第908話 馬丁
統一歴九十九年五月九日、夜 ‐
馬の餌だと!?ああ……。そんなの
ここのところライムント地方各地からアルトリウシアへの物資輸送でアルビオンニア中の荷馬車がグナエウス砦を利用しているので、馬丁はこの半月ほどで随分と顔見知りが増えてしまった。熟練を必要とする八頭立てや六頭立ての重馬車などを操るようなアルビオンニア属州でも名うての
その彼がこの男の顔は見た覚えがない。いくら夜中で暗いとはいえ、月明かりはあるのだ。見覚えのある顔なら思い出せるはず……
「ところでアンタ、どこから来なすったね?」
馬丁は歩きながら白い息を吐きだした。標高の高い峠のてっぺんは夜ともなると既に真冬の寒さだ。砦から見上げる山の
「ああ、クプファーハーフェンさ。」
「クプファーハーフェン?
そりゃまた遠くからご苦労なこったねぇ。
荷馬車でクプファーハーフェンからとなるとここまで半月はかからんかね?」
クプファーハーフェンはアルビオンニア属州の東のはずれ……アルトリウシアとはライムント地方を挟んだ真反対の位置にある港町だ。途中、
「いや、そんなにはかからなかったさ。」
馬丁の後ろを突いて歩く男は少し迷ったように答えた。
「そうか?
荷馬車なら急いだってそんなに速くは走れねぇだろ?」
「いやぁ、馬車じゃないんだ。
手紙を運んでるだけなんでね。」
馬丁は驚いて立ち止まり、背後の男を振り返った。
「何だ、アンタ
「え!?ああ、いや……公式のじゃないぜ?
「へぇっ、アルトリウシアへ?
どなたのところだい?」
馬丁が興味を示したのは私信を運んでいるという男の話を
男はやや驚いたように言葉に詰まり、一瞬目を泳がせるとニッコリ笑った。
「“
それを聞くと馬丁は表情を消して目を丸くし、数秒後にフッと吹き出すように笑った。
「ハッハァッ!こりゃすまねぇ、要らねえ詮索しちまったな。」
レーマ貴族は世間に隠れてコソコソ何かをするようなことがあってはならない。恋人と交わす恋文も世間に公表することもあるくらいだ。その手紙を運ぶ使用人が自分の雇い主や手紙を届ける先を隠すのは矛盾が無いかとも思えなくもないが、これは致し方のない理由がある。郵便配達人は強盗などに襲われやすいからだ。
いくら貴族でもすべての手紙を世間に公表するわけではない。むしろ世間に公表できない手紙の方がずっと多い。もしも悪党がそういう手紙を手に入れれば、敵に売ったり脅迫に使ったりといくらでも金に換えられるだろう。それに手紙だけでなく宝石や貴金属といった一人で運べる程度の貴重品をどこかに送る場合も、こういう郵便配達人に運ばせるのが普通だ。それでいて必ずしも護衛などが付いているわけではない。つまり強盗などのならず者たちにとって郵便配達人は襲いやすく大金を得やすい、おいしい獲物なのだ。
それでも誰かの使用人や
二人はひとしきり笑いあうと再び歩き始める。
「それにしても、手紙一つのためにクプファーハーフェンからわざわざ大変だな、アンタも。」
「何、これが俺の仕事さ。
おかげで俺も飯が食えるのさ。」
「なるほどねぇ。」
「まあ御自分で直接行く
今日だってアルトリウシアへ行く
「
言われた馬丁は今日の夕方ごろに通り過ぎたクプファーハーフェン男爵家の馬車の一行を思い出した。
「ああ、そう言えばあったなぁ。」
「やっぱり!」
馬丁の背後を付いて来る男の声は少しばかり喜色を含んでいるようだった。
「その
「ああん?アンタ、その
「いや何、
俺ぁ馬が好きなんだ。だからこんな商売をしてるくらいでね。」
「ハッハァ、そりゃ残念だったな。」
「残念?」
「ここにゃ停まらずに行っちまったよ。」
「行っちまった!?」
「ああ、まだ陽があったからな、少しでも先へ行きたいんだとさ。
兵隊さんがダイアウルフが出るから明日にしろって止めたらしいんだけどね。」
馬丁はそう言ってハハッと笑うと再び歩き始める。男はすぐに我に返ると小走りで馬丁に追いついてきた。
「その話、もう少し聞かせてもらっていいかい?」
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