第908話 馬丁

統一歴九十九年五月九日、夜 ‐ グナエウス砦ブルグス・グナエイ西山地ヴェストリヒバーグ



 馬の餌だと!?ああ……。そんなの飼葉かいば置き場にあるだろうがよ?それが分からねぇから訊いてんのさ、頼むよ。何で分かんねぇんだよ!?悪ぃなぁ、俺ぁここは初めてなもんでさぁ……。しょうがねぇなぁ、こっちだ付いて来な!ありがとよ恩に着るぜ。


 馬丁ばていは寒風と酒酔いで赤くなった鼻をグズグズ言わせながらも男を案内することにした。思えば確かにこんな男見たことが無い。

 ここのところライムント地方各地からアルトリウシアへの物資輸送でアルビオンニア中の荷馬車がグナエウス砦を利用しているので、馬丁はこの半月ほどで随分と顔見知りが増えてしまった。熟練を必要とする八頭立てや六頭立ての重馬車などを操るようなアルビオンニア属州でも名うての御者ぎょしゃは全員顔見知りになってしまったほどだ。どんな業界にも有名人というのは居るものだが、ハッキリ言ってこの業界の名の知れた御者で彼が顔も名前も知らない者など、すくなくともアルビオンニア属州ではおそらく居ないだろう。有名どころじゃなくてもこの半月でグナエウス峠を越えた御者なら大概は顔を見たことがあるはずだ。

 その彼がこの男の顔は見た覚えがない。いくら夜中で暗いとはいえ、月明かりはあるのだ。見覚えのある顔なら思い出せるはず……


「ところでアンタ、どこから来なすったね?」


 馬丁は歩きながら白い息を吐きだした。標高の高い峠のてっぺんは夜ともなると既に真冬の寒さだ。砦から見上げる山のいただきはとっくに白く染まっている。この峠が雪に振られて通行できなくなるのもあと数日といったところだろう。


「ああ、クプファーハーフェンさ。」


「クプファーハーフェン?

 そりゃまた遠くからご苦労なこったねぇ。

 荷馬車でクプファーハーフェンからとなるとここまで半月はかからんかね?」


 クプファーハーフェンはアルビオンニア属州の東のはずれ……アルトリウシアとはライムント地方を挟んだ真反対の位置にある港町だ。途中、東山地オストリヒバーグを越えねばならず、軍団レギオーが強行軍で街道を進んでも一週間はかかるだろう。それが荷馬車となるとさらに日数が必要だ。歩兵が歩くより馬車の方が早いのではないかと思われるかもしれないが、重たい貨物を積んだ荷馬車はそれほど速度を出せない。ましてや険しい東山地を乗り越えねばならないのだから、一般人が歩くのと大差ない速度しか出せないのだ。現在、グナエウス峠が雪で通れなくなる前に少しでも多くの荷物を運び込むため、アルビオンニアに存在する動員可能な荷馬車のほとんどすべてが動員されてアルトリウシアへの救援物資の輸送が続いている。そして一台一台の荷馬車にも目いっぱい貨物を積載することが求められている。そうした背景を考えると、クプファーハーフェンからグナエウス砦まで、半月くらいかかったとしても不思議ではない。


「いや、そんなにはかからなかったさ。」


 馬丁の後ろを突いて歩く男は少し迷ったように答えた。


「そうか?

 荷馬車なら急いだってそんなに速くは走れねぇだろ?」


「いやぁ、馬車じゃないんだ。

 手紙を運んでるだけなんでね。」


 馬丁は驚いて立ち止まり、背後の男を振り返った。


「何だ、アンタ早馬タベラーリウスなのかい?」


「え!?ああ、いや……公式のじゃないぜ?

 下級貴族ノビレス様に雇われてね、急ぎの手紙を運んでるのさ。」


「へぇっ、アルトリウシアへ?

 どなたのところだい?」


 貴族ノビリタスが手紙を送ること自体は珍しいことではない。軍や公的機関のための郵便システムタベラーリウスは存在しているが、公共の郵便システムが存在しないレーマ帝国では私信はどうしたところで誰かに託すか直接届ける必要がある。貴族なら配下の者に馬を貸し与えて手紙を届けさせるくらいは普通にやっていることだ。

 馬丁が興味を示したのは私信を運んでいるという男の話をいぶかしんだわけではなく、純粋にどこぞの貴族様の信認を受けているであろうこの男に興味を持ったからだった。有力な貴族の家臣ならよしみを通じておいて損はない。この男が今後もたびたびグナエウス峠を通るなら、今後も付き合うこともあるだろう。

 男はやや驚いたように言葉に詰まり、一瞬目を泳がせるとニッコリ笑った。


「“高貴な御方ノビリタス”さ」


 それを聞くと馬丁は表情を消して目を丸くし、数秒後にフッと吹き出すように笑った。


「ハッハァッ!こりゃすまねぇ、要らねえ詮索しちまったな。」


 レーマ貴族は世間に隠れてコソコソ何かをするようなことがあってはならない。恋人と交わす恋文も世間に公表することもあるくらいだ。その手紙を運ぶ使用人が自分の雇い主や手紙を届ける先を隠すのは矛盾が無いかとも思えなくもないが、これは致し方のない理由がある。郵便配達人は強盗などに襲われやすいからだ。

 いくら貴族でもすべての手紙を世間に公表するわけではない。むしろ世間に公表できない手紙の方がずっと多い。もしも悪党がそういう手紙を手に入れれば、敵に売ったり脅迫に使ったりといくらでも金に換えられるだろう。それに手紙だけでなく宝石や貴金属といった一人で運べる程度の貴重品をどこかに送る場合も、こういう郵便配達人に運ばせるのが普通だ。それでいて必ずしも護衛などが付いているわけではない。つまり強盗などのならず者たちにとって郵便配達人は襲いやすく大金を得やすい、なのだ。

 それでも誰かの使用人や被保護民クリエンテスなら自分の主人や保護民パトロヌスを隠したりはしないだろうが、一時的に雇われただけの配達人なら己の安全を守るためにも自分が誰の手紙を誰に届けようとしているのかなど安易に他人に吹聴ふいちょうしたりはしない。

 二人はひとしきり笑いあうと再び歩き始める。


「それにしても、手紙一つのためにクプファーハーフェンからわざわざ大変だな、アンタも。」


「何、これが俺の仕事さ。

 お貴族様ノビリタスって奴ぁ自分じゃ面倒くさがって行かねぇ代わりに俺みたいなのに手紙を届けさせる。

 おかげで俺も飯が食えるのさ。」


「なるほどねぇ。」


「まあ御自分で直接行く貴族ノビリタスもいるけどね。

 今日だってアルトリウシアへ行く上級貴族パトリキ様の御一行があったんじゃないのかい?」


上級貴族様パトリキ?」


 言われた馬丁は今日の夕方ごろに通り過ぎたクプファーハーフェン男爵家の馬車の一行を思い出した。


「ああ、そう言えばあったなぁ。」


「やっぱり!」


 馬丁の背後を付いて来る男の声は少しばかり喜色を含んでいるようだった。


「その上級貴族パトリキ様の御一行ってどこにいるんだい?」


「ああん?アンタ、その上級貴族パトリキ様に用でもあんのかい?」


「いや何、上級貴族パトリキ様なんだから馬車を曳く馬もさぞや上等だろうなと思ってね。

 俺ぁ馬が好きなんだ。だからこんな商売をしてるくらいでね。」


「ハッハァ、そりゃ残念だったな。」


「残念?」


「ここにゃ停まらずに行っちまったよ。」

 

「行っちまった!?」


 頓狂とんきょうな声を上げた背後の男の足音が止まったことに気づいた馬丁は歩みを止め、再び振り返った。そこには鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした男が突っ立っていた。


「ああ、まだ陽があったからな、少しでも先へ行きたいんだとさ。

 兵隊さんがダイアウルフが出るから明日にしろって止めたらしいんだけどね。」


 馬丁はそう言ってハハッと笑うと再び歩き始める。男はすぐに我に返ると小走りで馬丁に追いついてきた。


「その話、もう少し聞かせてもらっていいかい?」

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