第973話 峠の状況
統一歴九十九年五月十日、未明 ‐
グナエウス峠西側の七合目から上は
馬の
明らかに異常事態だった。早馬はたしかに馬の全力に近い速度で走る。そして馬のスタミナが限界に達するであろうところで次の馬に乗り換える。そのためにレーマ軍の中継基地は平均的な馬の持久力が限界に達するであろう距離を開けて設けられている。だから中継基地を通り過ぎてしまうと、その次の基地に着く前に馬はヘバッてしまうことになる。次の中継基地まで進むのも、通り過ぎた中継基地へ戻るのも、体力の尽きた馬を宥めながらトボトボと……という事態になってしまうのだ。なので早馬は中継基地を見落とすようなことがあってはならない。
だというのに、先ほどの早馬はそろそろ中継基地があるだろうというところまで来ても速度を落とさなかった。いや、そもそもこんな視界の利かない濃霧の中で出してよいような速度ではなかった。それに走りながら何か叫んでいたようでもあった。その前には銃声も聞こえていた。早馬が銃を撃つなんてそうそうあることではない。
早馬が通り過ぎてしまったことに驚いた兵士は慌てて基地へ駆け戻り、仲間と相談してから既に寝入っていた上官を叩き起こした。酒を飲んで気持ちよく寝入っていたところを、暖かなベッドから突然引っ張り出された上官はひどく不機嫌だったが、部下の報告を聞くとたちどころに事態の緊急性を理解し、他の部下を叩き起こすと二個
ファドが気づいたのはこの時、中継基地から送り出された捜索隊……完全装備の
もっとも、完全装備の警察消防隊が
もし彼らが山頂の方へもう少し進んだなら、もしかしたら霧の中で
「どうだファド、やつら追って来そうか?」
事故現場から百メートルほど離れたところで一旦停止したティフはジェットを偵察に出したファドに尋ねた。その声に警戒や不安はない。ティフもこのような濃霧の中で、人里離れた
「いえ、どうやら彼らも撤収の準備を始めているようです。」
戻ってきたジェットの頭を両手で撫でまわしながらファドが答えると、ティフは「だろうな」と小さく笑いながら答えた。
「なんだよティフ、何か知ってるのか?」
ここの所不振続きだったティフの自信に満ちた態度に疑問を覚えたペトミーが尋ねると、ティフはそれには応えず小さくニヤリと笑っただけでファドに続けて尋ねる。
「ジェットの姿は見せたんだよな?」
「見たかどうかはわかりませんが、ジェットが居ることには気づいたはずです。」
「ティフ、あいつらがジェットにビビッて追ってこないってのか?」
ティフに対するファドの答えからレーマ軍が追ってこない理由にアタリをつけたペトミーが顔を
「違うさ。」
その場にいた全員がティフに注目する。全体を見回して全員の視線が集まっているのを確認したティフは種明かしをする手品師のように説明を始めた。
「
アイツら、ジェットをダイアウルフだと勘違いしたのさ。
いや、こっちがわざとダイアウルフだと勘違いさせたんだけどな。」
「「「「ダイアウルフ?」」」」
ティフとソファーキングを除く四人が一斉にその聞きなれない言葉を口に出して確認すると、ティフは胸を張った。
「そうだ、知ってるだろ?
オオカミの仲間で世界最大のオオカミだ。
理由は分らないがどうやら街道沿いにダイアウルフが出没するらしい。」
「ダイアウルフが!?」
「知ってる、たしか人が乗れるくらい大きいんだ。」
「じゃあ、ちょうどジェットくらいか?」
全員がファドの傍らに佇むジェットに注目すると、ジェットはヘッヘッと息を弾ませながら尻尾を振った。しかし、彼らがジェットに注目していたのもほんの一瞬で、すぐにダイアウルフについての話で盛り上がる。
「犬型の
「ダイアウルフに乗るゴブリンが居るって聞いたことがある。
たしか、レーマ軍も寄せ付けないくらい強いって。」
「あれってレーマ大陸中部のハンニア高地の生き物だろ!?
こんなところにいるのか!?」
ダイアウルフは最大の狼として有名だが、その生息地域はそれほど広くない。南北レーマ大陸のほぼ中間地域の高地に分布する狼だ。ペトミーが知る限り、それ以外の地域で野生のダイアウルフが生息しているなどという話は無いはずだった。
「それが居るらしいんだ。
さっきの騎兵が持ってた手紙をソファーキングが見つけたんだが……あ、あれ!?」
ティフは撤収前までは確かに持っていたレーマ軍の暗号文を取り出そうとし、いつの間にか無くなっていたことにようやく気付いた。ひょっとしてソファーキングが持ってるのかとソファーキングの方を見るが、身に覚えのないソファーキングは目を丸め、両手を広げて首を
やっちまった……
「なんだ、どうかしたのかティフ?」
一人愕然とするティフに事情の分からないペトミーが尋ねると、ティフは残念そうに説明した。
「いや、さっきの騎兵がレーマ軍の通信文を持ってたんだ。
それによるとここ数日、この街道でダイアウルフが炭火焼き職人や荷馬車を襲って被害が出ているらしい。」
「そうなのか?」
ペトミーが
「はい、私も見ました。
簡単な暗号で書かれていましたが、すぐに解読できました。」
「それで、ダイアウルフを恐れてレーマ軍は積極的に出てこないってことか?」
たかが野生動物を恐れるなど軍隊としては情けない気もするが、それが本当ならレーマ軍が『勇者団』を追ってこなかったという理由にはなる。するとレーマ軍の捜索や追跡の恐れがないことを知ったデファーグが表情を明るくして提案した。
「それは都合がいい。
急いでシュバルツゼーブルグへ戻ろう!」
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