ターゲット・ロスト

第959話 遭難寸前

統一歴九十九年五月十日、未明 ‐ グナエウス峠/西山地ヴェストリヒバーグ



 山の天気は変わりやすい。山で生活する者にとってはそれはもう当たり前すぎて気にもならないことであり、山で生活しているわけではないが山に慣れている者にとっては山での活動で最も障害となる嫌なことであり、山に縁もゆかりもない者にとっては驚嘆の対象であろう。ティフ・ブルーボール二世、ペトミー・フーマン二世、そして彼らの従者ファドにとって、西側の尾根へ出た途端に急変した天候はただただ驚くほかなく、視界を奪う濃密なガスと音も無く振り続ける霧雨、そして冷たい風は寒さへの対策も不十分だった彼らを容赦なく責めたてた。


「くそぅ、何だコレ!?」


 徒歩で岩山を越え、尾根の西側斜面を降りてグナエウス街道へと戻った途端、三人はあまりにも急激に発生したガスに視界を奪われた。ガスに含まれる水滴は彼らの身体にまとわりついて肌の露出した顔や手、そして身にまとった衣類を重く冷たく濡らす。さらにもとより止むことなく吹き続けていた冷たい西風が、彼らから体温を奪っていく。

 優れた魔力によって身体を強化していたハーフエルフの二人は尾根の東側斜面に居た頃はまだ刺すような風の冷たさにも堪えることができていたが、さすがに水に濡れた状態で気化熱で体温を奪われたのではたまらない。街道へ出てまだ十分と経っていないにも関わらず、既に顔面蒼白、唇も真っ青になり、歯がガチガチと勝手に鳴りだす始末だ。外套をしっかりと両手で握りしめて固くくるまって身を縮めているのに、かじかむような凍えがどうにも収まらない。

 ティフとペトミーの二人は寒さを誤魔化すためか、自分たちが今誰にも見つからないように移動しているんだということも忘れて、大きめの声で取り留めも無い会話を続ける。


「寒ぃ!まるで氷結地獄コキュートスだ。」

「あんなの物語の中だけだろ?行ったことあるのかよ!?」

「ないけど、多分実在したらこんな風だぞ!

 ママのダンジョンより寒いだろ!?」

「ママのダンジョンは寒く無いだろ!?

 あれは“涼しい”っていうのさ!」

「ママのダンジョンが寒いって言ったんじゃないぞ!?

 ここはママのダンジョンより寒いって言ったんだ!」

「分かってるさ!

 比べるのがおかしいって言ったんだ。」

「おかしくないだろ!?

 ダンジョンに入る時は冬服を用意してるじゃないか!」

「そりゃ急に涼しいところに入ると身体が温度の変化について行けないからさ!

 慣れたら夏の恰好でも活動できるだろ!?」

「そんなことしてるのスモルとティフお前だけだろ!?」

「スワッグもするぞ!?

 あとスタフもだ!

 前衛は身体を動かすから、寒さには強いんだ。」

「てことはデファーグの奴もか!?」

「多分そうさ。

 身軽な方が戦いやすいし。」

「俺はこんな寒いところじゃ無理だ。

 身体が動かねぇよ!

 俺のモンスターたちだって満足に動けねぇぞきっと!

 てか出してやりたくない。カワイソウすぎる。」

「この程度でダメだったら冬はどうすんだよ!?

 これからドンドン寒くなるんだぞ!?」

「これよりもっと寒くなるのかよ!

 五月だぞ!?」

「ペトミー忘れたのか!?

 ここは南半球だから季節が逆なんだぞ?」

「そ、そうだけど、北なら十二月くらいだろ!?

 もう冬なんじゃないのかよ?」

「いや、五月だから六足して、十一月くらいさ。

 今は秋で、冬はこれからってとこだ。」

「なんてこった、じゃあもっと寒くなるのか……」

「そりゃそうさ!

 だってまだ雪とか降ってないし!

 雨だし!……いや、霧かコレ!?」

「雪……マジか、じゃあホントにもっと寒くなるってのか!?」

「きっとそうさ!

 地面だって濡れてるけど凍ってないだろ!?

 ここは冬は雪が積もりすぎて、通れなくなるって街で聞いたぜ!?」


 ファドはハーフエルフの二人ほど魔力に優れていたわけではないため、身体強化の度合いもどうしても劣ってしまう。が、そうであるがゆえに防寒対策が二人より充実していたし、箱入りのハーフエルフ二人と違って貧民街で育った彼は元から我慢強い傾向にあった。今回の天候の変化はさすがに想定を越えてはいたが、それでも二人のハーフエルフよりはまだ状況はマシに見える。


「ファドはさすがだな。

 こんな時でも平気に見える。」

「当たり前だろ、ファドだぞ!?」


 ティフとペトミーは振り返り、後ろを付いてきたファドに関心を移した。寒さの話をしていたらホントに寒くてたまらなくなってくる。自分たちより平気そうなファドに話を移すことで、この寒さを凌ぐ方法が見つかるなら儲けものだ。

 二人が振り返ったことに気づいたファドは、しかしサッと顔色を変えた。


「お待ちを!」


 ファドが突然あげた緊迫した声に二人は脚を止めた。


「何だ!?」

「どうかしたのかファド?」


 元々ペトミーはファドに全幅の信頼を置いていたし、ティフもペトミーほどではないにしろファドの能力は高く評価していた。その評価はムセイオンを脱走してからというもの、ティフの中で鰻上うなぎのぼりになっている。ファドがこれだけ切迫した声をあげているということはよほどのことに気づいたに違いない。


「お二人とも、道路の右へ寄りましょう。

 気づかぬ間に、左へ寄っていたようです。」


 ファドに言われ二人は改めて目を凝らし、周囲を見回した。気づけば三人は街道の左端へ寄っていた。グナエウス街道の左側(南側)は崖になっており、転落防止のための欄干らんかんのようなものは無い。街道が開通した当初は石積みの欄干があったのだが現在ではなくなっている。何故なら石材を積んで欄干を作っても、高さ数メートルまで積もる豪雪の斜面を滑り落ちようとする圧力に負けて意外と簡単に壊れてしまうからだ。そして毎年修理するくらいならいっそ……と、現在では完全に撤去されてしまったのだった。

 夜の暗さは暗視魔法で見通すことが出来ても、さすがに濃密な霧を見通す魔法やスキルは誰も持っていない。視界はざっと五メートル……街道の端に立てば反対側が見えなくなるくらいの濃霧である。土地勘も無い場所で視界を奪われたまま歩き続けた三人は知らぬ間に崖っぷちへ近づき、今にも落ちる寸前になっていた。


「おおぅ……」


 ティフとペトミーはいつの間にか自分の足元で口を開けていた底の見えない崖を見下ろし、小さく声を漏らし、ゴクリと唾を飲みこむ。


 危なかった……

 ファドが止めてくれなけりゃ、間違いなく落ちてた……


 その時、一段と強い風が崖下から吹き上げ、二人は思わず後ずさった。その際、ペトミーは濡れた石畳に脚を滑らせ、尻もちをついてしまう。


「うわっ、あっ?!痛っ!」


 ペトミーの体格の割にペシャッという濡れた音が軽く聞こえるのは、実際にペトミーの体重が軽いからである。ハーフエルフは身長こそ高いが体つきは一般に華奢きゃしゃで、体重は驚くほど軽い。これはマッチョに見えるスモル・ソイボーイ二世やデファーグ・エッジロード二世も同じだった。


「おい!?」

「大丈夫ですかペトミー様!?」


 ファドが駆け寄るとペトミーは苦笑いを浮かべながらファドの差し伸べる手を押しのけた。これは別にペトミーがファドのことを拒絶しているからではなく、つまらないことで助けて貰う事に対してカッコ悪いという感情を抱いているからである。


「ああ、ありがとう。大丈夫だ。」


 派手に尻もちをついたように見えるのに本当に大丈夫そうなのは、実際にそれほど大したダメージを受けていないからであろう。体重の軽いハーフエルフは、その体重の軽さゆえにヒトに比べこういう時に怪我しにくく、また怪我したとしても軽傷で済むことが多かった。


「お怪我がないなら何よりです。

 どうかお気を付けください。」


 起き上がるペトミーにかけるファドの声が申し訳なさそうに聞こえるのは、実際に後ろめたいものを感じているからだった。本来の彼ならばティフとペトミーが危険な崖っぷちにここまで近づく前に気づき、事前に声をかけていたはずだった。なのにそれが出来なかったのは、彼もまた前を見て歩いていなかったからである。この急激な天候の変化と寒さにやられていたのは結局ファドも同じだったのだ。

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