する戦闘力を獲得したのはダイアウルフの存在があったればこそだ。

 そのダイアウルフがハン族が去った後もなお街で大手を振って歩いているのである。住民たちからすれば面白いわけはない。そのダイアウルフの背に一般人のくせにいい気になって騎乗して目立っているブッカの少女ファンニにもヘイトが集まるのはごく自然な成り行きだったと言える。

 坊主憎けりゃ袈裟けさまで憎い……リクハルドの配下たちによってダイアウルフがファンニに預けられた経緯も、ファンニがダイアウルフに騎乗することを子爵公子アルトリウスが正式に許可したことも広く知らされていたものの、面白くないものは面白くないのである。ファンニはハン族とは何の関係もないと理性では理解していても感情では納得できないのが人間というものだからだ。

 そうした住民たちのヘイトにダイアウルフたちは敏感に反応する。ファンニが止めるから攻撃こそしないが、彼らは自分自身を守るためにもファンニを守るためにも、自分たちをにらみつける住民たちを睨み返し、時に牙をむき、時に唸って威嚇する。そのたびにファンニが叱り、なだめ、そしてラウリの手下たちが住民たちの前に立ちはだかって追い払う。おかげで今のところ大ごとになったことは一度も無い。


 しかしラウリの手下たちも街の住民であることに変わりはない。今はこうして壁となり盾となってファンニたちを守ってはくれているが、役目を終えて夜の店にでも行けば、他の住民たちと同じようにファンニやダイアウルフたちの悪口を言っているのだ。

 俺たちだって好きでやっているわけじゃない。上に言われて仕方なくやってんだ……そう言い訳しておかねば、ダイアウルフたちに向かうはずのヘイトが今度は自分たちに向けられることを彼らは知っていたからだ。

 最初はラウリの手下たちに感謝していたファンニも、人づてにそのことを聞いてからは手下たちの背中を少し冷めた目で見るようになっていた。いつしかファンニは社会から切り離されてしまったような孤独感……疎外感そがいかんを抱くようになりつつある。

 そんなファンニにも周囲に対する警戒感を解き、安心できる場所があった。


ごきげんようサルウェー、ファンニ!」


おはようございますグーテン・モーゲンレルヒの旦那様ヘル・レルヒ


 リクハルド邸ドムス・リクハルディイに到着したファンニを、リクハルドの側近パスカル・レルヒが笑顔で出迎える。

 ファンニのおかれた特殊な状況について、リクハルドはもちろん彼の配下らも心を砕いていた。セヴェリ川の南からダイアウルフの遠吠えが聞こえ、ファンニがアイゼンファウストに派遣されるようになってからは特に、リクハルドたちはもちろん、メルヒオール・フォン・アイゼンファウストとその手下たちもファンニが如何いかに役に立っているかを盛んに喧伝けんでんしてくれてはいたが、残念ながら奏効そうこうしているとは言いがたい。アルトリウシアの住民たちの中には未だに、アルトリウシア平野からダイアウルフが現れたのはファンニが預かっている二頭のダイアウルフ……フッタとグートのせいではないかとささやく者が少なからず存在した。

 それでもリクハルドたちの配慮がファンニの立場と居心地をかなり良くしてくれていることをファンニはちゃんと理解している。その中でも特にパスカルはファンニの家に直接訪れ、ファンニの家族たちにファンニがどれだけ素晴らしく役割を果たしているかを説明し、ファンニのことを褒め称えてくれても居た。おかげでファンニの家での居心地は悪いものではなくなっている。家族たちは当初、ファンニがダイアウルフに襲われたことにすら不快に思っていたのだ。しかし、自分たちが直接仕えているラウリや、ラウリと同じくらい身分の高いパスカルに娘を褒め称えられ、ファンニにお手当が貰えるようになってからというもの、家族たちのファンニへの態度は理解あるものへと変化していた。

 実際、今のファンニは一家の中で一番の稼ぎ頭になっているうえ、ダイアウルフが狩ってくれたという沼ネズミマイヨカストルの毛皮や肉を持ち帰って来てくれるようになったのだ。一家の生活はファンニとダイアウルフたちのおかげでだいぶ良くなっている。


「今日もありがとう。

 さあ、中で朝食イェンタークルムをおあがり。」


「ありがとうございます、レルヒの旦那様ヘル・レルヒ


 ファンニは出迎えてくれたパスカルに笑顔を返す。リクハルドの手下たちの中で、ファンニを最も気にかけてくれているのはパスカルだ。ダイアウルフたちもパスカルは敵ではないと理解しているのか、あからさまな好意こそ見せないものの敵意や警戒心はパスカルには向けなくなっていた。

 そのパスカルの前を通り過ぎ、リクハルドの屋敷へ入るとファンニはようやく気を緩めることが出来る。いや、本当なら街を治める郷士様の屋敷なのだからむしろ緊張するべきところなのかもしれない。しかし、いつ罵声や石を投げつけられるかわかったものではない外に比べて、そうしたことへの警戒をしなくてすむリクハルド邸はファンニにとって家に次いで安心できる場所となっていた。


 ここでファンニは朝食をいただいている。通常、農家は朝の仕事をひと段落してから朝食をいただくのだが、ファンニの場合は朝一番にダイアウルフを散歩させた後、今度はダイアウルフを連れてアイゼンファウストへ行かねばならない。朝食ために家に帰るだけの暇がないため、リクハルドの屋敷で朝食を貰えることになったのだ。郷士様の御屋敷で朝食なんて恐れ多い……ファンニの両親は最初そう言って断ろうとしていたのだが、リクハルドの屋敷でダイアウルフに一仕事させる必要があるからとパスカルに言われ、今では納得している。

 その仕事とは、ダイアウルフたちをバランベルに会わせることだった。


 ダイアウルフたちに餌を与え、ファンニ自身も朝食を摂ると、ファンニはダイアウルフをリクハルド邸の一室へ連れて行く。ハン族のゴブリン兵、隻腕せきわん隻脚せっきゃくとなった捕虜バランベルにダイアウルフを会わせるのだ。

 バランベルはレーマ帝国に弓引いたハン支援軍の兵士であり、アルトリウシアの住民たちにとって憎むべき敵である。彼自身、そうした自分の立場をよく理解しており、負傷し気を失ったまま収容されたリクハルド邸で目覚めて以来、常に不安と恐怖と苦痛にさいなまれ、彼の精神はほぼ絶望した状態にあった。それが彼の愛狼フッタと再会して以来、彼は目をみはる勢いで回復を遂げつつある。半月ほど前に切り落とされた腕と脚の傷はようやく塞がり、土気色になっていた顔色は血色を取り戻していた。ファンニがダイアウルフを連れてバランベルの部屋を訪れた時、彼とダイアウルフたちは信じられないほど幸せそうに抱き合うのだ。


 その光景をファンニはとても良いものだと感じていた。殺伐とした外の社会に疲れた彼女は、ここで繰り広げられる幸福なひと時の光景によって、最大の慰めを得るのだった。

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