第907話 侵入者

統一歴九十九年五月九日、夜 ‐ グナエウス砦ブルグス・グナエイ西山地ヴェストリヒバーグ



 グナエウス砦ブルグス・グナエイには他のレーマ帝国のブルグスには見られない大きな特徴がある。小規模だが、砦の内側に街があることだ。

 レーマ軍は兵站へいたんを支える補給物資の輸送の大部分を商人に委ねていた。軍が必要とする物資のほとんどは商人たちも扱っている。商人なら商品の品定めも仕入れも輸送も保管管理もお手の物だ。軍で兵站へいたんの全てを担うよりも、餅は餅屋で商人に任せた方が効率がいいに違いない。軍は最低限の物資と物を買うための金を運びさえすれば、あとは必要な物は全て商人が戦場まで運んでくれるというわけだ。

 ただ、一口に商人といっても正直な者も居れば詐欺師まがいの悪徳商人もいる。他に商売敵しょうばいがたきのいない戦場で品質の劣悪な物資を掴まされた挙句あげく金をぼったくられたのではたまらないから、信用のおける商人と契約を結び独占的に商売をすることを許すのだ。それが指名御用商人と呼ばれる者たちであり、特に御用商人たちの取りまとめ役を務める筆頭御用商人には、兵站隊長という肩書と共に大きな権限が与えられる。


 で、この御用商人たちも戦場や駐屯地まで必要な物資を運び、そこで物資を商品として売らねばならない。ただ運んで軍事基地の倉庫へ運び入れて終わりではただの運び屋だ。その程度では仕事を請け負った商人としても儲けが少ないし、商人に兵站を任せた軍としても旨味が少ない。

 軍は必要な物資を備蓄分も含め必要なだけ買い入れるが、それとは別にある程度余剰物資をストックして、イザという時の急な発注に対応できるようにしておかねばならないのだ。軍団兵レギオナリウスたちの個人的な買い物にも当然対応する必要がある。そのためには自前の倉庫が必要であり、倉庫や倉庫に納めた商品を管理するための事務施設が必要であり、実際に売買するための店舗が必要になる。

 そういった店舗は通常、基地の前に作られるのが常であった。軍は要塞カストルムや砦といった基地を建設する際、その門前に御用商人たちのための土地を用意して御用商人たちに店舗を構えさせるのが常であった。こうしてできる街を城下町カナバエとか門前町ウィークスなどと呼ぶ。そして基地の周りには将兵の家族たちも移り住むようになり、そうした住民たちを相手に商売をする商人たちも現れて街は発展していく。


 ところが峠のてっぺんに山を削って無理やり平地を作ったグナエウス砦の周辺にはそうした城下町が作れるほどの土地が無い。砦の正門ポルタ・プラエトーリアのすぐ前はもうグナエウス街道であり、その向こうは岩山だ。実はグナエウス砦の建設が始まった当初、城下町を作ることなど最初から考えられていなかったのだ。

 グナエウス砦は軍用の宿泊施設として考えられていた。シュバルツゼーブルグとアルトリウシア間を軍団レギオーが移動する際、どうしても途中で一泊する必要がある。だが、峠道の途中で一個軍団五千人もの兵馬が休息をとれるようなまとまった土地など存在しない。このままではせっかく軍団が通れる立派な街道があるのに、途中で安全に宿泊できる場所が無いせいで軍団がその街道を通って移動することが難しくなってしまう。そこで、グナエウス街道のちょうど中間地点であり、グナエウス峠のてっぺんにある山を大胆に削って強引に土地を確保したのだ。

 周囲は崖と岩しかなく、水源は砦の中の井戸しかない。砦も軍団が移動する時だけに使う宿泊施設であって、あとは早馬タベラーリウスと街道の治安維持のための警察消防隊ウィギレスが駐留する中継基地スタティオとしての最小限の機能を有するだけなのだ。城下町など作ったところで商売なんか成立しないから商人だって引っ越してこようなどとは思わないだろう。そのような背景から誰も城下町を作る必要性など認めなかったのだ。


 ところが実際に街道が出来てみると、軍関係者以外の一般人の往来が予想以上にあることがわかった。考えてみればライムント地方とアルトリウシアをつなぐ最短ルートなのだから利用者が居ないわけがない。そしてグナエウス砦のある峠の頂上付近は、街道の外は山側も谷側も断崖絶壁だんがいぜっぺきか岩肌が露出した急傾斜地きゅうけいしゃちで野宿できる場所が砦の真ん前しかない。実際、街道が開通してからというもの、砦の前で野宿し、砦に井戸の水を無心する一般人が絶えなかった。

 で、結局砦の一部を一般人も利用できる宿駅マンシオーとして改築し、宿駅の運営を担う御用商人のための店舗を砦の敷地内に設けることとなったのである。


 結果的にそれは成功したと言えるだろう。軍事施設としてはどうかと思えなくもないが、ハン支援軍アウクシリア・ハンの叛乱事件を受けてライムント地方からアルトリウシアへの物資輸送が極端に増加している現在、民間人の利用を前提に建設された宿駅は輸送を担っている荷馬車の馬車馬や御者たちの宿泊施設として十全に機能することが出来ていたからだ。

 そして同時に一つの失敗も起きていた。一部とはいえ軍事施設内に民間人用の施設を設け、開放することに反対した者たちの懸念が今、現実のものとなっていたからだ。砦内への“敵”の潜入を許したのである。


「よぉ、ちょっとそこのアンタ!」


 その男はどこからともなく現れた。一日の仕事を終え、仲間たちと安酒ロリカみ交わし、イイ感じに酔った馬丁ばていの一人が自分の家よりもずっと立派な宿駅で寝る前に外の便所へ寄ったところ、うまやの馬たちがやけに騒いでいるのに気づいたのだ。何だ、何かあったのかと厩の方へ足を向けようとしたところ、その男は暗闇の中から突然現れ、声をかけてきた。


「おうっ!?

 何だアンタ、どこから現れた?」


 暗闇から現れた黒づくめの男は、ひどく驚いている馬丁にやけに愛想よく笑い、申し訳なさそうに頭を掻いた。


「おっと、驚かせてスマンね。

 いや何、寝る前に馬の様子を見に来たんだが……」


「ええ?!……なんだ、今馬が騒いでんのはアンタのせいか?」


「ああ、ちょっと他の馬を驚かしちまったみたいだ。

 スマンスマン。」


 せっかく気持ちよく酔っていたところを驚かされ、外気の寒さもあって一気に酔いのめる思いをした馬丁は本来なら機嫌を悪くするところだったろうが、やけに腰の低い男の振りまく愛想に当てられたのか特に怒鳴り散らすようなことも無く、ただフゥーッと大きくため息をついた。


「気を付けてくれ。

 厩には他の奴の馬だっているんだ。

 アンタの馬だけならともかく、他人様の馬を驚かせて怪我でもされたらたまったもんじゃない。」


「ああ本当にスマン、

 俺も驚かすつもりなんかなかったんだが、自分の馬がちゃんと餌を食ってるかどうか気になったもんでね。」


 馬は家畜だが、大変な財産でもある。大喰おおぐらいであり、デリケートで手間がかかり、調教も必要な馬は育て上げるだけで相当なコストがかかる。一頭だけでも一財産なのだ。そしてとてもやさしく、人間と心を通わせることも出来る獣でもある。

 そうした家畜であるからこそ、御者や馬丁たちのの中には馬に対して特別な感情を抱いている者も少なくない。この馬丁もそうした人物の一人だったのだろう。馬が心配だったという男の話をすんなりと信じた。がらにもなく男を慰めるように優しい言葉を投げかける。


「まあ、気持ちは分るよ。

 こんな人里離れた山の上、慣れない場所に来て落ち着かなくなる馬は珍しかないさ。

 で、アンタの馬は大丈夫だったかい?」


「ああっ!

 食が細くなるかと思ったが、心配なかった。

 全部食ってたよ。」


「ハッ、そりゃよかった。

 じゃあ安心して寝るんだな。

 明日も早いんだろ?」


 男の返事を聞いた馬丁は半笑いを浮かべ、そのまま宿駅へ帰ろうきびすを返した。が、そこで男が思い出したように馬丁を呼び止める。


「ああっ!待ってくれ!!」


 馬が餌をちゃんと食べてたんならもう大丈夫だろ……そう思っていた馬丁は唐突に呼び止められて眉を寄せた。


「何だよ!?」


 振り返った馬丁の苛立いらだちを含んだ言葉に男は心底申し訳なさそうに尋ねた。


「それが、どうも餌が足らなかったみたいでね。

 追加で欲しいんだが、何処に行けば貰えるか教えてもらっていいかな?」

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