無法者たち

第948話 ひと段落

統一歴九十九年五月十日、未明 ‐ ブルグトアドルフ近郊/アルビオンニウム



 ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ・・・・


 真夜中の森の静寂に似つかわしくない男たちの荒い息遣いきづかいが次第に迫り、不用心にも落ち葉の影から姿を現した野ネズミに狙いを定めていたフクロウは、目をパチクリさせながら首を回転させ、今まさに枝から飛び掛かろうと膨らませていた身体を元の状態に戻した。すんでのところで狩りの邪魔をしてくれた人間たちの一団は、ゆるやかな尾根まで来るとそれまでの足取りを減速させ、よりにもよって梟の止まっている枝の樹のすぐ近くで立ち止まり、呼吸を整え始める。


「う~えっ、ゲヘッ、ヘッ……ハァ……ハァ……」

「これ以上、もう、走れねぇ……」

「ダメだ……もう、限界だぁ……」


 男たちは許しでも求めるように、しかし誰に言うでもなく訴える。森の中というのは実際、かなり走りにくい。地面には木の枝が縦横に張り巡らされているし、おまけに地面は柔らかい腐葉土で踏み付け体重をかけると簡単に沈み込んでしまう。雨が降った後ならズルッと滑って脚をとられることもある。そんな中を走ろうとすればどうしても太腿を高く上げなければならない。しかも脚を木の根や枝などに引っ掛けないよう、一度地面からまっすぐ引き抜くように脚を上げてから前に出さねばなら、ちょうど腿揚げをしながら走るようなものだ。このため普通の平地を走るよりずっと体力を消耗してしまう。

 だったら木の根を踏んで走ればいい……とは、山に入った子供なら誰でも一度は思うことだ。地面から浮き上がった木の根を踏めば脚が沈み込むこともないし、他の木の根に脚をひっかけることもない。だがそのアイディアは一度でも試みればすぐにダメだと気づくだろう。いや、試すまでも無くダメだと気づく者の方が多いかもしれない。木の根は丸く、しかも表面は苔に覆われていて滑りやすいのだ。そんなものを足場に選んで走れなど、無茶以外の何物でもない。着地の瞬間、バナナの皮でも踏んだみたいにズルッと脚を滑らせて派手にスッ転んでしまうのは目に見えている。

 そして彼らは盗賊だ。苔に覆われた木の根を踏めば、どうしたところで目立つ足跡を残すことになってしまう。追手に手がかりを残すようなやり方などできるわけもない。実際、彼らはここまで、木の根はもちろんうっかり木の枝を踏んでパキッと派手な足音を立てるようなことさえ避けながら走り続けていたくらいなのだ。

 そして、そうだからこそ余計に彼らは異常なくらいに体力を消耗してもいた。気を失ったままのエイー・ルメオをかついでいた盗賊は誰に断るでもなくその場にエイーの身体を降ろし、自らも地面にへたりこんだ。その男をクレーエが叱り飛ばす。


「おいエンテ!」


 全員がそれでも立ったまま呼吸を整えている中、ただ一人地面に尻をついて両足を投げ出し、両手を後ろについて無様ぶざまを晒していたエンテは鬱陶うっとうしそうな視線をクレーエに返した。


「そんな風に座るな!

 あと、ルメオの旦那ヘル・ルメオを投げだすんじゃねえよ。

 敵が追い付いてきても、それじゃすぐに逃げ出せねぇだろうが!?」


 気絶していたエイーを拾い上げた時は他の誰かと一緒に担ぎあげたものの、途中から走りやすさを優先して一人でエイーを担いで走ることになったエンテは他の誰よりも疲れている。

 だが盗賊たちはクレーエではなくそのエンテに視線を向けた。エンテへの同情よりも、クレーエの言い分への同意の方が彼らの中ではまさっているのだ。それもそうだろう。クレーエの言っていることは山林を駆けまわってをする盗賊たちにとっては常識と言えることだったし、ここ数日の修羅場を潜り抜けてクレーエの下へ残った盗賊たちはそれなりのベテランぞろいである。そして何よりもクレーエの言い分に説得力を持たせていたのは、クレーエが最初からここまでずっと一人でペイトウィン・ホエールキングの身体を担ぎ、走り続けてきていたからだった。彼らは実は背の高いペイトウィンが小柄なエイーよりもずっと軽いという事実をまだ知らない。

 何か言いかけたエンテだったが、クレーエが今でも自分が担いできたエイーよりずっと大柄なペイトウィンを担ぎ続けていること、そして周囲の盗賊たちもクレーエが自分に向けるのと同じ視線を向けていることに気づくと不満げに表情を歪め、息を飲んで背後に両手をつくのをやめ、胡坐あぐらをかいて上体を前屈みにし、チラチラと反抗的な視線をクレーエに送る。口には出さないが不服があるのだろう。

 いいから立て……クレーエがそう言おうとした瞬間、クレーエに担がれていたペイトウィンから間抜けな指示が飛んだ。


「おい、クレーエお前はまず俺を降ろせ!」


 せっかくビシッと手下どもをしつけようとしていたクレーエだったが、クレーエもエンテ以外の盗賊たちもバツが悪そうに顔を歪めた。


「いつまで俺を担いでいる気だ!?

 敵との距離が開いたんならもう良いだろ!

 これ以上俺に無礼を働くと許さないぞ!?」


「ああハイッ、今降ろします。

 今降ろしますからっ!」


 肩の上でジタバタと暴れ出したペイトウィンをなだめながら、クレーエは肩に担いでいた少年を地面に降ろした。その声に先ほどまでの威厳など欠片も残っていなかったが、それでも「いいから立て」と言外に命じながらエンテへ向ける視線は鋭い。エンテはしょうがないとばかりに、口を尖らせながら立ち上がり、自分の尻を両手で払う。

 クレーエはペイトウィンを降ろすと、手下どもに指示を出した。


「お前ら、そこらから棒を拾ってこい。

 なるべく長い奴を二本だ。

 ルメオの旦那ヘル・ルメオを運ぶ担架を作れ。

 誰か外套か何か余ってないか?

 あればソイツを使おう。

 無けりゃロープ代わりになりそうなつるでも取ってこい。

 時間はねぇぞ? 見ての通り敵は化け物だ。

 レーマ軍どころじゃねぇ。

 隠れてりゃ済むってもんじゃねえんだ。」


 ペイトウィンは自分を担いで逃げて来たクレーエに文句の一つも言ってやるつもりだったが、ペイトウィンが地に足をつけて姿勢を整える前に盗賊たちに指示を出し始めたのでタイミングをいっしてしまう。それがエイーを助けるための指示となれば、さすがに邪魔するわけにもいかない。ペイトウィンもその程度の配慮ぐらいは出来るのだ。

 盗賊たちは皆が皆、何か言いたそうな顔をしていたがそれでもクレーエからの指示を受け取ると黙って森へ散っていった。真っ暗な中ではあるが、暗視魔法の効果で作業に支障はない。盗賊たちが離れていくのを尻目に、ペイトウィンは地面に横たえられたエイーの枕元にしゃがみ込み、様子を伺う。


ホエールキングの旦那ヘル・ホエールキンルメオの旦那ヘル・ルメオは「その『ヘッ』っていう奴」……!?」


 未だ目を覚まさないエイーの容態を相談しようと背後から声をかけてきたクレーエの言葉を、ペイトウィンは途中でさえぎった。


「ヘ!?」


「その『ヘッ』って言うのは、お前たちの間での敬称みたいなものなのか?」


 英語のMisterミスターに該当するドイツ語のHerrヘルが、ペイトウィンの耳には語尾が聞き取れずに「ヘッ」に聞こえるらしい。語尾が寸詰まりになって聞き取りにくいアルビオンニアなまりのせいだろう。話をはぐらかされたクレーエは自分の訛りを恥じるように片手で後頭部をボリボリ書きながら、語尾の「rr」の発音を強調しながら説明する。


「ヘ、へい……『ヘッ』じゃなくて、『ヘル』です。

 ラテン語のDominusドミヌスみたいなモンでさぁ。」


 ペトミー・フーマンには「ヘルHerr」が英語の「ハーHer」に聞こえたらしいし、どうにも言葉の発音というのは難しい。いや、そもそもラテン語で会話している時に敬称だけドイツ語のヘルを用いていた彼がおかしいように思えるが、ランツクネヒト族の間ではラテン語で話している時でも敬称だけはドイツ語のままで話すのが割と当たり前になっていた。特にランツクネヒト族の多いアルビオンニアでは、民族意識の高まりからそうした傾向が一般になっている。しかし、そのような事情など『勇者団』ブレーブスの面々にとっては知る由もない。ましてペイトウィンはアルビオンニアに来てから現地人NPCとの会話なんてほとんどしてこなかったのだから猶更なおさらである。


「ふーん」


「あの……それで、ルメオの旦那ヘル・ルメオの様子は、いかがなモンでしょ?」


 エイーを見下ろしたまま立ち上がったペイトウィンに、クレーエはゴマでもするように首を上体ごと傾げながら尋ねる。


「大丈夫、気を失っているだけだ。

 ダメージはポーションで回復しているから、目が覚めるまでこのままでいい。」


 適当な木の枝を見つけた者、何も見つけられなかった者……ポツポツと戻ってきた盗賊たちが遠巻きに様子を伺う中、ペイトウィンはクレーエの方を振り返った。


「お前の働きは見事だった。

 俺への無礼は少し目に余るものがあったが、不問にしてやろう。」

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