第917話 迎え

統一歴九十九年五月九日、深夜 ‐ ブルグトアドルフ近郊/アルビオンニウム



「な、何かいるって……」


 いつものエイーならペイトウィンのそんな弱気な言葉など、どうせ俺のことビビらせようとしてんでしょっとばかりに鼻で笑ったかもしれない。だがここはブルグトアドルフからさほど離れていない森の中……そう、あの《森の精霊ドライアド》の領域テリトリーからそれほど離れていない場所なのである。ナイスとエイーを追いまわした《樹の精霊トレント》や《藤人形ウィッカーマン》などが出没してもおかしくはないのだ。

 そうした恐ろしい精霊エレメンタルたちが出現してもおかしくない場所で『勇者団』ブレーブスで最強の魔法使いペイトウィンがこれほど警戒しているのだ。エイーがすくみあがったとしても、誰もそれを責めることなどできはすまい。


「お待ちしておりましたよ、。」


 エイーの位置からはペイトウィンと彼が曳いている馬たちが邪魔で見えないが、前方から聞き覚えのない声が響いた。太く、低い男の声だが、まるで声楽家が歌っているかのようによく通るその声は明らかに喜色ばんでいた。


「いやぁ~、ようやく追いつくことが出来ました。

 人の脚でよくぞこれほど遠くまで来られたものですな、いやさすがハーフエルフといったところですか、ハッハッハ」


 ほがらかに語り掛けてくるその声に邪気のようなものは一切感じられない。だがペイトウィンは半歩足を引いて身構える。


「誰だお前は、何故俺の名前を知っている!?

 俺はお前なんか知らないぞ!?」


 勇ましく問い返すペイトウィンに、相手は両手を広げてハッと短く笑った。


「ああ、なんと冷たい一言だ。

 吾輩わがはいと貴方様の縁は決して浅くは無いというのに。」


 表情は笑ったまま首を振って嘆く男の姿が、この時初めてペイトウィン越しにエイーの目にも見えた。


 誰だアレ!?ホントに見覚えないぞ???


 エイーもペイトウィンもムセイオンであんな男は見たことが無い。ムセイオンからアルビオンニアに来るまでの間も、アルビオンニアに来てからもだ。

 北レーマ大陸で脱走した彼らが今までに見た人間はレーマ人かチューア人かランツクネヒト族か、あるいはごく少数の南蛮人だけである。レーマ人とチューア人は比較的小柄で平均身長はだいたい百六十から百七十センチくらいで背が高くても百八十に届くことはあまりない。肌の色だってずっと血色が良い。南蛮人は体格に恵まれていて身長百八十から百九十センチくらいあるし肌の色も白いが、毛髪の色はもっと明るくてあんなに真っ黒な髪の持ち主は珍しい。ランツクネヒト族も身長は高くて毛髪の色は黒や濃い茶色が多いが、肌の色があんなに白くはならない。いや、そもそもあの肌は人間のものなのか?白っぽく見えるがよく観察すると灰色っぽくすら見え、人の肌だとすれば血の気がまるで感じられない。


「誰かと勘違いしていないかな?」


 フッと半笑いを浮かべながら尋ねるペイトウィンのそれは完全に虚勢だ。相手の正体が全く掴めずに焦る内心を必死で覆い隠そうとしているが、既に相手の術中にはまっているようである。相手の男は心底呆れたように首を傾げた。


「そんなわけはないでしょう?

 先ほど貴方様は御自分がペイトウィン・ホエールキング様だとお認めになられたではありませんか。」


 チッとペイトウィンの舌打ちする声がエイーの耳にまで届く。ペイトウィンの不安と焦りが伝播でんぱしたのか、馬たちが落ち着きを無くしてしきりに首を振ったり、足踏みしたりしはじめた。


「俺は確かにペイトウィン・ホエールキングだ。

 でも俺が勘違いしてないかって訊いたのはそうじゃない。

 誰かが俺の名前をかたって何かしでかしたのを、俺がしでかしたことだと勘違いしてるじゃないかってことさ!」


 ペイトウィンの声に苛立いらだちがにじむ。

 ペイトウィンは何かにつけて相手より優位に立とうとする性格だ。ハーフエルフ特有の豊富な魔力、そして父から受け継いだ膨大な聖遺物アイテム、そしてゲーマーの血を引く聖貴族という身分は常に相手より優位に立とうとする彼の願望を実現させてきた。その彼の願望を妨げるのは大聖母フローリア・ロリコンベイト・ミルフと他のハーフエルフたちだけ……彼らの存在はペイトウィンの中でもとして既に認知できるようになってきてはいるが、それでもそうではない相手に優位に立たれるのはどうしようもなくしゃくにさわってしまう。ペイトウィンは見たこともない男を相手に、こちらは相手のことを知らないのに向こうはこちらを知っているという不利な状況に置かれ、しかも揚げ足を取られたことで冷静を失いつつあった。


「ああ!それなら心配ありませんよ。

 吾輩をだましたのは間違いなく貴方様なのですからね、?」


 男は再びニヤリと笑い、ペイトウィンの名前をわざと勿体もったいぶるようにゆっくりと、ハッキリした口調で、強調して言って見せた。ペイトウィンからすればかなり嫌味ったらしい、挑発的な言いようである。


「騙した?

 猶更なおさら何のことだかわからないな!

 そもそもお前は誰だ!?

 俺を聖貴族と知って名乗りもしないとは、無礼であろう!!」


 片方の口角を引きつらせたペイトウィンがいきどおりを露わにするが、男はどこ吹く風とばかりにお道化どけてみせる。


「おおっ!言われてみれば名乗り遅れておりましたな。

 吾輩は今、グルグリウスと名乗っております。

 どうかお見知り置きを。」


 男は名乗りながら慇懃いんぎん会釈えしゃくしてみせるが、やはりその名に二人とも聞き覚えは無く、困惑の度合いを深めるだけだった。


「グルグリウス?

 やはり知らない名だな。

 知らない男に騙されたなどと因縁をつけられても迷惑だ!

 俺の機嫌を損ねないうちに失せるがいい!」


「ハッハッハ」


 実際は既に機嫌は損なっているくせにそれでも貴族としての威厳を保とうとするペイトウィンを嘲笑あざわらうかのようにグルグリウスの笑い声が響く。


「この名を知らないのは当然ですとも。

 吾輩がこの名を名乗りはじめたのは貴方様と別れた後のことですから。」


「……馬鹿に、してるのかぁ!?」


 歯噛みするペイトウィンをなだめるように、グルグリウスは両手をかざし、まあまあと小さく動かす。


「ですが、貴方様が吾輩を騙したのは事実です。

 報酬は金貨だと言って仕事をさせながら、実際に与えてくださったのはたった一枚の黄銅貨にすぎませんでした。」


 それまで浮かべていた笑みを消して説明するグルグリウスの向ける醒めた視線に、エイーは「あっ」と小さく声を上げた。


 まさか……嘘だろ!?


 エイーは憶えていた。確かにペイトウィンは今日の夕刻、手紙を託す際に報酬は金貨だと偽ってセステルティウス貨を渡していた。だがその相手はインプだったはずだ。目の前の大男などではない。しかしペイトウィンが金貨を払うと言いながら黄銅貨を払ったのは、エイーが知る限りその一回限りである。


 あの男が、あのインプ!?まさか……そんなはずは……


「フンッ、ますます分からんな。

 俺はそんなケチな真似なんぞしたことないぞ!?

 お前の目の前に居るのは、あのペイトウィン・ホエールキングの名を継ぐ息子だ。

 因縁をつけるならもう少しマシなネタを考えた方が良いんじゃないか?」


 鼻で笑ったペイトウィンはどうやらまだ気づかないらしい。無理もない、ペイトウィンは本当に自分自身が間違って黄銅貨で払ったのであって、彼自身は金貨を払ったつもりだったのだ。

 金と黄銅……当然、両者は大きさは同じでも重さが違う。金でできた硬貨と黄銅でできた硬貨を比べれば、同じ大きさでも重さは二倍以上異なるはずだ。しかしレーマ帝国の金貨の質は悪い。経済成長に伴う金貨の需要急増に追い付かない金の採掘量を補うために改鋳に改鋳を重ねた結果、現在のアウレウス金貨の実際の金の含有量は一割を切っている。まして小さく薄い硬貨では、まとまった数を一度に比べるのでないかぎり、重さだけで違いを見極めることなどまず無理だ。


 しかし、金貨を期待して黄銅貨を渡されたグルグリウス本人からすればそのような言い訳など知ったことではない。ペイトウィンの答えも、白々しい言い逃れにしか聞こえなかった。


「ふん……やれやれ、まあしらを切るというのならそれでもいいでしょう。

 なに、今にして思えば小さき事。吾輩としましても、新たな主から新たな仕事をたまわった以上、そちらを果たすこと以外大した興味はありません。」


「新たな主?

 新たな仕事?」


「ええ、そうです。」


 ひどく失望したように首を振るグルグリウスだったが、ペイトウィンを諦めた様子はない。気を取り直したようにジロリとペイトウィンを見据えると、姿勢を正して再び慇懃いんぎんに申し出る。


「ペイトウィン・ホエールキング様、主の命によりお迎えに参上いたしました。

 どうか御同行願います。」


 その声は今までよりも低く、力強く、有無を言わせぬ意思を感じさせた。

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