第961話 襲撃者
統一歴九十九年五月十日、未明 ‐ グナエウス峠/
アルビオン島西岸北端部に位置するアルトリウシアは普段、滅多に晴れない。止むことの無い偏西風が
そのような曇りがちな気候の元凶となっている暖流の上を通過する偏西風だが、偏西風に含まれた水蒸気を凝結させて雲に変えているのはアルトリウシアの東側にそびえる
ティフたち一行は尾根を越えて西斜面に到達した途端に濃霧に見舞われたことについて運が悪かったとかタイミングが良くなかったとか考えていたが、実際はグナエウス峠頂上付近のアルトリウシア側はほぼ毎日このような環境だったのである。このためアルトリウシアでは「
しかし、それほど霧が当たり前になっているとはいえ、地元の人間が霧の存在を無視してしまえるわけではない。霧の影響を受けずに生活できる人間など、まず居ないと言っていいだろう。視界を奪われれば方向感覚を失い、精神的に不安定に陥ることは珍しくは無かったし、仮に普段から視覚に頼らず生活している全盲の人間であったとしても、その湿気から無関係でいられるわけではないのだ。濃霧の齎す湿気は全ての物を重く湿らせ、濡らし、そして気化熱によって熱を奪っていくからだ。また、時に濃密な霧は音を吸収し、不規則に反響させることもある。霧は全ての人間の感覚を狂わせる危険な存在でもあるのだ。
そのような霧に日常的に閉ざされるグナエウス峠西側の頂上付近は普段から難所として認識されており、街道を通過する
しかし、この深夜の濃霧の中をあえて選んで行動しようとしている者が居た。彼らには視野を塞がれてなお、行動できるだけの優れた聴覚と嗅覚があったからだ。
ハン支援軍の騎兵隊長ドナート率いる特別任務部隊はグナエウス街道において、陸上での通商破壊作戦とでも呼ぶべき作戦を展開していた。
アルトリウシアとライムント地方を繋ぐ唯一の街道であるグナエウス街道でダイアウルフを出没させ、その交通を圧迫すればレーマ軍は対応せざるを得ない。アルトリウシアの復興とアイゼンファウスト地区の防衛に戦力を集中しているレーマ軍がグナエウス街道へも兵力を抽出せざりをえなくなれば、耐えがたい負担に感じることだろう。これによって脱走したことになっているダイアウルフに対するレーマ軍内での脅威度の評価を高め、ダイアウルフの捜索と回収の名目でハン支援軍びアルトリウシア平野での活動の自由を認めさせることが彼らの作戦の目的である。
ドナートは部下と共に西山地へ潜入した初日から、山中で発見した炭焼き職人たちのキャンプを襲撃し、翌朝には街道を走行していた八頭立ての重馬車の襲撃も成功させていた。わずか四人のゴブリン騎兵と五頭のダイアウルフがたった一日で挙げた戦果としてはかなりの大戦果だったと言っていいだろう。ところがその後はずっと鳴かず飛ばずで戦果らしい戦果は全く挙げることが出来なかった。
八頭立ての重馬車を撃破したその日の内から急にグナエウス街道の馬車の往来が無くなり、翌日から再開したと思ったら馬車はいずれも一塊になって移動するようになったうえ、その馬車の集団にはイチイチ護衛部隊が張り付くようになっていたのである。おまけに騎兵による哨戒部隊がひっきりなしにパトロールをするようになり、ドナートたちは馬車を襲撃する機会そのものを失うこととなったのだ。
時折、ダイアウルフにわざと姿を見せて馬車に並走させ、襲撃の素振りを見せて圧迫したりはしているが、すぐにレーマ軍部隊が駆け付けて撤退を余儀なくされてしまう。ドナートが指揮するたった五頭のダイアウルフは、ハン支援軍にとって一頭たりとも傷つけることの許されない貴重な戦力だ。たとえ相手がたった一騎のレーマ騎兵であったとしても、万が一にもダイアウルフが鉄砲で撃たれるわけにはいかない以上、レーマ軍の姿が見え次第撤退しなければならない。
既に戦果は挙げている。八頭立ての重馬車一台と炭焼き職人の一団だ。それに作戦目的通りレーマ軍部隊をグナエウス街道へ誘引するという目標も達成したのだ。このまま作戦を終了し撤退したとしても、ドナートたちは称賛されこそすれ叱責を受けることなどあり得ないだろう。だがドナートたちは更なる戦果を求めた。
理由は初日に大戦果を挙げてしまったこと、そしてその後に戦果をまったく挙げられなくなったことである。
ドナートたちは自分たちの戦力からすればかなり大きな戦果を初っ端に挙げてしまった。しかもあまりにも呆気なく、簡単に……。誰でもそうだが最初期の段階で大きな成果を挙げるとどうしても感覚が狂ってしまう。それが当たり前だと思えてしまい、目標に対する評価の基準がおかしくなってしまうのだ。決して当たり前ではない大戦果が普通になってしまい、普通の戦果が取るに足らないもののように思えてきてしまう。
おかげでドナートたちは撤退のタイミングを逸してしまった。本来なら八頭立ての重馬車襲撃を成功させ、翌日にはレーマ軍が防備を固めたことを確認した時点で撤退してしまえばよかったのだ。だがあまりにも簡単に重馬車襲撃を成功させ、あまりにも簡単にレーマ軍が出張って来てしまったために、ここで撤退して良いかどうかという判断の基準が狂ってしまった。
馬車の襲撃を成功させ、レーマ軍が街道全域で警戒態勢を敷いた……その時点で作戦の目標は達成しているが、それがあまりにも簡単にできてしまったせいでそれが本当に目標を達成してしまえたのかどうかという評価に疑問が生じてしまったのだ。
果たして本当にこれでいいのか?
ここで撤退したら、あの警備もすぐに解かれて何もなかったことになってしまうんじゃないのか?
レーマ軍を誘引できたことは作戦の目標でもあったのだからよいことだ。ダイアウルフによる再度の襲撃が困難になるほどなのだから文句のつけようがない。しかし、ドナートたちが撤退することでレーマ軍も警戒態勢を解いてしまったら、せっかく西山地くんだりまで出てきてゲリラ作戦を展開した意味が無くなってしまう。
レーマ軍にはこのまま西山地で無意味な警戒態勢を維持し続けてもらい、それを堪えがたい負担だと感じてもらわなければならないのだ。それによってハン支援軍に「脱走したダイアウルフを捜索し、回収してくれ」と依頼させねばならないのだ。
あまりにも簡単に成功を引き出してしまったがために、その成功が本物なのかどうかに疑問を抱いてしまったドナートは、結局作戦を続行することにしてしまった。もし仮にドナートたちが撤退し、それを察知したレーマ軍も警戒態勢を解いてしまったらドナートたちは再びグナエウス街道でゲリラ戦を展開しなければならなくなるだろう。しかし今は五月……冬になって雪が降り始めれば、西山地西側は積雪で閉ざされ、いかなる活動も不可能になってしまう。ゆえに、活動できる間はここで作戦を続行せねばならない。
可能な限りレーマ軍に損害を与え、出血を強要し、ダイアウルフに対する脅威度を高めるだけ高め、レーマ軍をしてハン支援軍へ救援を求めざるを得なくさせねばならない。
そうした判断のもと、今夜も街道上で襲撃の準備を整え獲物を探し続けていた。
日中はもう警備が厳しすぎて襲撃の機会そのものが得られない。だったら夜中……それも常に霧で覆われてレーマ軍が作戦を展開したくても出来ない山頂付近であれば、何がしかの戦果を挙げることが出来るだろう。もはや襲撃対象は馬車でなくてもいい。早馬でも襲われたとなれば、レーマ軍にとって痛手になるはずだ。
星明りも届かぬ真っ暗な霧の中、ドナートの愛狼テングルが耳をピクリと動かし、街道上へ視線を向ける。視界の通らぬ霧の彼方に、何か獲物の気配を見出したのだ。
「獲物か、テングル?」
囁くドナートにテングルはフンッと鼻を鳴らし、ゆっくりと尻尾を揺らす。ドナートは不敵に笑い、近くにいる部下たちに向かって手ぶりを交えて襲撃準備の合図を出す。
「よし、いいぞ……狩りの時間だ。」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます