第973話 峠の状況

統一歴九十九年五月十日、未明 ‐ グナエウス街道第五中継基地スタティオ・クィンタ・ウィア・グナエウシイ前/西山地ヴェストリヒバーグ



 グナエウス街道第五中継基地スタティオ・クィンタ・ウィア・グナエウシイ正門ポルタ・プラエトーリアに立っていた歩哨ほしょうは門前を走りすぎた騎兵エクィテスの存在に気づいていた。彼が立っている門から街道の反対側まで視界の届かない濃霧の中ではこうして見張りに立つ意味にすら疑問に思えてくるほどだが、この濃霧の中だからこそ彼には果たさねばならない役割が生じる。それは目の前を通り過ぎようとする早馬タベラーリウスを呼び止める役目だった。

 グナエウス峠西側の七合目から上はガスが発生しやすい。こうして濃霧によって視界が塞がれてしまうのは日常茶飯事だった。であるからこそ、霧が発生したという程度では早馬を止めるわけにはいかない。しかし、視界の利かない中で早馬を走らせると、馬を乗り継がねばならない中継基地スタティオの存在に気づかずに通り過ぎてしまうかもしれない。実際、過去にはそういったアクシデントも繰り返されていた。そこで、霧の中で馬のひづめの音が聞こえたら中継基地の歩哨は一人が街道まで出て行って声をかけ、中継基地がここにあることを騎手に教えてやることになっていた。

 馬のいななきと蹄の音に気づいた兵士はその役割を果たすべく街道まで出たのだが、しかし呼び止めようとした早馬は異常な速さで通り過ぎてしまった。


 明らかに異常事態だった。早馬はたしかに馬の全力に近い速度で走る。そして馬のスタミナが限界に達するであろうところで次の馬に乗り換える。そのためにレーマ軍の中継基地は平均的な馬の持久力が限界に達するであろう距離を開けて設けられている。だから中継基地を通り過ぎてしまうと、その次の基地に着く前に馬はヘバッてしまうことになる。次の中継基地まで進むのも、通り過ぎた中継基地へ戻るのも、体力の尽きた馬を宥めながらトボトボと……という事態になってしまうのだ。なので早馬は中継基地を見落とすようなことがあってはならない。

 だというのに、先ほどの早馬はそろそろ中継基地があるだろうというところまで来ても速度を落とさなかった。いや、そもそもこんな視界の利かない濃霧の中で出してよいような速度ではなかった。それに走りながら何か叫んでいたようでもあった。その前には銃声も聞こえていた。早馬が銃を撃つなんてそうそうあることではない。

 早馬が通り過ぎてしまったことに驚いた兵士は慌てて基地へ駆け戻り、仲間と相談してから既に寝入っていた上官を叩き起こした。酒を飲んで気持ちよく寝入っていたところを、暖かなベッドから突然引っ張り出された上官はひどく不機嫌だったが、部下の報告を聞くとたちどころに事態の緊急性を理解し、他の部下を叩き起こすと二個十人隊コントゥベルニウムの捜索隊を編成し、街道へ送り出したのだった。


 ファドが気づいたのはこの時、中継基地から送り出された捜索隊……完全装備の警察消防隊ウィギレスたちだった。ダイアウルフによる襲撃事件とその後の頻発したダイアウルフ目撃情報によって警戒態勢を整えていた彼らの出撃は極めて迅速かつ適切だったと言っていいだろう。

 もっとも、完全装備の警察消防隊が煌々こうこう松明たいまつを掲げ、ガチャガチャと装備を鳴らしながらゾロゾロ歩く様子は、ファドからすれば「見つけてください」と大声で叫びながら歩いているようなもので、警察消防隊はファドの警報を受けて急ぎ撤収した『勇者団』ブレーブスの姿はもちろん、その痕跡すら見つけることもなく事故現場に到着し、街道上で首の骨を折って横たわっている騎兵の死体とその横に転がる開封済みの通信文を見つけただけだった。

 もし彼らが山頂の方へもう少し進んだなら、もしかしたら霧の中でたたずんで自分たちの動向を確認する『勇者団』の影くらいは見つけられたかもしれなかったが、彼らはそれをしなかった。彼らは霧の中にダイアウルフらしき獣の気配を察知し、霧の中でダイアウルフに襲われた時の危険性を考え、無理せず撤収したからだった。もっとも、彼らが察知したダイアウルフらしき獣の気配の正体はダイアフルなどではなく、『勇者団』のファドが使役する黒妖犬ブラック・ドッグジェットだったのだが……。


「どうだファド、やつら追って来そうか?」


 事故現場から百メートルほど離れたところで一旦停止したティフはジェットを偵察に出したファドに尋ねた。その声に警戒や不安はない。ティフもこのような濃霧の中で、人里離れた中継基地ステーションに配置されたレーマ軍部隊がわざわざ追って来るとは考えていないのだ。


「いえ、どうやら彼らも撤収の準備を始めているようです。」


 戻ってきたジェットの頭を両手で撫でまわしながらファドが答えると、ティフは「だろうな」と小さく笑いながら答えた。


「なんだよティフ、何か知ってるのか?」


 ここの所不振続きだったティフの自信に満ちた態度に疑問を覚えたペトミーが尋ねると、ティフはそれには応えず小さくニヤリと笑っただけでファドに続けて尋ねる。


「ジェットの姿は見せたんだよな?」


「見たかどうかはわかりませんが、ジェットが居ることには気づいたはずです。」


「ティフ、あいつらがジェットにビビッて追ってこないってのか?」


 ティフに対するファドの答えからレーマ軍が追ってこない理由にアタリをつけたペトミーが顔をしかめて尋ねなおすと、ティフは今度こそペトミーの方を振り返った。


「違うさ。」


 その場にいた全員がティフに注目する。全体を見回して全員の視線が集まっているのを確認したティフは種明かしをする手品師のように説明を始めた。


レーマ軍あいつ等が恐れているのはダイアウルフだ。

 アイツら、ジェットをダイアウルフだと勘違いしたのさ。

 いや、こっちがわざとダイアウルフだと勘違いさせたんだけどな。」


「「「「ダイアウルフ?」」」」


 ティフとソファーキングを除く四人が一斉にその聞きなれない言葉を口に出して確認すると、ティフは胸を張った。


「そうだ、知ってるだろ?

 オオカミの仲間で世界最大のオオカミだ。

 理由は分らないがどうやら街道沿いにダイアウルフが出没するらしい。」


「ダイアウルフが!?」

「知ってる、たしか人が乗れるくらい大きいんだ。」

「じゃあ、ちょうどジェットくらいか?」


 全員がファドの傍らに佇むジェットに注目すると、ジェットはヘッヘッと息を弾ませながら尻尾を振った。しかし、彼らがジェットに注目していたのもほんの一瞬で、すぐにダイアウルフについての話で盛り上がる。


「犬型の魔獣モンスターを除けばダイアウルフは最強のオオカミだぜ!?」

「ダイアウルフに乗るゴブリンが居るって聞いたことがある。

 たしか、レーマ軍も寄せ付けないくらい強いって。」

「あれってレーマ大陸中部のハンニア高地の生き物だろ!?

 こんなところにいるのか!?」


 ダイアウルフは最大の狼として有名だが、その生息地域はそれほど広くない。南北レーマ大陸のほぼ中間地域の高地に分布する狼だ。ペトミーが知る限り、それ以外の地域で野生のダイアウルフが生息しているなどという話は無いはずだった。


「それが居るらしいんだ。

 さっきの騎兵が持ってた手紙をソファーキングが見つけたんだが……あ、あれ!?」


 ティフは撤収前までは確かに持っていたレーマ軍の暗号文を取り出そうとし、いつの間にか無くなっていたことにようやく気付いた。ひょっとしてソファーキングが持ってるのかとソファーキングの方を見るが、身に覚えのないソファーキングは目を丸め、両手を広げて首をすくめて持ってないアピールをする。それを見てティフは右手をペシッと叩きつけるように自らの額に当て、霧の向こうの事故現場を見た。今から取りに戻ったとしても、もうレーマ軍に死体ごと回収された後だろう。


 やっちまった……


「なんだ、どうかしたのかティフ?」


 一人愕然とするティフに事情の分からないペトミーが尋ねると、ティフは残念そうに説明した。

 

「いや、さっきの騎兵がレーマ軍の通信文を持ってたんだ。

 それによるとここ数日、この街道でダイアウルフが炭火焼き職人や荷馬車を襲って被害が出ているらしい。」


「そうなのか?」


 ペトミーがいぶかし気にソファーキングに尋ねると、ソファーキングは今度は首肯した。


「はい、私も見ました。

 簡単な暗号で書かれていましたが、すぐに解読できました。」


「それで、ダイアウルフを恐れてレーマ軍は積極的に出てこないってことか?」


 たかが野生動物を恐れるなど軍隊としては情けない気もするが、それが本当ならレーマ軍が『勇者団』を追ってこなかったという理由にはなる。するとレーマ軍の捜索や追跡の恐れがないことを知ったデファーグが表情を明るくして提案した。


「それは都合がいい。

 急いでシュバルツゼーブルグへ戻ろう!」

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